第1話 《証》
鏡の表面が、まだ薄く曇っていた。
リーゼは手のひらでそこを拭い、自分の姿を映した。
湯上がりの銀髪はまだ濡れている。普段は肩口で軽やかに揺れる髪が、今は水気を含んで頬や首筋へ張りつき、毛先から落ちた雫が肌を伝っていく。
青紫の瞳が、鏡越しにこちらを見返していた。
リーゼはそのまま、自分の身体へ視線を落とした。
長く剣を振ってきた細身の身体には、まだあの日の痕がいくつも残っている。
左肩には、崩落のときにぶつけた痣。右の脇腹には裂傷の痕が細く走り、左足首にもわずかな腫れがあった。大崩落から数日。どれも最初に比べればずいぶんましになっている。
いずれ消える傷だ。
その中に一つだけ、治るという言葉の当てはまらないものがある。
リーゼは鏡へ身体を寄せ、鎖骨の下へ指を伸ばした。
《飼育》の証。
白い肌の上に刻まれた紋様は、小さいながら妙に目についた。
刻まれた直後は、そこだけに熱い指を押し当てられたようだった。それもすぐに消えた。今では指先でなぞってみても、周りの皮膚との違いすら分からない。傷跡のように盛り上がっているわけでもなく、触れればただ自分の肌があるだけだ。
なのに、鏡には確かに映っている。
「……変なの」
周りの傷が少しずつ薄れていく中で、この紋様だけは最初からそう決められていたように残っている。
そう思うと、自然にグレンの顔が浮かんだ。
自分の主人。
その呼び方にはまだ慣れない。昨日も、話せばいつものグレンだったし、相棒であることも変わっていない。
それでも、彼が主人であることだけは、もう考えるまでもなく分かる。
リーゼは指先で《証》の輪郭をゆっくりとなぞった。
誰かに見られたところで、すぐに《飼育》と結びつけられるようなものではないだろう。
それでも、わざわざ人目に晒す理由はない。万が一を考えるなら、服の下へ隠しておくに越したことはなかった。
指先は、紋様をなぞり終えてもすぐには離れなかった。
もう一度、その輪郭をゆっくり辿る。
そんな自分に気づいて、リーゼはわずかに眉を寄せた。
「……何考えてるんだ、ボクは」
苦笑が漏れる。
リーゼは《証》から指を離した。
肩に掛けていたタオルを取り、濡れた銀髪を挟むようにして水気を拭う。何度か丁寧に毛束を押さえ、雫が落ちなくなったところで背へ流した。
それから下着を身につけ、シャツへ腕を通す。
襟元を整えると、《証》は簡単に隠れた。
鏡の中には、見慣れたリーゼ・アルヴェインが戻っている。銀髪に、青紫の瞳。傷こそまだ残っているが、服の上から見ただけなら、数日前までと大きく変わったところはない。
その姿をしばらく確かめてから、リーゼは鏡に背を向けた。
──
事情聴取も、これで最後になるらしかった。
机の向こうでは、冒険者ギルドの職員がこれまでの記録を何枚か並べ、必要な箇所だけを拾うように確認している。崩落が始まった位置、魔物と交戦していた人数、最後に見た仲間たちの位置。ここ数日で何度も答えた内容ばかりだった。
リーゼは椅子の背へ軽く身体を預けながら、一つずつ答えていった。
職員が最後の紙へ目を落とす。
「脱出についてですが、地下から入口付近まで移動した際には、空間魔法を使用したということで間違いありませんね」
「うん、お話しした通りだよ」
「以前の記録にはありませんでしたが、今回初めて使用されたものですか?」
リーゼはわずかに肩をすくめた。
「そこまで詳しく話さないと駄目かな。自分の手札を全部申告させるような決まりはなかったと思うけど」
職員はすぐに首を横へ振った。あくまで脱出経路を記録に残すための確認で、それ以上を求めるものではないらしい。
「では、そう記しておいてくれ」
「承知しました」
ペン先が紙の上を走る。
書き加えられたのは、リーゼが空間魔法を使用し、グレンとともに崩落区域を脱出したという事実だけだった。
それ以上の質問は来なかった。
職員が書類を揃え、端を机へ軽く打ちつける。
「これで、お二人への聞き取りは終了です。救助と現地調査はまだ続きますが、こちらに残っていただく必要はありません」
「了解。お疲れさま」
礼を言って部屋を出る。
扉が閉じると、隣を歩いていたグレンが小さく息を吐いた。
「今日は思ったより早く済んだな」
「助かったよ。さすがに同じ話を何度もするのは疲れた」
広間へ戻ったところで、少し離れた場所から名前を呼ばれた。
今回の遠征で一緒になった冒険者たちだった。崩落時には入口近くの拠点へ残っていた者たちで、リーゼとも以前から何度か合同で仕事をしている。
こちらへ来るなり、一人がリーゼの肩を見て、それから顔へ視線を戻した。
「本当に無事だったんだな」
「見ての通りだよ」
「戻ったって話は聞いてたけどさ。あれだけ崩れた後だろ。顔を見るまでは、どうにもな」
リーゼは少し困ったように笑った。
そのまましばらく、救助の状況や、崩落した遺跡が今どうなっているのかについて話した。
まだ戻っていない者の名前が出ると、誰からともなく声が小さくなる。
少しして、誰かが話題を変えるようにリーゼへ目を向けた。
「肩も足も、まだ治りきってないんだろ。しばらくは休むんだよな?」
「そのつもりだよ。今回はさすがに応えたからね」
「そうしとけ。無理してまた潜ることもないだろ」
別の一人も頷いた。
「怪我が治ってから戻ればいいさ」
リーゼは口元を緩めた。
「うん。そうするよ」
相手も安心したように笑う。
そのまま次の言葉を探すような間が、ほんの少しだけ空いた。
リーゼはそれより先に手を上げた。
「じゃあ、またね。次に会う頃には、もう少しましな格好をしてるよ」
「ああ。今度はもっと普通の依頼で会おうぜ」
「それには賛成だ」
笑って別れた。
グレンと並んでギルドを出る。
外は昼を少し過ぎた頃で、石畳の通りには人が増えていた。荷車が行き交い、店先から客を呼ぶ声が飛ぶ。数日間、ほとんど同じ部屋と廊下ばかりを見ていたせいか、街の騒がしさが妙に近く感じられた。
しばらく歩いても、グレンは何も言わなかった。
リーゼは隣を一度見て、そのまま前へ視線を戻す。
数歩。
さらに数歩。
「……なあ、キミが気に病むのはやめてくれよ?」
グレンがこちらを向いた。
「何も言ってないけど」
リーゼは少しだけ目を細めた。
「別に、ボクだって何とも思ってないわけじゃないさ。ただ、そんな顔をされる謂れはないね」
グレンは何も返さなかった。
「必要なことだっただろう? キミが提案して、ボクが決めた。それだけだ」
しばらくして、グレンが前を向いたまま答える。
「……ああ。悪かった」
「謝るところでもないんだけどね」
リーゼは小さく息を吐いた。
それ以上は言わなかった。
通りの向こうで、荷車の車輪が石畳の段差を越えて大きな音を立てる。
少し歩いてから、グレンの方が口を開いた。
「朝の馬車に空きがあるらしい。取れれば、それで戻ろうと思う」
「うん。もうここでやることもないしね」
「戻ってからの依頼は、しばらく入れないでおこう。怪我もあるし、その先のことは落ち着いてから考えたい」
「異議なし。こんな時くらい、堂々と休ませてもらおうじゃないか」
そのあとは、帰ってから必要になるものや、留守にしていた間のことを話した。
いつもの店がまだ開いているか。家に食べ物が残っているか。明日の馬車でどこに座るか。
そんな話をしているうちに、さっきまでの沈黙はいつの間にかなくなっていた。
──
乗合馬車を降りると、見慣れた街並みが夕暮れの中に広がっていた。
通りに並ぶ店も、行き交う人々も、夕食時の匂いも何一つ変わっていない。軒先では店じまいを始める者がいて、少し先の家からは食器の触れ合う音が聞こえた。
数日しか離れていなかったはずなのに、妙に懐かしく感じる。
大崩落の前にも、二人はここから依頼へ出た。
その時と同じ道を、今は荷物を持って並んで歩いている。
やがて、いつもの分かれ道に差しかかった。
グレンが足を止める。
「送ろうか?」
リーゼも止まり、少しだけ目を丸くした。
「……驚いたな。そんな言葉をキミから聞けるなんて」
「嫌ならいい」
「そういう意味じゃないよ」
リーゼは笑った。
「でも、いい。ここからならすぐだ」
「そうか」
「うん。また明日」
「ああ。また明日」
リーゼは片手を上げ、そのまま自分の家へ向かった。
数歩進んでから振り返ると、グレンはまだ分かれ道に立っていた。
「どうしたの?」
「いや」
それだけ返して、今度こそグレンも反対側へ歩き出す。
リーゼはその背中を少しだけ見送ってから、自分も家へ向かった。




