第1話 遅くなった
ネーベルの巣を訪れたのは、アルヴェイン家を出てからしばらく経った頃だった。
三人はいったん町へ戻り、グレンとリーゼは訓練を再開した。空いた時間には、シックザールから届く質問に答える。その生活に、今度はネーベルが加わった。
ネーベルはグレンの家で暮らしている。
周囲に《飼育》のことを伏せたまま、どこからともなく現れた女を家に住まわせている理由を考えるのには少し苦労した。結局、対外的には遠方から来たグレンの親戚ということになっている。
最初のうちは、部屋の隅で狐が丸くなっているだけでも妙な感じがした。今ではもう、見慣れた光景だった。
三人で食事をすることも珍しくない。訓練のあと、リーゼがそのままグレンの家へ寄ることも増えた。
ネーベルは町での暮らしをすべて気に入ったわけでもないらしい。紅茶はすっかり気に入っている。シックザールから追加の質問が届けば、紙の束を見ただけで露骨に嫌そうな顔をする。
そうして、思っていたより早く三人の日常ができていった。
一つ、まだ果たしていない約束があった。
番の毛皮を、昔暮らしていた巣へ持ち帰って埋める。
アルヴェイン家を出る前、そう話すネーベルに、グレンは自分も付き合うと約束していた。町へ戻ってからも、毛皮は彼女の部屋に置かれていた。
その約束を果たすため、三人は数日前に町を出た。
乗合馬車を降り、ネーベルの案内で山へ入ったのが昨日のことだ。途中で一晩を明かし、今朝も奥へ進んで、昼を過ぎた頃にようやく昔の巣へ着いた。
巣は、大きな洞穴だった。
どこを寝床にしていたのか。どこを二匹がよく通ったのか。何十年もここで暮らしていたと言われても、グレンには岩と土の間にその痕跡を見分けられなかった。
ネーベルは、山へ入ってから一度も道を探すような仕草を見せていない。木々の間を抜け、斜面を登り、洞穴へ入ってからも迷わず奥へ進んでいった。
「昔は、あそこから水が落ちていた」
途中、壁際へ目を向けて言った。
今は乾いた岩しかない。
少し先で、洞穴が横に広がっていた。天井は低くなるが、地面には岩が少なく、他より土が厚く積もっている。
ネーベルはそこで足を止め、しばらく周囲を見渡した。
「ここだ」
壁際の一角を示す。
「ここに埋めるのか?」
「ああ。昔、こいつがよく寝ていた」
ネーベルの視線が、抱えている包みへ落ちた。
グレンは鞄を下ろし、持ってきた道具を取り出した。
三人で土を掘った。
ネーベルが先に土へ手を入れ、グレンとリーゼもその脇を掘り進める。しばらくすると、毛皮を収めるには十分な深さになった。
「これくらいでいいか?」
ネーベルは穴を覗き、頷いた。
「ああ」
包みを開く。何重にも巻かれた布の中から、灰色の毛皮が現れた。アルヴェイン家で初めて見たときより、ずっと丁寧に整えられている。
ネーベルはそれを抱え、穴の前にしゃがんだ。
グレンとリーゼは、手を止めて待っていた。
「……遅くなった」
毛皮が、穴の底へ収められた。
四十年近く探し続けて、ようやくここまで連れて帰ってきた。
ネーベルが土へ手を伸ばす。グレンたちもそばへ寄り、三人で穴を埋めた。掘り返した跡をならし、道具を片づける。
ネーベルは埋めた場所を見下ろしていた。
やがて顔を上げる。
「帰るか」
グレンは頷いた。
三人は、洞穴の入口へ引き返した。
⸻
巣を出ると、リーゼが山の斜面を見渡した。
「じゃあ、帰りはボクの番だね」
町を行き先に定めると、足元に淡い光が浮かんだ。一本の道筋になり、木々の間へ伸びていく。
「こっちか」
昨日登ってきた方向とは、少し違っていた。
「《案内》が出てるなら、こっちの方がいいんだろうね」
リーゼが歩き出すと、ネーベルもそのあとに続いた。
しばらくは、誰もあまり話さなかった。ネーベルが振り返ることもなく、巣は木々の向こうへ見えなくなった。
やがて道が急な下りへ変わった。昨日は避けて通った場所だったが、《案内》の光は斜面を横切っている。
「ここを通るのか」
ネーベルが足元へ目を向けた。
「キミが知らなかった道かな?」
「いや。昔は崩れていた」
「なるほど。何十年もあれば、山も変わるか」
進んでみると、斜面の途中には人ひとりが通れる程度の足場が続いていた。
グレンが先に渡り、リーゼが続く。最後に来たネーベルは、向こう側へ着くと光の道を見下ろした。
「便利なものだな」
「だろう?」
リーゼが少し得意そうに笑う。
「巣へ行くときにも使えばよかったのではないか」
「全く知らない場所を目的地にはできないんだよね。地図でもあれば、また違うんだけど」
「そうなのか」
「うん。だから、行きはキミに案内してもらうしかなかったのさ」
ネーベルは光の先を眺め、それから歩き出した。
グレンも、二人のやり取りを聞きながら山を下った。
昨日休んだ場所までどれくらいか。水を補給するならどこがいいか。今日のうちに、どこまで進めそうか。
そんな話をするうちに、会話も少しずつ増えていった。
日が傾き始めた頃、リーゼが《案内》の先から目を上げた。
「今日はこの辺にしようか。暗くなる前に、寝る場所を決めた方がいい」
「そうするか」
グレンが答えると、ネーベルも頷いた。
⸻
食事を終える頃には、森の中はすっかり暗くなっていた。
ネーベルは小さな狐の姿に戻り、火の向こうで丸くなっている。
食器を片づけたリーゼが、グレンの隣へ腰を下ろした。明日の道について話すうち、肩が触れ合う。グレンはその頭へ手を伸ばした。
リーゼも話を止めなかった。撫でられながら、明日は昼前には山を抜けられそうだとか、町へ戻ったらまず何をするかとか、そんなことを話している。
ふと、火の向こうへ目を向けた。
ネーベルがこちらを見ていた。
「……どうかしたかい?」
「どうもしない。ただ、私には理解できないな」
グレンも顔を上げた。
「何の話だ?」
ネーベルは二人を見比べた。
「そうも頻繁にべたべたするのなら、さっさと番えばいいだろう」
グレンの手が止まった。
リーゼも言葉を失い、しばらくしてようやく口を開いた。
「……キミねえ。そういうことを、そんな簡単に言うものじゃないよ」
「聞かれたから答えただけだ」
リーゼは何か言い返しかけて、やめた。
確かに、聞いたのはこちらだった。
ネーベルは前脚へ顎を戻した。それきり、会話が途切れる。
グレンは、止めたままの手を意識した。さっきまでは何ともなかったのに、急に続けにくくなってしまった。
隣のリーゼも、火を見たまま黙っている。
それでも、肩は触れたままだった。
しばらくして、グレンはまた銀の髪を撫でた。リーゼが何も言わず、ほんの少しこちらへ寄る。
火の向こうで、ネーベルはもう目を閉じていた。
⸻
翌朝、三人は野営地を発ち、そのまま山を下った。
昼が近づくにつれて斜面は緩くなり、木々の間から先を見通せる場所も増えていた。《案内》の光が、麓へ向かって伸びている。
その途中で、先を歩いていたネーベルが足を止めた。
「少し待て。獣がいる」
顔を上げ、風の匂いを確かめる。
「二頭だ。まだ向こうも気づいていない」
リーゼは光の先を見てから、周囲の斜面へ目を向けた。
「それなら、少し回ろうか。わざわざ相手をすることもないだろう?」
別の道を探そうとしたところで、森の奥から枝の折れる音がした。重い足音が、それに続く。
ネーベルがそちらを向いた。
「遅かったな」
音はまっすぐ近づいてきた。
木々の間から現れたのは、猪に似た二頭の魔獣だった。どちらも人の背を優に越える大きさで、額から前へ突き出した角も太い。
こちらを見つけて一瞬立ち止まると、二頭とも頭を低くした。鼻を鳴らし、地面を蹴る。
「……避けてくれる気はなさそうだね」
リーゼが剣を抜いた。
「片方は私がやる」
そう告げたネーベルの身体が、膨らんだ。白い毛並みが広がり、四肢が太く伸びて地面を掴む。瞬く間に、巨大な狐が木々の間へ立っていた。
小さい方の魔獣がそちらへ角を向けた。駆け出した巨体を、ネーベルも正面から迎え撃つ。
もう一頭は、グレンたちへ向かってきた。
グレンは背負っていた斧を構えた。リーゼがその横へ並ぶ。
低く構えた頭の先で、太い角が揺れる。土を蹴散らして迫る巨体を前に、グレンは正面に残った。
衝突の寸前、リーゼの重力魔法が魔獣を捉えた。
巨体が沈んだ。前脚が深く土を抉り、勢いを支えきれなくなった頭が落ちる。
グレンは踏み込み、崩れた肩口へ斧を叩き込んだ。
魔獣が横へ倒れかける。傷ついた前脚で踏ん張り、斧を引いたグレンへ角を振るった。
グレンが退いた脇を、リーゼが抜けた。
自分にかかる重力を弱めた一歩が、大きく伸びる。魔獣が首を巡らせるより早く側面へ回り込み、後脚を斬りつけた。
獣がリーゼを追って向きを変えたところへ、グレンが入る。空いた脇腹へ斧を叩き込み、振り向かれる前に間合いを外した。
傷ついた脚で二人を追おうとした魔獣が、もう一度沈んだ。
リーゼが重力を強めている。
今度は前脚でも支えきれず、巨体が大きく傾いた。グレンはその首元へ回り込み、斧を振り下ろす。
刃が深く入った。
魔獣は一度身を震わせ、地面へ崩れ落ちた。グレンが斧を抜いても、もう動かなかった。
「怪我は?」
リーゼが剣の血を払いながら聞いた。
「ない。お前は?」
「ボクも平気だよ」
少し離れたところでは、もう一頭も倒れていた。巨大な狐の姿をしたネーベルが、その傍らに立っている。
グレンが斧を収めていると、ネーベルは魔獣へ噛みついた。
そのまま食べ始めた。
腹が減っていたのだろうと思って見ていたが、一向に止まる気配がない。肉を食いちぎり、骨まで噛み砕く。あれだけ大きかった魔獣がみるみる小さくなり、とうとう一頭を丸ごと平らげてしまった。
食べ終えたネーベルの身体が縮んでいく。すぐに、いつもの人の姿へ戻った。
リーゼがその身体を上から下まで眺めた。
「……よく食べるね」
「あの姿は腹が減るんだ」
ネーベルは何でもないことのように答えた。
グレンも、彼女と魔獣の消えた場所を見比べる。
「どこに収まってるんだろうな」
「知らん」
⸻
その後は魔獣に出くわすこともなく、三人は無事に山を下りた。
麓の集落から乗合馬車を乗り継ぎ、町へ戻ったのは、さらに二日後の夕方だった。
「帰ってきたねえ」
馬車を降りたリーゼが、大きく伸びをする。
「さすがに長旅だったな」
「しばらく馬車は遠慮したいところだよ」
「私はもう乗らんぞ」
ネーベルが横から口を挟んだ。
「そう言うなよ。また遠出することもあるだろ」
そんなことを話しながら、三人は見慣れた通りを歩いた。夕食時が近く、店先には仕事帰りの客が集まっている。途中で食材を買い足し、そのままグレンの家へ向かった。
家に着くと、ネーベルは自分の部屋へ荷物を置きに行った。戻ってきたときには小さな狐になっており、居間の敷物の上で丸くなる。
「もう寝るのか?」
「疲れた」
「馬車ではずっと寝てただろ」
「揺れるからよく眠れん」
それはそうかもしれない。
グレンとリーゼも荷物を置き、夕食の支度に取りかかった。
肉の焼ける匂いが漂い始めると、ネーベルが起きてきた。いつの間にか人間の姿へ戻り、当然のように食卓についている。
三人で夕食を取り、荷物も片づけ終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「さて、ボクはそろそろ帰ろうかな。洗濯物が溜まってるんだ」
リーゼが自分の鞄を持ち上げる。
「ああ。今日はゆっくり休めよ」
「キミもね。……ああ、明日の訓練はどうする?」
「明日くらい休んでもいいんじゃないか?」
「そうかい? ボクは少し身体を動かしたいんだけど」
「山であれだけ動いただろ」
「馬車では、ずっと座りっぱなしだったからね」
グレンは彼女の顔を見た。疲れてはいるはずなのに、もう訓練のことを考えている。
「じゃあ、朝の調子を見て決めるか」
「うん。それでいこう」
玄関まで見送ると、リーゼはいつもの調子で片手を上げた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
グレンは彼女を見送り、戸を閉めた。




