第3話 グレンの夜
リーゼが自室にいない。
ふとそう気づいて、グレンは机に向けていた視線を上げた。
探したわけではない。
ただリーゼのことを意識した瞬間、彼女の家とは違う場所にいることが分かった。
町の外れに近い。
ここからどちらへ、どのくらい離れているのかまで、考えるより先に頭へ入ってくる。
《飼育》が成立してから、ずっとそうだった。
グレンは窓の外を見た。
通りはもう暗い。向かいの家も灯りを落としていて、遠くにいくつか明かりが残っているだけだった。
昼間に別れた時、リーゼはそのまま家へ帰っている。
それから何時間も経った今になって、一人で町外れへ出ているらしい。
何をしているのか。
グレンはしばらく窓の外を見ていた。
気にはなる。
けれど、だからといって様子を見に行くのも違う気がした。
こちらが居場所を知っているのは、リーゼが教えたからではない。《飼育》が勝手に分からせてくるだけだ。
それを理由に、夜中にどこへ行ったのかいちいち確かめに来られたら。
「……嫌だよな」
小さく呟いて、グレンは机へ視線を戻した。
開いた書類の続きを読む。
数行進んだところで、同じところをもう一度読んでいることに気づいた。
指で紙の端を押さえ、そのまましばらく動かなかった。
あの日から、まだ数日しか経っていない。
リーゼは長く積み重ねてきたものを、大きく失ったばかりだ。
それでも昼間まではいつも通りだった。
冒険者たちと笑って話していたし、自分にも普段と変わらない調子で軽口を叩いていた。
そのリーゼが、この時間に町外れにいる。
散歩かもしれない。
眠れなくて外へ出ただけかもしれない。
何か用事を思い出した可能性だってある。
グレンは書類へ目を戻した。
続きを読もうとする。
やはり頭に入らない。
しばらくして、紙を机へ置いた。
「……」
結局、気になっている。
本人からすれば余計なお世話だろう。
そう思いながら、グレンは上着を取った。
夜の通りを歩きながら、何度か足を緩めた。
今からでも戻った方がいい気がする。
無事かどうかだけ確かめる。
それだけなら。
そんなことを考えている時点で、もうかなり怪しい。
グレンは一度立ち止まりかけた。
けれど、結局そのまま歩いた。
町の中心を離れるにつれて人影が減っていく。
家並みも途切れ、明かりも遠くなった。
そのあたりまで来たところで、行き先に心当たりが浮かぶ。
この先には、古い訓練場がある。
もしかして。
そう思った直後、夜気の向こうから剣が風を切る音が届いた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
グレンはそこで足を止めた。
肩の力が抜けた。
自分が何を心配していたのか、はっきり形にしていたわけではない。
ただ、その音を聞いた瞬間に、随分と安心している自分がいた。
「……剣か」
それなら。
そう思ったあとで、今度は別のことが気になった。
怪我はまだ残っている。
今日は長い馬車移動を終えたばかりでもある。
グレンはしばらくその場にいた。
帰る。
そう決めかけて。
もう一度、剣の音が聞こえた。
結局、訓練場が見えるところまで近づいた。
木柵の向こうに、リーゼの姿がある。
一人で剣を振っていた。
視界に捉えた途端、別の情報まで自然に意識へ入ってくる。
活力は十分ではない。
休息も足りていない。
身体には疲れが残り、傷にもまだ負担がかかっている。
それでも、今すぐ止めなければ危険というほどではなかった。
グレンは小さく息を吐いた。
それだけ確認できれば、もう帰っていい。
そう思った。
リーゼはまだこちらに気づいていない。
剣を振る。
途中で止まる。
構え直す。
もう一度。
グレンの足は動かなかった。
剣そのものは、今でも十分に上手い。
少なくとも、知らない人間が見れば弱ったとは思わないだろう。
けれど、グレンは以前のリーゼを知っている。
何度も隣で戦ってきた。
どの間合いから踏み込むのか。
どれくらいの速さで剣が返ってくるのか。
強化魔法を重ねた時、どこまで一息で動けるのか。
考えなくても分かるくらいには見てきた。
その動きが、今はところどころ途切れる。
ほんの一瞬遅れる。
剣先がわずかに流れる。
止まって、また最初からやり直す。
強化魔法を重ねると、その差はさらに目についた。
踏み込みに速度が乗らない。
身体と剣が、以前のようには噛み合っていない。
グレンは木柵の陰で黙っていた。
必要なことだった。
あの場で生き残るには、それしかなかった。
自分が提案して、リーゼが決めた。
昨日も、そう言われている。
そんな顔をされる謂れはない、と。
目の前で、リーゼの剣がまた止まった。
すぐに構え直す。
もう一度振る。
誰もいない訓練場で。
こんな時間に。
グレンはようやく、そのことへ意識が向いた。
昼なら他の冒険者も使う場所だ。
わざわざ夜中まで待って、一人になってから来ている。
誰にも見られたくなかったのだろう。
その瞬間、さっきまで眺めていたものが急に違って見えた。
リーゼが隠そうとしたものを。
《飼育》で居場所を知った自分が、本人に黙って見に来ている。
心配だったから。
無事か確かめたかったから。
理由はいくらでもつく。
そうだとしても。
これは、ひどい裏切りだ。
グレンは視線を外した。
木柵の向こうで、また剣が鳴る。
止める必要はない。
リーゼは無事だ。
それが分かったなら、これ以上ここにいる理由はなかった。
グレンは踵を返した。
背後で、もう一度剣が風を切る。
今度は振り返らなかった。




