第14話 今はね
その翌日、客室へ戻る途中で、モーントに呼び止められた。
白く塗った顔が、廊下の窓辺からこちらを向いていた。目元の黒い化粧も、大きな襟飾りも戻っている。
「人を捕まえるのに、縄を使う必要はないんだよ」
挨拶もなく、モーントはそう言った。
「一度だけ、甘い香りを覚えさせる。相手は何事もなかったように帰っていくさ」
白い手袋をはめた指が、何もない掌の上でゆっくり閉じられる。
「……何の話ですか?」
「雨の日や、ひどく疲れた夜に、ふと思い出すんだ。あれをもう一度、とね」
モーントが笑った。
「そうしたら、今度は自分の足で罠へ戻ってくる」
握った手をグレンの前へ差し出した。
「君にも試してほしいんだ」
開いた掌に、小さな黒い缶が載っていた。モーントが蓋を取ると、茶葉の香りが漂う。
「この紅茶、美味しいんだ。リーゼと飲むといいよ」
「……紅茶の話だったんですか」
「うん。僕も捕まった一人でね」
モーントは蓋を戻して窓枠から降り、缶を差し出した。
「長く蒸らすと苦くなるから、そこだけ気をつけて」
グレンが礼を言って缶を受け取ると、モーントは少し間を置いた。
「……それと、あのときはすまなかったね」
最後の一言は、いつもの声だった。
「いえ。あれを見たら、俺でも間違えたと思います」
「……そうか。ありがとう」
モーントは小さく頷き、廊下を歩いていった。
グレンは缶を持ち直した。帰ったらリーゼと飲もう。
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その日の夕方、リーゼと客室へ戻る途中で、彼女が言った。
「そろそろ、戻ろうか」
「ああ。訓練場も、何日か空けたしな」
「うん。明日出よう。姉さんにも話してくるよ」
「俺はネーベルに伝えておく」
残る質問には、普段の訓練へ戻ってから記録をつけなければ答えられないものも多かった。
グレンはネーベルに翌朝出ることを伝えてから、リーゼとシックザールの研究室へ向かった。
出発の話を聞くと、シックザールは机の上の紙を何枚か引き抜いた。
それは、グレンの記録よりずっと細かな字で書かれた質問の束だった。リーゼが横から覗き込み、全部一度に答えられるとは思わないでよ、と念を押した。
その夜、夕食の席で翌朝の出発を告げた。
フリルが名残惜しそうにリーゼの袖を掴み、セレスティーヌは忘れ物がないようにと声を掛けた。ヴァルターは小さく頷いてから、シュトルへ何かを言った。
「父上が、出る前に必ず朝食を食べていくようにと!」
「はい。いただいてから出ます」
グレンが答えると、ヴァルターはもう一度頷いた。
明日の朝は少し早く起きようと思いながら、グレンは空になった皿を重ねた。
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翌朝、グレンは早くに目を覚ました。
荷物を確かめ、身支度を済ませても、まだ朝食には間がある。階下へ降りると、厨房から肉の焼ける匂いがしていた。
戸口を覗いたグレンに、ヴァルターが顔を上げた。
「おはようございます」
ヴァルターは小さく頷き、手で中へ入るよう促した。
シュトルの姿はなかった。グレンは少し迷ってから、作業台のそばへ進んだ。
火に掛けられた鍋から、湯気が上がっている。作業台には切り分けたパンと焼いた肉が並び、その横には、すでにいくつか布包みができていた。
「それ、持たせてくださるんですか?」
ヴァルターが頷いた。
「ありがとうございます」
差し出された包みを受け取る。鞄に収まりそうな大きさで、紐もしっかり掛けてあった。
ヴァルターは次のパンに肉を挟みながら、低く何かを言った。
グレンは聞き返そうとして、口を閉じた。
「それは……まだ、俺たちもそういう関係じゃないので」
ヴァルターは手元へ目を落としたまま、小さく頷いた。
グレンは受け取った包みを作業台の端へ置いた。
鍋の中で、煮汁が小さな音を立てている。
ヴァルターが布を広げながら、また何かを尋ねた。
「……はい」
すぐに続きを答えず、少し考えた。
「俺が勝手に決めるつもりはありません。リーゼと話して決めます」
ヴァルターがこちらを見た。短い問いが続く。
グレンは顔を上げた。
「……ええ、そのつもりです」
ヴァルターの手が止まった。グレンも目を逸らさなかった。
やがて父親は短く頷き、作業台へ向き直った。残りの肉をパンに挟み、広げた布の上へ置く。
「そっちも包みますか」
ヴァルターが何かを答えた。
「分かりました」
グレンは隣に立ち、布の両端を持ち上げた。さっき渡された包みを見ながら、同じように紐を掛けていく。
結び終えて差し出すと、ヴァルターは一度確かめ、ほかの包みと並べた。
朝食に呼びに来たリーゼは、厨房にいる二人を見て、少し目を丸くした。
食事を済ませ、持たされた包みも鞄へ収めてから、グレンはリーゼと北側の部屋へ向かった。
ネーベルは人の姿で、毛皮を包んでいた。床に広げた厚い布の端を重ね、紐を掛けている。
「それは、巣へ持って帰るのか?」
「そうだ。そこで埋めてやりたい」
手を動かしたまま、ネーベルが答えた。
「分かった。そのときは俺も行く。帰してやるところまで付き合うよ」
紐を結ぶ手が止まった。金色の目が、グレンへ向く。
しばらくして、ネーベルは手元へ目を戻した。
「……そうか」
結び終えた包みを両腕に抱え、立ち上がる。グレンが戸口へ退くと、その後へ続いた。リーゼも部屋の中を一度見回し、扉を閉めた。
玄関には、家族が揃っていた。
シックザールが、グレンへ紙を差し出す。
「こちらも、お帰りになってからお願いいたしますわ」
「……昨日ので全部じゃなかったの?」
「今朝、思いついた分ですわ」
リーゼは紙を受け取り、横からグレンの鞄を開けた。昨日渡された束の上へ重ね、また蓋を閉める。
「これ以上は、手紙にしてよね」
シックザールが何か言いかけたところへ、フリルが近づいてきた。
「お姉様」
リーゼが腰を屈めると、妹の腕が首へ回った。背中を軽く撫で、少しして身体を離す。
「またお手紙をくださいませね。お店のお話も、忘れずに」
「うん。今度はちゃんと書くよ」
フリルは名残惜しそうに姉の手を放し、グレンへ向き直った。
「グレン様も、またいらしてくださいませ」
「ありがとうございます」
グレンは、家族へ改めて頭を下げた。
「いろいろと、お世話になりました」
「またお二人で顔を見せてちょうだい。次は研究の用がなくてもいいのよ」
セレスティーヌに言われ、グレンは顔を上げた。
「はい。また伺います」
母親は嬉しそうに頷いた。リーゼがそのそばへ行き、短く抱き合う。
「じゃあ、行ってくるよ。母さんも、しばらく無理しないでね」
「あなたもね」
シュトルが玄関の扉を大きく開けてくれた。モーントはその脇に立ち、白い手袋をはめた手を振っている。
グレンはヴァルターを見た。父親が一度頷き、グレンも頭を下げる。
リーゼと並んで外へ出ると、毛皮の包みを抱えたネーベルも、すぐ後ろへ続いた。
門を抜けたあとも、シュトルの見送る声が聞こえた。リーゼが振り返り、大きく手を振った。
しばらく歩いたところで、リーゼがこちらを見た。
「ねえ、今朝、父さんと何を話してたんだい?」
「……秘密」
「ボクの父さんなんだけど」
グレンが笑っていると、リーゼは少し首を傾げた。
「……あれ? キミ、父さんの声が聞こえたの?」
「今日は聞こえたよ」
「へえ。慣れてきたのかな」
「かもな」
リーゼは笑い、歩きながらグレンの顔を覗き込んだ。
「それで、ボクの話もした?」
「秘密だって」
しばらくこちらを見ていたリーゼが、肘でグレンの腕を軽く押した。
「……まあ、いいや。今はね」
鞄を反対の肩へ掛け直すと、空いた側へリーゼが寄ってきた。グレンはそのまま、彼女と並んで歩いていった。




