第2話 リーゼの夜
その夜、リーゼは早めに床へ入った。
久しぶりの自分の部屋だった。
使い慣れた寝具に身体を沈めると、ようやく帰ってきたのだという実感が湧く。身体も十分に疲れている。あれからまだ数日しか経っていないし、今日は長いこと馬車にも揺られていた。
すぐに眠れると思っていた。
けれど、いざ横になってみると、妙に頭が冴えている。
窓の外から、ときおり人の声が聞こえた。しばらくするとそれも減り、代わりに遠くを通る車輪の音が目立つようになる。
リーゼは仰向けのまま天井を見た。
朝は何を食べよう。
まだ片づけていない荷物もある。
しばらくは、急いで何かをする必要もない。
最初は、その程度だった。
いつの間にか、その「しばらく」の先を考えていた。
怪我が治ったら、また冒険者として戻るのだろうか。
次に誰かの前で剣を抜いた時、自分はどんなふうに見えるのか。
昼間の顔が浮かぶ。
怪我が治ってから戻ればいい。
そう言って、安心したように笑っていた。
リーゼは布団の中で身体の向きを変えた。
今までならできたことができない。
剣が思うようについてこない。
強化魔法も以前のようには扱えない。
驚かれる。
気を遣われる。
心配される。
そこまでは、まだいい。
憐れまれるのだけは、たまらなく嫌だった。
布団を少し引き上げる。
やめよう。
まだ怪我も治っていない。
どうなるかも分からないうちから、その先まで考えても仕方がない。
寝る。
明日になれば、もう少しましな頭で考えられる。
しばらくじっとしていた。
今度はグレンの顔が浮かんだ。
リーゼは小さく息を吐いた。
グレンには、もっと見られたくない。
調子がいい時も悪い時も、長く隣で見られてきた。わざわざ言葉にしなくても、動きがいつもと違えば気づかれる。
そのグレンの前で。
以前なら当たり前にできたことに躓く。
昼間の、黙って歩いていた横顔まで思い出してしまった。
「……」
また寝返りを打つ。
いっそ剣を置くという手もある。
そこで、今度は実家のことが浮かんだ。
前から何度も、帰ってこいと言われている。
危ない仕事を続けなくてもいい。
いつでも戻ってくればいい。
今回のことを知れば、なおさらだろう。
帰れば歓迎される。
何も責められない。
生きて戻っただけで十分だと言ってくれるはずだ。
それなら、もう誰かの前で今の自分を見せなくてもいい。
そこまで考えて、リーゼは布団を少し引き上げた。
寝よう。
それでいいのかどうかは、明日考えればいい。
決める必要なんてない。
そのまま、しばらく動かずにいた。
実家へ戻れば。
そう遠くないうちに、縁談の一つくらいは出てくるだろう。
「……」
今度はその先まで考えるつもりはなかった。
なのに、《証》のことが浮かんだ。
服の下には隠せる。
しばらくなら、それで済む。
けれど、ずっととなれば話は別だった。
結婚までして、何も知られないままというのは、さすがに無理がある。
では、《飼育》のことまで知られたら。
父の顔が浮かぶ。
リーゼは眉を寄せた。
望んで受け入れたのだと説明しても、それで済むとは思えない。
最悪の場合。
グレンの命まで危ない。
「……それは駄目だろ」
声に出してから、天井を睨むように見た。
まだ実家へ帰ると決めたわけでもない。
縁談が出ると決まったわけでもない。
そこからさらに、グレンが殺されるところまで考えている。
馬鹿馬鹿しい。
もうやめよう。
今夜考えたところで何も決まらない。
寝ればいい。
リーゼは大きく息を吐き、布団へ深く身体を沈めた。
少し経つ。
今度は、もし自分が冒険者を辞めたら、というところへ戻っていた。
グレンはどうするのだろう。
一人で続けるのか。
いや、必要なら誰かと組むだろう。
ずっと一人というわけにもいかない。
自分の代わりに、別の誰かが隣に立つ。
そこで、胸の奥がざわついた。
リーゼは布団の中で眉を寄せる。
「……やだな」
ぽつりと漏れた。
静かな部屋では、自分の声が妙にはっきり聞こえた。
また余計なことを考えている。
もう寝よう。
寝るんだ。
今度こそ寝る。
横向きになり、枕の位置を直す。
しばらく経つ。
また、剣のことを考えていた。
今の自分が剣を振ったら、どうなる。
何度やめようとしても、結局そこへ戻ってくる。
部屋はすっかり静かになっていた。
どれくらい時間が経ったのか、もう分からない。
布団の中でじっとしていることの方が、だんだん耐えられなくなってきた。
「……ああ、もう」
とうとうリーゼは身体を起こした。
──
夜の町を抜け、リーゼは人通りのない方へ足を進めていた。
中心部を離れるにつれて、明かりの数が減っていく。
昼間なら人の出入りがある店も戸を閉ざし、聞こえるのは自分の足音と、ときおり遠くで鳴く犬の声くらいだった。
やがて家並みも途切れる。
ここまで来れば、さすがに誰かと鉢合わせることもないだろう。
向かったのは、町外れの古い訓練場だった。
昼なら冒険者が使っていることもある。だが今は、木柵の向こうに人影ひとつない。
リーゼは入口で一度足を止め、奥まで見渡した。
誰もいない。
それを確かめてから中へ入る。
剣を振れば、少しは頭も静かになる気がした。
それに、実際にどこまで変わっているのか、一度は自分で確かめておきたかった。
何も失っていないとは思っていない。
そんなことは、もう分かっている。
分かっているつもりだった。
鞘から剣を抜く。
手に馴染んだ重さは、以前と何も変わらなかった。
柄の感触も、重心も知っている。
構える。
一つ。
二つ。
三つ目へ繋ごうとしたところで、身体が鈍った。
「……」
リーゼは止まった剣を見る。
何をしようとしていたのかは分かっている。
この先にどんな一撃が続くのかも覚えている。
足をどこへ運び、腰をどう回し、どの角度から剣を返すのか。
知っている。
知っているはずなのに。
そこへ身体を連れていく感覚だけが、妙に遠かった。
リーゼは一度構えを解いた。
最初からやり直す。
今度は止まらなかった。
ただ、動きの一つ一つを意識しなければ繋がらない。
それがひどく気持ち悪かった。
昔の自分がやっていた動きを、横で見て覚えた誰かが真似しているようだった。
もう一度。
今度は強化魔法も重ねる。
魔力が身体を巡る。
それ自体はできた。
脚へ。
腰へ。
腕へ。
以前なら、そんなことを一つずつ意識する必要もなかった。
剣を振る。
踏み込む。
強化した脚が思ったより前へ出ない。
そこを補おうとした瞬間、今度は上体が遅れた。
剣先が流れる。
リーゼは途中で動きを切った。
「……こんなにもか」
静かな訓練場に、自分の声だけが落ちた。
弱くなったことは知っていた。
以前より遅くなる。
力も落ちる。
できないことも増える。
そのくらいのものだと思っていた。
もっと単純な話だと。
実際は違った。
前なら考えるまでもなくできていたことの途中で、ふいに道がなくなる。
できた記憶だけは残っている。
けれど、その記憶から今の身体へ繋がるはずのものが、ところどころ抜け落ちている。
リーゼは剣を下ろした。
夜風が汗の浮き始めた首筋を撫でる。
訓練場が、妙に広く見えた。
しばらくして、また剣を上げる。
今度は型に沿おうとしなかった。
昔の形を追わず、ただ今の身体で振る。
一撃。
返す。
踏み込む。
それでも、どこかに小さな違和感が残った。
そこを気にすると次が遅れる。
強化魔法を重ねれば、さらに意識することが増える。
頭を空っぽにしたくて来たはずなのに、剣を振るほど考えることが増えていった。
もう一度。
今度は少し強引に振り抜く。
剣筋が乱れた。
「……っ」
すぐに構え直す。
呼吸が少し荒くなっていた。
もう一度。
今度こそ。
あと少し続ければ、どこかで昔の感覚が戻るのではないか。
そう思って剣を振る。
戻らない。
もう一度。
やはり違う。
肩の傷が、じわじわと痛み始めた。
額に浮いた汗を腕で拭う。
それでも剣を握る手は緩めなかった。
ふと、昼間のグレンの顔が浮かんだ。
こんなところを見られたら。
また、あんな顔をするのだろう。
リーゼは唇を結んだ。
そして、もう一度構える。
誰もいない訓練場に、剣が風を切る音だけが響いた。




