第4話 《恩寵の魔王》
翌日の昼過ぎは、よく晴れていた。
開けた窓から、通りの音が絶えず入ってくる。石畳を荷車が通り、どこかの店先では客を呼ぶ声が上がっている。少し離れたところからは、子供たちの笑い声も聞こえた。
窓辺には明るい日差しが落ち、風が入るたびに薄いカーテンが揺れていた。
数日留守にしていた間も、この辺りはきっとこんなふうだったのだろう。
グレンの部屋で、リーゼはしばらく窓の外を眺めていた。
今日は、会話が途切れたあとの沈黙が少し長かった。
グレンも、次の話題を急いで探そうとはしない。
やがてリーゼが視線を戻した。
「……なあ、グレン。例の本って、ボクも読める?」
グレンが顔を上げる。
《恩寵の魔王》が遺した、《飼育》についての本。
「キミから聞いたことしか、ボクは知らないからね。これから付き合っていくものなら、自分でも読んでおきたい」
「……そうだな」
返事はしたものの、グレンはそこで止まった。
リーゼが少し待つ。
「何か問題があるのかい?」
「問題ってほどじゃない」
「じゃあ、読ませたくない?」
グレンは眉を寄せ、窓の方へ一度視線をやった。
「……全くないとは言えないな。分かってると思うが、あまり気分のいい本じゃない。地下で話したのは、能力として必要なところが中心だったから」
「それなら、余計に自分で読んだ方がよさそうだ」
返事は早かった。
グレンは小さく息を吐き、机の上で組んでいた指をほどいた。
「俺の手元にはない。実家の書庫にある」
「遠い?」
「いや。馬車なら日帰りできる」
リーゼが少し目を丸くした。
「そんなに近いんだ」
「ああ」
「もっと遠いところだと思ってたよ」
「なんで?」
「なんでって……」
リーゼは首を傾げた。
「キミ、昔の話をほとんどしないだろ。家族がいることくらいは知ってるけど、どこに住んでるとか、どんな人たちなのかとか、その辺は全然」
「……そうだったか」
「うん。何年も一緒にいるのにね」
少し笑って言われ、グレンは黙った。
隠していたつもりはない。ただ、わざわざ話す機会もなかった。
「今日、行ける?」
リーゼが訊いた。
グレンは一拍置いて頷いた。
「ああ。行こう」
その日のうちに、二人は馬車へ乗った。
──
街を離れるにつれて、窓の外を流れていた建物が減っていく。代わりに畑と低い林が続き、車輪が土の窪みを拾うたびに座席が小さく揺れた。
途中から、リーゼはあまり話さなくなった。
グレンも口数は少ない。
見慣れた分かれ道。
遠くに見える林。
昔から変わらない小さな橋。
グレンにとっては何度も通った道だった。
その景色の横にリーゼが座っていることだけが、いつもと違った。
馬車を降りてから、さらに少し歩く。
やがて石塀の向こうに、灰色の屋根が見えてきた。
ローデン家は街道から少し奥まったところにあった。
古い石塀に囲まれ、鉄の門の向こうに屋敷が立っている。大きさの割に装飾は少なく、正面の窓も細い。長く使われてきた建物らしく、石壁にはところどころ色の濃淡があった。
リーゼは門の前で足を止めた。
「……ここがキミの家か」
「ああ」
グレンが門を開ける。
蝶番が低い音を立てた。
リーゼはもう一度屋敷を見上げ、その後ろについて敷地へ入った。
初めて見るグレンの実家だった。
普段なら聞いてみたいこともいくつかあったはずなのに、玄関へ近づくほど、それらは口から遠ざかっていった。
胸元へ手が伸びかける。
リーゼは途中で気づき、その手を下ろした。
扉の向こうは、外よりも少し暗かった。
厚い壁に遮られて、昼の明るさが急に遠くなる。磨かれた床と古い木の匂い。広い玄関にも余計な飾りはなく、壁際にいくつか家具が置かれているだけだった。
グレンが帰宅を告げる。
少しして、奥から足音が近づいてきた。
現れた男を見て、リーゼはすぐに父親だろうと思った。
体格そのものはグレンほど大きくない。それでも眉や目元には、よく似たところがある。
男はまずグレンを見た。
「戻ったか」
「ああ」
それから、リーゼへ視線が移る。
ほんのわずかに間があった。
「リーゼ・アルヴェイン。俺が組んでる冒険者だ」
「初めまして」
リーゼが頭を下げる。
父親も短く名乗り、軽く頷いた。
それ以上、初めて来た客を囲んで話を広げるようなことはしなかった。
大崩落についていくつか尋ねられ、グレンが答える。
リーゼにも怪我の具合を聞かれた。
「もう大丈夫です」
そう返すと、父親は一度だけ頷いた。
やがてグレンが口を開く。
「書庫を使いたい」
父親がわずかに顎を上げた。
「何を見る」
「《飼育》の本」
その瞬間、父親の目がリーゼへ向いた。
ほんの一瞬。
それだけだった。
リーゼは何も言わず、その視線を受けた。
服の下に隠した《証》が、急に近く感じられた。
「彼女も読むのか」
「ああ」
父親はもう一度リーゼを見た。
「……分かった」
それ以上は何も聞かなかった。
グレンが先に歩き出し、リーゼもその後へ続く。
廊下を曲がって姿が見えなくなったところで、リーゼが小さく息を吐いた。
「……気づかれたかな」
グレンは少し間を置いた。
「分からない」
「だよね」
それで終わった。
二人は家の奥へ進む。
普段使われている部屋を過ぎると、人の気配が薄くなった。窓も少なくなり、廊下は次第に暗くなる。
その一番奥で、グレンが足を止めた。
古い扉が一枚、壁に埋まるようにして立っている。
グレンが腰から鍵を取り出した。
金属の噛み合う音が、静かな廊下に響いた。
扉の向こうには、窓のない書庫があった。
四方を棚が囲み、古い本や綴じられた記録が隙間なく収められている。紙と革、それにわずかな埃の匂いがこもっていた。
グレンが燭台へ順に火を移していく。
「ここにあるの?」
「ああ」
一番奥の棚で背表紙を追い、しばらくして腰を落とした。
「……あった」
棚の奥から、一冊の本を抜き出す。
リーゼの目がそちらへ向いた。
本というには、ずいぶんと大きかった。
厚い革で綴じられた表紙は普通の書物より一回り以上大きく、背も異様に分厚い。片手に持って読むような代物ではなく、グレンも両手で抱えるようにして運んでいる。
机へ下ろすと、鈍い音がした。
「……すごいな」
リーゼが呟く。
表紙には細かな傷が入り、縁は黒ずんでいた。華美な装飾はなく、古い文字が刻まれているだけだった。
グレンが表紙を開く。
厚い紙が擦れた。
中も外見に違わず、ひどく密だった。
細かな文字が頁いっぱいに並び、その間へ注釈や事例が隙間なく差し込まれている。章立てや索引は整えられているのに、読み手のために内容を噛み砕く気だけはないらしい。
リーゼは最初の数頁を追い、ゆっくりと次へ進んだ。
やがて、その手が止まった。
一人の名前が記されていた。
リーゼも知っている。
《恩寵の魔王》に仕え、将としていくつもの戦場に名を残した剣士だった。
けれど、その下に続いているのは武勇伝ではない。
いつ《飼育》へ加えたのか。
何を伸ばし、何を変え、その結果どうなったのか。
数年にわたる記録が、短い所見とともに並んでいる。
後世では大きく語られる戦いさえ、ここでは育成した能力が実戦でどう働いたかを確かめる材料の一つにすぎなかった。
リーゼは黙って頁をめくった。
次は魔術師だった。
その先には軍人。
王族。
今でも歴史書に名前の残る者が、次々と現れる。
立場も身分も違う。
それが、この本の中では、誰もが同じように《飼育対象》として記録されていた。
「……キミ、これ全部読んだのかい?」
リーゼが顔を上げる。
「ああ」
「それって、いくつの時?」
「スキルが発現した頃だから、十三だ」
リーゼは本とグレンを交互に見た。
「なるほど。素晴らしい情操教育だね……」
グレンは何も言わなかった。
さらに何頁か進む。
そこで、リーゼの手が止まった。
「……待って」
先ほどまでより低い声だった。
頁の上の名前を見つめる。
「この人、魔王軍じゃないだろ」
「ああ」
そこに記されていたのは、《恩寵の魔王》と敵対した側の人物だった。
魔王へ抵抗した王国の騎士。
何度も魔王軍と戦い、今でも英雄として名の残る人物。
その名前の下にも、他と何も変わらず記録が続いている。
リーゼはしばらく動かなかった。
「……どういうことだ、これ」
グレンにも答えはなかった。
頁をめくる。
その先にも、また別の名前があった。
さらに次へ進む。
記録は途切れない。
やがて、頁をめくる間が少しずつ長くなっていった。
燭台の火が揺れ、紙の上を細い影が動く。
リーゼはしばらく黙って読み続けた。
やがて手を止め、本から顔を上げる。
「……これ、今日一日で把握できるようなものじゃないね」
「まあ、そうだよな」
グレンも開かれた本を見る。
机の上を大きく占領したそれは、まだほんの一部しか読まれていなかった。
グレンは椅子を引いて立ち上がった。
「少し待っててくれ」
「どうしたの?」
「ちょっと話してくる」
父親は先ほどと同じ部屋にいた。
グレンが入ると、手元の書類から顔を上げる。
「あの本、しばらく持っていってもいいか」
父親の手が止まった。
「家の外へ?」
「そうだ」
すぐには返事がなかった。
父親はグレンを見たあと、開いた扉の向こうへ一度だけ視線をやった。
「……分かった。傷めるな。必要がなくなったら戻せ」
「ああ」
書庫へ戻る。
リーゼはまだ同じ場所に座り、本を開いたまま待っていた。
「持って帰れることになった」
「これを?」
「ああ」
リーゼは改めて本の厚みを見る。
「……運ぶだけでも一仕事だな」
ようやく少しだけ口元が緩んだ。
「何も聞かれなかった?」
「何も」
「そっか」
グレンは本を閉じた。
両手で抱え直す。
二人はそのまま書庫を出た。




