↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/42

第2話 リーゼの夜

 その夜、リーゼは早めに床へ入った。


 久しぶりの自分の部屋だった。


 使い慣れた寝具に身体を沈めると、ようやく帰ってきたのだという実感が湧く。身体も十分に疲れている。あれからまだ数日しか経っていないし、今日は長いこと馬車にも揺られていた。


 すぐに眠れると思っていた。


 けれど、いざ横になってみると、妙に頭が冴えている。


 窓の外から、ときおり人の声が聞こえた。しばらくするとそれも減り、代わりに遠くを通る車輪の音が目立つようになる。


 リーゼは仰向けのまま天井を見た。


 朝は何を食べよう。


 まだ片づけていない荷物もある。


 しばらくは、急いで何かをする必要もない。


 最初は、その程度だった。


 いつの間にか、その「しばらく」の先を考えていた。


 怪我が治ったら、また冒険者として戻るのだろうか。


 次に誰かの前で剣を抜いた時、自分はどんなふうに見えるのか。


 昼間の顔が浮かぶ。


 怪我が治ってから戻ればいい。


 そう言って、安心したように笑っていた。


 リーゼは布団の中で身体の向きを変えた。


 今までならできたことができない。


 剣が思うようについてこない。


 強化魔法も以前のようには扱えない。


 驚かれる。


 気を遣われる。


 心配される。


 そこまでは、まだいい。


 憐れまれるのだけは、たまらなく嫌だった。


 布団を少し引き上げる。


 やめよう。


 まだ怪我も治っていない。


 どうなるかも分からないうちから、その先まで考えても仕方がない。


 寝る。


 明日になれば、もう少しましな頭で考えられる。


 しばらくじっとしていた。


 今度はグレンの顔が浮かんだ。


 リーゼは小さく息を吐いた。


 グレンには、もっと見られたくない。


 調子がいい時も悪い時も、長く隣で見られてきた。わざわざ言葉にしなくても、動きがいつもと違えば気づかれる。


 そのグレンの前で。


 以前なら当たり前にできたことに躓く。


 昼間の、黙って歩いていた横顔まで思い出してしまった。


「……」


 また寝返りを打つ。


 いっそ剣を置くという手もある。


 そこで、今度は実家のことが浮かんだ。


 前から何度も、帰ってこいと言われている。


 危ない仕事を続けなくてもいい。


 いつでも戻ってくればいい。


 今回のことを知れば、なおさらだろう。


 帰れば歓迎される。


 何も責められない。


 生きて戻っただけで十分だと言ってくれるはずだ。


 それなら、もう誰かの前で今の自分を見せなくてもいい。


 そこまで考えて、リーゼは布団を少し引き上げた。


 寝よう。


 それでいいのかどうかは、明日考えればいい。


 決める必要なんてない。


 そのまま、しばらく動かずにいた。


 実家へ戻れば。


 そう遠くないうちに、縁談の一つくらいは出てくるだろう。


「……」


 今度はその先まで考えるつもりはなかった。


 なのに、《証》のことが浮かんだ。


 服の下には隠せる。


 しばらくなら、それで済む。


 けれど、ずっととなれば話は別だった。


 結婚までして、何も知られないままというのは、さすがに無理がある。


 では、《飼育》のことまで知られたら。


 父の顔が浮かぶ。


 リーゼは眉を寄せた。


 望んで受け入れたのだと説明しても、それで済むとは思えない。


 最悪の場合。


 グレンの命まで危ない。


「……それは駄目だろ」


 声に出してから、天井を睨むように見た。


 まだ実家へ帰ると決めたわけでもない。


 縁談が出ると決まったわけでもない。


 そこからさらに、グレンが殺されるところまで考えている。


 馬鹿馬鹿しい。


 もうやめよう。


 今夜考えたところで何も決まらない。


 寝ればいい。


 リーゼは大きく息を吐き、布団へ深く身体を沈めた。


 少し経つ。


 今度は、もし自分が冒険者を辞めたら、というところへ戻っていた。


 グレンはどうするのだろう。


 一人で続けるのか。


 いや、必要なら誰かと組むだろう。


 ずっと一人というわけにもいかない。


 自分の代わりに、別の誰かが隣に立つ。


 そこで、胸の奥がざわついた。


 リーゼは布団の中で眉を寄せる。


「……やだな」


 ぽつりと漏れた。


 静かな部屋では、自分の声が妙にはっきり聞こえた。


 また余計なことを考えている。


 もう寝よう。


 寝るんだ。


 今度こそ寝る。


 横向きになり、枕の位置を直す。


 しばらく経つ。


 また、剣のことを考えていた。


 今の自分が剣を振ったら、どうなる。


 何度やめようとしても、結局そこへ戻ってくる。


 部屋はすっかり静かになっていた。


 どれくらい時間が経ったのか、もう分からない。


 布団の中でじっとしていることの方が、だんだん耐えられなくなってきた。


「……ああ、もう」


 とうとうリーゼは身体を起こした。


──


 夜の町を抜け、リーゼは人通りのない方へ足を進めていた。


 中心部を離れるにつれて、明かりの数が減っていく。


 昼間なら人の出入りがある店も戸を閉ざし、聞こえるのは自分の足音と、ときおり遠くで鳴く犬の声くらいだった。


 やがて家並みも途切れる。


 ここまで来れば、さすがに誰かと鉢合わせることもないだろう。


 向かったのは、町外れの古い訓練場だった。


 昼なら冒険者が使っていることもある。だが今は、木柵の向こうに人影ひとつない。


 リーゼは入口で一度足を止め、奥まで見渡した。


 誰もいない。


 それを確かめてから中へ入る。


 剣を振れば、少しは頭も静かになる気がした。


 それに、実際にどこまで変わっているのか、一度は自分で確かめておきたかった。


 何も失っていないとは思っていない。


 そんなことは、もう分かっている。


 分かっているつもりだった。


 鞘から剣を抜く。


 手に馴染んだ重さは、以前と何も変わらなかった。


 柄の感触も、重心も知っている。


 構える。


 一つ。


 二つ。


 三つ目へ繋ごうとしたところで、身体が鈍った。


「……」


 リーゼは止まった剣を見る。


 何をしようとしていたのかは分かっている。


 この先にどんな一撃が続くのかも覚えている。


 足をどこへ運び、腰をどう回し、どの角度から剣を返すのか。


 知っている。


 知っているはずなのに。


 そこへ身体を連れていく感覚だけが、妙に遠かった。


 リーゼは一度構えを解いた。


 最初からやり直す。


 今度は止まらなかった。


 ただ、動きの一つ一つを意識しなければ繋がらない。


 それがひどく気持ち悪かった。


 昔の自分がやっていた動きを、横で見て覚えた誰かが真似しているようだった。


 もう一度。


 今度は強化魔法も重ねる。


 魔力が身体を巡る。


 それ自体はできた。


 脚へ。


 腰へ。


 腕へ。


 以前なら、そんなことを一つずつ意識する必要もなかった。


 剣を振る。


 踏み込む。


 強化した脚が思ったより前へ出ない。


 そこを補おうとした瞬間、今度は上体が遅れた。


 剣先が流れる。


 リーゼは途中で動きを切った。


「……こんなにもか」


 静かな訓練場に、自分の声だけが落ちた。


 弱くなったことは知っていた。


 以前より遅くなる。


 力も落ちる。


 できないことも増える。


 そのくらいのものだと思っていた。


 もっと単純な話だと。


 実際は違った。


 前なら考えるまでもなくできていたことの途中で、ふいに道がなくなる。


 できた記憶だけは残っている。


 けれど、その記憶から今の身体へ繋がるはずのものが、ところどころ抜け落ちている。


 リーゼは剣を下ろした。


 夜風が汗の浮き始めた首筋を撫でる。


 訓練場が、妙に広く見えた。


 しばらくして、また剣を上げる。


 今度は型に沿おうとしなかった。


 昔の形を追わず、ただ今の身体で振る。


 一撃。


 返す。


 踏み込む。


 それでも、どこかに小さな違和感が残った。


 そこを気にすると次が遅れる。


 強化魔法を重ねれば、さらに意識することが増える。


 頭を空っぽにしたくて来たはずなのに、剣を振るほど考えることが増えていった。


 もう一度。


 今度は少し強引に振り抜く。


 剣筋が乱れた。


「……っ」


 すぐに構え直す。


 呼吸が少し荒くなっていた。


 もう一度。


 今度こそ。


 あと少し続ければ、どこかで昔の感覚が戻るのではないか。


 そう思って剣を振る。


 戻らない。


 もう一度。


 やはり違う。


 肩の傷が、じわじわと痛み始めた。


 額に浮いた汗を腕で拭う。


 それでも剣を握る手は緩めなかった。


 ふと、昼間のグレンの顔が浮かんだ。


 こんなところを見られたら。


 また、あんな顔をするのだろう。


 リーゼは唇を結んだ。


 そして、もう一度構える。


 誰もいない訓練場に、剣が風を切る音だけが響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。