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第6話 《門》

「――っ!」


 リーゼの身体が大きく震えた。


 痛みではない。


 けれど、頭の奥を一気に掻き回されたような感覚に、思わず目を閉じる。


 今まで自分の中にあったものが、崩れていく。


 何千、何万と繰り返してきた剣の動き。


 身体のどこへ、どの瞬間に、どれだけ魔力を流せばいいのかという感覚。


 考えるより先に身体が選んでいたものが、次々と輪郭を失っていく。


「く……っ」


 リーゼがこめかみに手を当てる。


 忘れている。


 いや、ただ忘れたのとは違う。


 知っていたはずのものが、自分の中から抜き取られていくのが分かった。


 そして、失われていくものと入れ替わるように、まったく知らない感覚が押し寄せてきた。


 空間。


 それまでリーゼがそう呼んでいたものとは、どこか違う。


 空間とは、何もない場所の広がりではない。


 位置と位置が、どういう順番で並んでいるか。


 遠いというのは、そのあいだに無数の位置が挟まっているというだけのことだった。


 なら、その全部を通る必要はない。


 本の一頁目と二百頁目を、間の頁を破り捨てることなく隣り合わせにする。


 そんなことができるはずはない。


 なのに、どうすればいいのかは分かる。


 身体を移動させるのではなく、身体が存在する位置の方を差し替える。


 距離を進まないのだから、そこに費やす時間もいらない。


 そして、二つの位置を隣り合わせたまま、その境目だけを開いておけばいい。


 人が通れるほど大きく。


 閉じるまで、崩れないように。


 言葉に直すと、どこかがおかしい。


 けれどリーゼの中では、何ひとつ曖昧ではなかった。


 《転位》も。


 そのほかの空間魔法も。


 そして、今の自分がようやく手を届かせられる――《門》も。


 あまりに大量のものが一度に入れ替わり、リーゼは息をすることさえ忘れかけた。


 やがて、唐突にそれが止まった。


「……はっ」


 大きく息を吸う。


 額に汗が滲んでいた。


「大丈夫か?」


「うん。痛くはない。ただ……」


 自分の手を見る。


「すごいね、これ」


 まだ呼吸を整えながら、何かを確かめるように指を動かした。


「空間魔法が、分かる」


 使ったことも、習ったこともない。


 それなのに、どこまでなら自分にできるのかまで感覚として分かっていた。


「《門》は?」


 グレンが訊く。


 リーゼは間を置いた。


 できる。


 ぎりぎりではあるが、その感覚ははっきりあった。


「……うん」


 顔を上げる。


「できるよ」


 その言葉を聞いて、グレンが息を吐く。


 ひとまず、再配分そのものは成功した。


 けれど、得たものがあるなら、当然失ったものもある。


 リーゼは腰の剣へ手を伸ばした。


 柄を握る。


 その瞬間、表情が変わった。


「……ああ」


「どうした?」


「こっちも、ちゃんとなくなってる」


 剣の握り方を忘れたわけではない。


 構えも、斬り方も分かる。


 だが、それまで無意識にできていたことのいくつかが、もう手の届かないところにあった。


 相手の動きに合わせた細かな間合いの取り方。


 刃を合わせた瞬間の力の逃がし方。


 次の一手へ移るための、ほんのわずかな身体の運び。


 知っていたはずなのに、今はもう分からない。


 リーゼは剣から手を離し、今度は強化魔法へ意識を向けた。


 すぐに苦笑する。


「こっちはもっとひどいね」


 ごく単純に身体を強めることならできる。


 だが、ついさっきまで使っていた部位強化も、高い出力を全身へ巡らせるやり方も、感覚が抜け落ちていた。


 どうやっていたのか思い出せない。


「変な感じだ」


 自分の手を握り、また開く。


「できなくなった、っていうのとは少し違うね。今のボクからすると、さっきまでどうしてあんなことができてたのか分からない」


「……そういう感じなのか」


「うん」


 それでも、リーゼの声に後悔はなかった。


 視線を上げ、崩れた石壁の向こうを見る。


 そこにあるのは、相変わらず岩と暗闇だけだ。


 けれど今のリーゼには、その向こうへどう手を伸ばせばいいのかが分かっている。


「さて」


「ここからが本番だね」


 リーゼは崩れた石壁の前に立った。


 思い浮かべる。


 遺跡の入口を出てすぐの場所。


 欠けた石柱と、その脇に伸びる石畳。


 探索へ入る前、グレンと並んで歩いた場所だ。


 そこを《門》の向こう側に定める。


 できる。


 その感覚に迷いはなかった。


「入口の外につなぐ」


「分かった」


「開いたら、あまりのんびりしないでくれよ。残ってる魔力じゃ、長くは保てなさそうだからね」


 グレンが頷く。


 リーゼは右手を上げた。


 魔力を空間へ変える。


 その言い方が正しいのかは、もうどうでもよかった。


 何をすればいいのかは分かっている。


 ここにある場所と、記憶の中にある場所。


 その二つを捉え――つなぐ。


「《門》」


 何もなかった空間に、細い亀裂が走った。


 その向こうから、光が差し込む。


 亀裂は音もなく左右へ開き、人ひとりが通れるほどの大きさになる。


 暗い地下に、青い空が現れた。


 欠けた石柱。


 石畳。


 風に揺れる草。


 二人とも知っている景色だった。


「……開いた」


 自分でやったことなのに、リーゼの声には驚きが混じった。


 理屈も、やり方も、できることも分かっていた。


 それでも、ついさっきまで自分には縁のなかった魔法が、本当に地上まで道を開いている。


 その事実だけは、別だった。


 グレンも《門》の向こうを見つめる。


「間違いないな」


「ああ。入口の外だよ」


 そこでリーゼの呼吸が乱れた。


 《門》を維持するための魔力が、かなりの勢いで失われている。


「グレン」


「分かってる」


 グレンが先に《門》をくぐる。


 一歩踏み出しただけで、冷えた地下の空気が消えた。


 足の裏に、見慣れた石畳の感触が戻る。


 振り返ると、《門》の向こうにリーゼがいた。


「リーゼ」


「今行くよ」


 リーゼも境目を越える。


 その足が地上を踏んだのを確かめてから、術を解いた。


 開いていた空間がゆっくりと狭まり、地下の暗闇が細い線になって、消える。


 リーゼはその場所を見つめたまま、長く息を吐いた。


「……出られたね」


「ああ」


 それだけで、しばらく言葉は続かなかった。


⸻


 ほんの少し前まで、二人ともここへ戻れるとは思っていなかった。


 けれど、安堵していられたのはわずかな間だった。


 リーゼが先に周囲へ目を向ける。


 グレンもそれに続いた。


 二人以外の姿は、どこにも見えなかった。


「……他のみんなは、どうなったかな」


「分からない。待機組のところへ行こう」


「ああ。この崩れ方なら、もう何か動いてるはずだ」


 入口付近は大きく崩れ、地面にもいくつもの亀裂が走っている。ここから中の様子を窺うことはできなかった。


「中の状況も伝えないとね」


 二人はすぐに歩き出した。


 リーゼの足取りはひどく重い。


 それでも止まろうとはしなかった。


「無理するなよ」


「そうもいかないだろう?」


 前を向いたまま答える。


「まだ中にいるかもしれないんだ」


「……そうだな」


 グレンもそれ以上は止めなかった。


 だが、十数歩も進まないうちに、リーゼの身体が大きく傾いた。


「っ……」


「リーゼ」


 グレンが咄嗟に腕を取る。


「平気」


「平気じゃないだろ」


「歩けるよ」


 そう言ってもう一歩踏み出したものの、今度は左足をついた瞬間に顔をしかめた。


 グレンはそのままリーゼの腕を自分の肩へ回す。


「掴まれ」


「……悪いね」


「今さらだろ」


 二人は速度を落として進んだ。


 やがて木々の向こうに、野営地が見えてくる。


 その手前で、人影がこちらへ走ってきた。


「おい――!」


 待機組の一人だった。


 二人の姿を認めるなり、その顔が驚きに変わる。


「生きてたのか!」


「ボクたちはね」


 リーゼが答える。


「他は?」


「分からない。崩落のあと、まだ誰も戻ってない。二人、街へ走らせた。救援を呼んでる」


 グレンとリーゼが顔を見合わせる。


 予想していた通り、救援はすでに動いていた。


 男はそこで、二人の背後へ目をやる。


「……待て。お前たち、どうやって出てきた?」


 リーゼはほんの一瞬だけグレンを見る。


「少し、空間魔法の心得があってね」


「空間魔法?」


「ああ。運がよかったよ」


 それ以上は説明せず、リーゼは遺跡へ目を戻した。


「それより、中のことを話そう。まだ誰か残ってるかもしれない」


 男も聞きたそうにはしていたが、すぐに頷いた。


「ああ。頼む」


 野営地へ着くと、二人は崩落直前までの状況を順に伝えた。


 最後に見た仲間たちの位置。


 討伐対象との戦闘。


 大規模な魔法が放たれた場所。


 そこから崩落が始まったこと。


 自分たちがどのあたりから落ちたのかも、分かる範囲で話した。


 待機組の一人が、それを紙へ書き留めていく。


「分かった。救援が来たらすぐ伝える」


「頼む」


 そこまで終えて、ようやくグレンは息を吐いた。


 隣を見る。


 リーゼはさっきから座ったまま、ほとんど動いていなかった。


「大丈夫か?」


「うん」


 一拍置いて、


「……さすがに、ちょっと疲れたかな」


「ちょっとじゃないだろ」


「まあね」


 リーゼは力なく笑った。


 救助はすでに動き始めている。


 あとは救援が到着するまで、今の二人にできることはほとんどない。


 リーゼは何気なく腰の剣へ手を置いた。


 握り慣れた柄。


 重さも、形も、何も変わってはいない。


 それなのに、以前よりほんの少し遠く感じる。


 そのまま手を離すと、今度は無意識に鎖骨の下へ指をやった。


 服の向こうには、さっき刻まれたばかりの証がある。


 もう熱はない。


 触れたところで、何も感じない。


 それでも、消えたわけではなかった。


 数時間前まで、自分の身体にはなかったものだ。


 剣も。


 魔法も。


 自分とグレンの関係も。


 同じ数時間のあいだに、ずいぶん多くのものが変わった。


 リーゼはそれ以上考えるのをやめ、手を下ろした。


 やがてグレンを見る。


「グレン」


「ん?」


「約束、覚えてる?」


 グレンは一瞬考えて、それから笑った。


「ああ。覚えてるよ」


「なら、そろそろ聞かせてもらおうかな」


「そうだな」


 グレンは言葉を探した。


「……まず、本当によくやった」


 リーゼが黙って続きを待つ。


「怖かったと思う。それでも俺に任せてくれたし、最後までちゃんとやりきった」


 グレンはリーゼを見る。


「本当にすごかったよ、リーゼ」


「……うん」


 リーゼは目を伏せ、それから小さく笑った。


「悪くないね」


「何が?」


「褒められるの」


「今さらか?」


「今さらかもね」


 そう言って、少し間を置く。


「それで?」


「ん?」


「これで終わりじゃないだろう?」


 グレンが笑う。


「そうだったな。これでもかってくらい、だった」


「期待してるよ」


 剣のことも。


 魔法のことも。


 《飼育》のことも。


 安否の分からない仲間たちのことも。


 何一つ片づいたわけではない。


 それでも今は、自分たちにできることを済ませて、こうして生きている。


 リーゼは背もたれ代わりの荷箱に身体を預け、ゆっくり息を吐いた。


 グレンはその隣で、約束どおり褒め言葉の続きを考えていた。





――飼育対象の状態に変化がありました。


【技能】


剣術 76 → 44


【魔法】


強化魔法 60 → 12

空間魔法 0 → 55


【飼育状態】


充足度 42 → 48


【欲求】


称賛 43 → 31


主人からの称賛により、称賛欲求が一部充足しました

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