直感のボーダーライン
リリィの声が聞こえてきて幸彦は思わず、安堵の息を吐いて肩を落とした。
ああ、よかった。無事だったんだな。
なにがどうあれ、リリィが無事であればそれで良い。
幸彦の用事はさっきの会話を聞く事で終わっていた。リリィが『お父様』と呼び、そのお父様らしき誰かが『お前を守る為だ』と言った。
幸彦の中でとりあえず、誘拐騒ぎは完結した。
考えてみれば、なるほど。部屋に現れた兵隊達はリリィを取り返しにきたのだろう。
幸彦だって、突然のリリィの訪問には驚いた。
リリィがあんまりにも堂々と生け贄だなんだと言うので、妖精や小人の間では当たり前の事だと思っていたがそんなことは無かったと言う訳だ。
そりゃ、まあ、家族の一人が突然居なくなったら心配するのは当然だよな。
幸彦はそう考え、納得した。
裕の眼鏡がぶっ壊れただけで、めでたしめでたしってわけだ。
スッと心が軽くなり、幸彦はまあ、家に帰るかと言う気持ちになっていた。
なにはともあれ、一件落着である。
だが聞こえてくる言い争いは激しさを増してきていた。
『この馬鹿娘が!! なぜわからん!!』
一際大きな怒声の後で溜め息の後に声が響く。
『もうよい。リリィ、王として命ずる黙れ』
何か不穏な空気が周囲に漂う。
幸彦も何かすごく、嫌な予感がした。
王様と言うのは……王様だ。今この場のすべての頂点だ。
この場と言うのは幸彦に槍の矛先を向け、弓を引いている兵隊すべての。さらに言えば目の前に見える町のすべての頂点の言葉だ。
黙らないとまずい。それはほぼ確実にまずい。
民主主義と資本主義の世界で産まれて、生きてきた幸彦でさえわかる。
王様の命令というのは大事なんじゃないのか?
だが幸彦の心配をよそにリリィの声が放たれる。
『ならば私は娘として言います!』
王の命令に背き、リリィは胸を張り、目を鋭くして言った。
『今すぐ、兵に武装を解かせるんです!』
こりゃまずい。まずい。絶対にまずい。なにがまずいって。
王様よりリリィの声の方が熱があった。
反発して言っているのとは、少し違う、信念と覚悟に基づいた声だった。
幸彦は自分の直感を信じて生きている。信じると言うより、直感を感じた瞬間には動
いていると言った方が正しい。
これは双子の裕に言わせれば、考えられない行動に見えるらしい。
『考える前に動くなんて、大変じゃない?』
実際にそう言われた事もある。
幸彦としても、それで失敗した事もある。反省もする。だが気がついたら動けている。もう理屈ではないのである。
幸彦の足下に突き刺さった矢は境界線だった。射程距離だ。
踏み込めば針のような矢が刺さる距離だ。踏み固められた地面にだって刺さる矢が当たるかもしれない距離だ。
まともに考えれば踏み込まない。
だからまともに考えない幸彦は踏み込んでいた。かっこいいからと買った彼の履くブーツが地面に突き刺さった矢を踏みつぶす。
『姫を捉えよ!!』
「巨人が来るぞ!!」
兵士が気がついたが、幸彦もようやく気がついた。
ああ、こりゃ。ゴーグル付けててよかったな。
幸彦が考えたのはそれだった。おおよそ、それだけだった。
兵士には迷いが合った。
王の命を聞くべきか、姫の訴えに耳を貸すべきか。戸惑いがタイミングを遅らせた。
それでも巨人が脅威である事に違いは無い。
敵である可能性があるのなら、そうした責任感と怯えが弓の弦を引き絞らせる。
「撃てぇええ!!!」
慌てて放たれた矢の狙いは甘いが、数が違う。一番に放たれた矢へ続けとばかりに次々と矢が飛んでくる。
縫い針より細い矢でも、鋭く尖った矢尻は縫い針より太い。刺されば痛いが、のたうち回って動けなくなるほどの衝撃は無い。
ぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶす。
「いっってぇえええええええええええ!!!」
近づく、町へと入る為の門は閉じられている。城壁の高さは幸彦の腰くらい。城壁の幅は手のひらが付く程度。
思い返すのは弟の顔だった。昔跳び箱が跳べないと言っていた弟の顔である。
その弟を鍛えたのは何を隠そう兄である幸彦だ。自分は跳び箱八段を片手で飛べる男なのだ。
城壁の上にずらりと並ぶ兵士達の隙間に手をついて、幸彦は城壁を飛び越えた。
城壁にいる武装した妖精と小人達は日の光を遮って、宙を舞う巨人の姿に目を見張る。
幸彦は大通りに着地して全力で走った。厚手のズボンを履いた下半身に矢は刺さっていないが上半身は気の毒な事になっている。特に暑くて上着を脱いでむき出しだった腕は矢が何本も刺さっていた。
『であれば、私は姫として。いいえ、生け贄として義理を通します』
矢の刺さった腕を降って全力で走る彼の目は先ほど見えたリリィのいた場所を見つめている。
『な、なにを言って——』
大きな声が響いていた。
幸彦はとにかく走る。城門からまっすぐ伸びた大通りを全力で。
そして捉えた。金色の髪の後ろ姿が城のてっぺんのバルコニーに見える。
『謝罪は、この命を持って』
その捉えた姿が宙を舞った。
日の光に金色の髪がなびく。
それを見上げて、幸彦は愕然とする。
妖精だ。飛べるから。そう笑い飛ばせないほどに彼女の言葉には力が合った。
なにを許すのか。誰が許すのか。一体なにを言ってるんだ。
幸彦がリリィの事に関して知っている事などほんの少しだ。
だがそのほんの少しの知識が教えてくれる。
彼女は自分を生け贄にして誰かを助けようと願える心を持っているのだと言う事を。
それが裏返れば。
彼女は自分の値段を安く見積もっているのだと言う事が。
幸彦の足をより早く踏み込ませる。
彼女の姿が重力に引かれる。
その距離は遠く、走っても間に合わない。
直感に従って、幸彦は腰に手を回した。腰で撒いていた厚手のダウンジャケットを解き、懸命に駆け抜けながら振りかぶる。
体の勢いを使ってダウンジャケットの袖を持って腕と腰を横にめいいっぱいひねって、勢いを付けて全身をひねるようにしてぶん投げる。
走った勢いと遠心力で加速されたダウンジャケットが回転しながら宙を舞う。
当然全力疾走中にそんな事をすれば当然体のバランスが崩れる。全神経を投擲する事だけに割いていればなおの事で、指先がダウンジャケットから離れた瞬間幸彦の足の裏は体重を支える事を放棄した。
動く視界の中で幸彦は投げたダウンジャケットの軌道を必死で追いかける。
投げたジャケットが金色の落下物をくるむようにして城の城壁の向こうへ落ちるのを見届けてから、幸彦は石畳へ顔面から着地した。




