第10話 返してほしかっただけだ
ヴァルターはそれ以上《飼育》について尋ねず、しばらく娘を見たあと、ネーベルの方へ視線を移した。
床に伏せていた大狐の耳が動いた。
ヴァルターが何かを言う。
「…………」
グレンには相変わらず聞き取れなかったが、ネーベルには届いたらしい。金色の目がヴァルターへ向く。
少しして、灰白い巨体の輪郭が揺らいだ。
身体が見る間に縮み、四肢の形が変わっていく。長い尾が消え、代わりに一人の女がその場に立っていた。
二十代前半に見えた。
腰近くまで伸びた髪は、根元こそ黒に近い灰色だが、毛先へ向かうほど白く色が抜けている。半ば伏せたような琥珀色の目は眠たげで、その顔には誰も見覚えがなかった。
生成りのシャツに、墨色の長衣。旅装らしいが、前合わせや左右の違う裾には少し変わった癖がある。
「……誰だ、その姿は」
シュトルが尋ねた。
「知らない」
ネーベルは普通の口調で答えた。
「昔、見た人間だ。名前も知らない」
それだけ答えて、ヴァルターを見る。
「何をしに来たのか、だろう」
ヴァルターは頷いた。
ネーベルはすぐには答えなかった。
眠たげな目が伏せられる。
誰も急かさなかった。
やがて、ネーベルが口を開く。
「返してほしかっただけだ」
シュトルが眉を寄せる。
「何を?」
「毛皮」
ネーベルの目が、西の方へ向いた。
「あいつの皮を」
部屋が静かになった。
先に口を開いたのはリーゼだった。
「……あいつって?」
「私の番だ」
ネーベルは短く答えた。
リーゼの表情が変わる。
モーントがネーベルを見る。
「それを探しに、この家へ?」
「ああ」
「見つけたら、どうするつもりだったんだ」
「連れて帰る」
ネーベルは少し間を置いた。
「ちゃんと弔ってやらないといけない」
それだけ言って、口を閉じる。
ヴァルターが再び口を開いた。
「…………」
今度はシュトルが訳す。
「その毛皮が、この屋敷にあるのは確かなのか、と」
「ある」
ネーベルは迷わず答えた。
「どこに?」
ネーベルは西側へ顔を向けた。
「そこまでは分からない。近くにあることは分かるが、この中は色々混じってる」
シュトルがヴァルターを見る。
ヴァルターも少し考えるように目を伏せた。
旧棟には、この家の者ですら中身を把握していない収蔵品が残っている。
グレンも昨日、そんな話を聞いた覚えがあった。
「…………」
ヴァルターが何かを言った。
シュトルが頷く。
「調べるそうだ」
ネーベルがヴァルターを見る。
「……本当に?」
ヴァルターは短く頷いた。
⸻
大広間の卓に、古い台帳が何冊も運び込まれた。
革張りの表紙はどれもくすみ、背に記された文字もところどころ擦れている。
シュトルがそのうちの一冊を開き、数枚めくってからネーベルを見る。
「事があったのは、いつの話だ?」
窓際に立っていたネーベルが、少しだけ目を上げた。
「……四十年ほど前だ。正確な年までは覚えていない」
シュトルの手が止まった。
リーゼも顔を上げる。グレンも思わずネーベルを見た。
四十年。
自分が生まれるより、ずっと前の話だった。
ネーベルは集まった視線を気にする様子もなく、窓際に立っている。
シュトルは手元の台帳を閉じた。
「ならば、この辺りは新しすぎるな。もっと前から見た方が早い」
年代の合わないものを脇へ寄せる。
シックザールも向かいから別の一冊を引き寄せた。
「こちらを見ますわ。お父様の代より前なら、帳面も分かれているはずですもの」
「ああ。頼む」
再び、紙をめくる音が続いた。
ヴァルターはシュトルの隣で台帳を眺めている。
モーントは少し離れた椅子に腰掛けたまま、いつになく静かだった。フリルはリーゼのそばを離れず、ときどきネーベルの方を見ている。
それから何冊か調べたところで、シュトルの指が止まった。
「……父上」
ヴァルターが身を寄せる。
シュトルは記載を追いながら読む。
「狐型魔獣の毛皮。一枚。三十二年前に商人から買い入れてる」
ネーベルが動いた。
それまで離れていた卓へ歩み寄り、シュトルの手元を覗き込む。
「仕入れ元はローヴェル商会……この名前には覚えがあるか?」
「ない。私が追えていたのは、もっと前までということだろう」
ヴァルターも台帳を受け取り、記載に目を通す。
やがて短く何かを言い、シュトルへ返した。
「祖父上の頃のものらしい。父上も知らなかったそうだ」
その横で、別の記録を調べていたシックザールが顔を上げた。
「お兄様。こちらにも同じ管理番号がありますわ」
シュトルが隣へ回り込む。
「……本当だな」
「十七年前に、古い獣皮をまとめて移していますの。この毛皮も一緒ですわね。移管先は北側の収蔵庫です」
シュトルが記載を確かめ、ヴァルターを見る。
「北なら今日の崩落には巻き込まれてない。今からでも確認できます」
ヴァルターが席を立った。
ネーベルはもう窓際へは戻らなかった。
⸻
北側の収蔵庫は、中央棟の奥にあった。
今日の崩落からは離れた区画で、扉にも壁にも目立った傷はない。
鍵を開けると、乾いた木と革の匂いが流れ出した。
棚には番号の振られた木箱が何段にも積まれている。
シュトルが台帳を片手に奥へ進み、棚の札を順に確かめていく。やがて下段の前で足を止め、横に長い木箱を引き出した。
「これだ」
床へ置き、留め金を外す。
中には何枚かの獣皮が、布を挟んで重ねられていた。
ネーベルは数歩離れたところに立っている。
シュトルが一枚目を持ち上げた。
反応はない。
二枚目も違った。
三枚目に手を掛けたところで、ネーベルが動いた。
シュトルも気づき、手を止める。
ネーベルが箱へ近づいた。
何も言わない。
その身体の輪郭が揺らぎ、ゆっくりと縮んでいく。
長い髪も衣服も消え、床へ降りたときには、灰白い子狐の姿になっていた。
シュトルは手にした毛皮を静かに床へ下ろした。
子狐が近づく。
鼻先を寄せ、一度だけゆっくり匂いを吸い込む。
それから、毛皮へ額を押しつけた。
誰も声を掛けなかった。
⸻
その日、番が戻らなかった。
一晩くらい巣を空けるのは珍しくなかった。翌朝になっても戻らず、ネーベルは山を下る匂いを辿った。
途中から、血と人間の臭いが混じった。
倒れた木と、抉れた地面。残った血の量からして、番が自力で立ち去ったとは思えなかった。死体はなく、人間たちの匂いだけが先へ続いていた。
追いついた時には、番の身体はもうなかった。肉にも骨にも値がつき、毛皮はとりわけ高く売れるらしい。殺した者は、すでに別の人間へ渡していた。
ネーベルは売った先を聞き出した。そこへ行くと、また次の相手がいた。
誰に売ったのか。いつ、どの町へ運んだのか。
一人を見つけるたび、行き先が増えた。番に残る気配は、近くまで行かなければ拾えない。匂いだけでは追いつけなくなり、ネーベルは人間が物を動かす仕組みを覚えた。
店や商人の名を聞き、売買を記した紙を探す。人の姿で尋ねる方が早いこともあった。記録が途切れれば、古い商人や収集家を訪ね直した。
以前に話を聞いた者が死んでいた。店がなくなり、子や孫は昔の商売を知らなかった。人間の時間は、思っていたより早く流れた。
探すのをやめようとは思わなかった。
番は、まだ家へ戻っていない。
そうしてようやく、アルヴェイン家のある土地まで絞り込んだ。屋敷の近くで、久しぶりにあの気配を拾った。
中にある。
連れて帰るのに、人間へ許しを求める必要があるとは思わなかった。かといって、争う理由もない。誰にも気づかれずに見つけ、持ち出せば済む。
ただ、屋敷には古い獣皮や魔獣の素材が多く、近づくほど気配が混じった。外からでは、どこにあるか分からない。
しばらく屋敷を見て、使う姿を選んだ。
シックザールは一人で出歩き、帰る日を家族も把握していない。多少妙なことをしても、周囲は気にしなかった。本物の留守に、その姿を借りて入った。
グレンとリーゼが来ていたのは、予定の外だった。何の研究に呼んだのかも、どんな約束をしたのかも分からない。理由を付けて先へ延ばすと、二人は呆れた顔で受け入れた。
化けてから分かった。シックザールは、外から見ていた以上に奇天烈な人間らしい。受け答えが多少おかしくても、周囲は怪しむより先に納得する。普段は何をしているのだろうと思った。
夜になり、皆が部屋へ戻ってから、西側の収蔵品を探した。その奥で、セレスティーヌが近づいてくる気配に気づいた。
ここで不審に思われれば、この姿はもう使えない。本物が帰るまで、シックザールとして探し続けたかった。
相手から見えないところで、グレンへ姿を変えた。
初対面の客なら、仕草や話し方の違いまでは気づかれにくい。見られても疑われるのはグレンで、シックザールへ戻れば屋敷に残れる。
セレスティーヌは、引き返さなかった。声を掛け、部屋へ戻れと言い、父親を呼ぼうとした。
騒がれれば、屋敷中が警戒する。戻ってからも自由には探せなくなる。
ネーベルは逃げるために手を出した。倒れた女は動かず、呼んでも反応せず、息もしていなかった。
死なせたと思った。加減を誤った。
西側を離れる途中でモーントに呼び止められた。話せば違いを悟られる。返事をせずに通り過ぎ、人目のないところでシックザールへ戻った。
騒ぎの中、グレンは地下へ入れられた。そうなる可能性は、姿を選んだ時から考えていた。
使用人が行き交い、家族が警戒する屋敷で、収蔵品を探し回ることはできなかった。番はまだ見つかっていない。騒ぎが収まるのを待った。
セレスティーヌが目を覚ましたのは予想外だった。《演技》で死者を演じていたのだと、その場で聞いた。彼女が見たのはグレンだ。シックザールには繋がらない。
リーゼにあの問いを向けられるまで、そう思っていた。
答えられなかったところへ、本物が帰ってきた。
あとは、つい先ほどのことだ。逃げ道を塞がれ、フリルを捕まえても出られず、グレンの《飼育》を受け入れた。
番を見つける前に、殺されるわけにはいかなかった。
⸻
ネーベルは、まだ毛皮に額を押しつけたままだった。
しばらくして、小さな頭がゆっくり持ち上がる。
「……間違いなイ」
鼻先をもう一度、毛皮へ寄せる。
「こいつダ」
シュトルがヴァルターを見る。
ヴァルターは毛皮とネーベルをしばらく見ていたが、やがて低く何かを言った。
グレンには聞き取れなかった。
「持っていっていいそうだ」
シュトルがそう伝える。
ネーベルの耳が、わずかに動いた。
それからヴァルターを見上げる。
しばらくそうしていたが、やがて毛皮へ視線を戻した。
「……そうカ」
それだけ言って、また鼻先を毛皮へ押しつける。
誰もそれ以上、声を掛けなかった。
ネーベルも、そのまま動かなかった。




