第9話 約束は守る
シュトルの目が、グレンの顔で止まった。
「……《飼育》?」
低く繰り返した。
モーントもこちらを見た。剣先は狐へ向いたままだったが、その目には、先ほどまでになかった警戒があった。
ヴァルターは何も言わなかった。
グレンを見ている。
隣で、リーゼが息を呑んだ。
「グレン、キミ……」
続きは出てこなかった。
グレンがそちらを見ると、リーゼは口を開いたまま、こちらを見つめていた。
その名を、グレン自身が明かしてしまった。
リーゼの手がわずかに持ち上がる。グレンの腕へ届く前に止まり、ゆっくりと下がった。
グレンは家族へ向き直った。
「本人が同意すれば、俺の飼育下に置けます」
シュトルの眉が寄った。
「こいつに、それを受け入れさせるというのか」
「はい」
グレンは頷いた。
「俺の飼育下に入れば、フリルを放すように命じられます。これ以上、誰も傷つけさせません」
狐の喉から、低い唸りが漏れた。
金色の目が、グレンを捉えている。
「……私がお前に従ウと?」
グレンは狐へ向き直った。
「お前に、受け入れるか聞いてる」
狐が牙を剥いた。
「断る。道を開けロ」
グレンは動かなかった。
狐の胸が、大きく上下している。
肩の毛に血が滲み、爪が石床を擦った。狐はフリルを押さえたまま、入口のヴァルターたちを見ている。
「その子を連れては行かせられない」
グレンは言った。
「放せと言われても、お前は放せない。このままで、どうするつもりだ」
狐の耳が伏せた。
「近づけば、殺ス」
リーゼの肩が強張った。
グレンも、喉元の爪へ目を落とした。
「……そうなれば、お前も生きては出られない」
狐は答えなかった。
目だけが、ヴァルターへ動いた。
父親は同じ場所に立っていた。
両手を開き、娘を押さえる脚を見ている。
狐はすぐにグレンへ視線を戻した。
グレンは言った。
「《飼育》を受け入れれば、お前は俺の命令に逆らえなくなる。まず、フリルを傷つけずに解放するように命じる」
狐の唇が持ち上がる。
グレンは続けた。
「その代わり、俺がお前の命を預かる。お前を殺させない」
言い終えてから、ヴァルターへ向き直った。
「……俺の飼育下に入れば、これ以上暴れることはありません。人を襲うことも、逃げることも禁じられます」
ヴァルターはグレンを見た。
「こいつがそれを受け入れるなら、命は保証していただきたいです」
返事はなかった。
フリルが、父親を見上げている。
ヴァルターは娘へ目を向け、それから狐を見た。
グレンは待った。
自分の命令で狐を止められても、この人たちまで止められるわけではない。
やがて、ヴァルターの唇が動いた。
短い言葉だった。
シュトルが頷く。
「父上は了承した」
声には、まだ硬さが残っていた。
「フリルを無事に放し、お前の管理下に置けるなら、こいつの命は取らない」
グレンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「グレン」
シュトルが呼んだ。
「確実に止められるんだな」
グレンは顔を上げた。
「成立すれば、命令に逆らうことはできません」
隣で、リーゼがわずかに身じろぎした。
グレンは続けた。
「成立したかどうかは、俺に分かります」
シュトルはしばらくグレンを見ていた。
それから、狐へ視線を戻した。
狐もまた、やり取りを聞いていた。
グレンと父親を見比べ、鼻から荒く息を吐く。
狐はグレンを見据えた。
「私が、お前の姿デあの女を襲った。それでもカ」
グレンは一度、息を吐いた。
「ああ。お前がフリルを放した後も、約束は守る」
狐は口を閉じた。
その間にも、胸は忙しく上下している。
グレンは、フリルの顔を確かめた。
目は開いている。リーゼを見ていた。
「もう一つ、先に言っておく」
グレンは狐へ視線を戻した。
「一度成立した《飼育》は、解除できない。フリルを放して終わりじゃない。その後も、お前は俺の命令に逆らえなくなる」
狐の耳が、低く伏せた。
リーゼの指が、身体の横で握り込まれた。
グレンはそれを見て、一度だけ言葉を切った。
「それを分かった上で、受け入れるか決めてくれ」
狐は、しばらく動かなかった。
庭で、小さな石が転がった。
音を追うように、耳だけが動く。
入口の向こうには夕方の光があった。そこへ続く床は、ヴァルターの足元を通っている。
狐の目が、その足元で止まった。
次に、胸の下のフリルを見た。
少女は獣の脚を握ったまま、浅い息を繰り返している。
狐が顔を上げた。
「……その約束、違えるナ」
グレンは頷いた。
金色の目が、グレンを見据えた。
牙はまだ覗いていた。
「……受け入れル」
グレンは、その言葉を聞き届けた。
「触れるぞ」
狐の目が、グレンの手へ落ちた。
唇の隙間には、まだ牙が見えている。
グレンはゆっくりと近づいた。
誰も動かなかった。シュトルも、モーントも、狐へ目を向けたまま、グレンがその肩のそばへ立つのを見ていた。
間近で見ると、さらに大きい。
灰白い毛には石の粉がこびりつき、その下で身体が呼吸に合わせて動いている。
グレンは手を伸ばし、肩へ触れた。
狐の筋肉が硬くなった。
それでも、身を引くことはなかった。
本人の同意は得ている。
触れた手へ意識を寄せ、グレンは《飼育》を働かせた。
光も、音もなかった。
ただ、掌の下にいる獣との間に、確かな繋がりが生まれた。
狐が短く息を詰めた。
首を捻り、自分の身体へ目を向けかける。毛並みの下のどこかに、《証》が刻まれたのだ。
グレンにも、変化はすぐに分かった。
《飼育》を通して、狐についての膨大な情報が認識へ上ってくる。身体の状態だけではない。欲求も、グレンとの関係も、身につけた能力も、それぞれの数値とともに脳裏へ浮かんでいた。
リーゼと同じように、この獣の状態も分かる。
グレンは流れ込む情報を受け止め、その中にある名を口にした。
「……ネーベル。それがお前の名前か」
狐がグレンを見た。
金色の目が見開かれていた。
肩へ触れていた手を、グレンは離した。
狐の前脚の下には、まだフリルがいる。グレンはすぐに命じた。
「フリルを傷つけずに解放しろ」
狐の肩が強張る。
喉の奥で短く唸り、それから、黒い爪が動いた。
フリルの喉から離れていく。
顎の下に隙間ができた。
続いて、胸へ掛かっていた脚が持ち上がる。
フリルの身体が前へ傾いた。
狐は脚を横へずらし、少女から離れた床へ下ろした。
「フリル!」
リーゼが駆け出した。
シュトルも動いた。
狐との間へ兄が入り、その後ろでリーゼが膝をつく。
フリルは、差し出された手を見た。
姉の顔を見上げる。
伸びかけた指が、一度止まった。
リーゼも手を止めた。
「ボクだよ。フリル」
フリルの口元が歪む。
「……お姉様」
その身体を、リーゼが抱き寄せた。
小さな両手が、姉の服へしがみつく。
グレンは、二人が狐から離れるのを見届けた。
「誰も傷つけるな。その場から動かず、じっとしていろ」
続けて命じる。
狐は鼻に皺を寄せたが、足を動かさなかった。
ヴァルターがこちらを見た。
グレンは、その視線を受け止めた。
短い言葉が返ってくる。
グレンには聞き取れなかったが、モーントの剣が下がった。床を這っていた黒い帯も、シックザールの足元へ戻っていく。
狐は、動かなかった。
自分を囲んでいた者たちが退くのを、目だけで追っていた。
グレンはそのそばに残った。
背後から、フリルの声がした。
「……お父様」
振り返ると、ヴァルターが娘のそばへ膝をついていた。
喉元を確かめる大きな手へ、フリルが片手を伸ばす。
もう片方の手は、リーゼの服を握ったままだった。
ヴァルターの唇が動いた。
何を言ったのか、グレンには聞こえなかった。
フリルの顔が崩れた。リーゼの肩へ顔を埋め、声を上げて泣き始める。
リーゼは妹を抱え直し、何度も背中を撫でた。その顔が、グレンへ向いた。
唇が動きかけたところで、フリルが強くしがみついた。
リーゼは妹へ顔を戻した。
グレンも、狐へ向き直った。
⸻
怪我の手当てと崩落箇所の応急処置が済むと、一同は中央棟の大広間へ集まった。
西側の旧棟へ続く通路は閉じられ、使用人たちが交代で見張っている。崩れた床や壁には近づかないよう縄が張られ、危険のありそうな場所には応急の支えも入れられていた。
フリルは喉元に薄く薬を塗られ、リーゼの隣に座っていた。赤い跡こそ残っているが、それ以外に目立った傷はない。
「まだ痛む?」
「痛みますわ、お姉様。抱きしめてくださいな」
「はいはい。こっちへおいで」
リーゼが腕を広げると、フリルはその脇へ身を寄せた。
ヴァルターは二人の向かいに座っている。その隣にシュトルとモーント、少し離れたところにはシックザールもいた。
グレンは卓から少し外れて立っていた。その背後で、大きな灰白い狐が床に伏せている。
ネーベルを別の場所へ移すことも考えたが、今のところはグレンのそばに置いておく方がいい、という判断になったらしい。本人も何も言わず、前脚へ顎を載せている。
ときおり耳だけが動いた。
使用人が一人、部屋へ入ってくる。
「旦那様。西側ですが、これ以上すぐに崩れる様子はないとのことです。ただ、地下部分まではまだ確認できておりません」
ヴァルターが何かを返す。
「…………」
シュトルが頷いた。
「今夜は閉じたままでいい。誰も入れるな。確認は明るくなってからにする」
「かしこまりました」
「中央棟の方は?」
「そちらには被害は出ておりません」
「分かった」
使用人が一礼して出ていく。
扉が閉じると、しばらく誰も話さなかった。
ヴァルターがグレンを見る。
「…………」
グレンには聞き取れず、シュトルへ視線を移した。
「父上が、フリルを助けてくれたことに礼を言っている」
シュトルは静かに続けた。
「お前のスキルと機転がなければ、あの場はどうにもできなかった。助かった、と」
「……いえ」
グレンはそれだけ返した。
フリルが無事だったことには、心から安堵している。
問題は、その先だった。
ヴァルターの視線が、リーゼへ移った。
「…………」
今度はシュトルが訳すより先に、リーゼが答えた。
「……うん。知ってたよ」
何を聞かれたのかは分かった。
リーゼは《飼育》の名を聞いても、驚かなかった。父親も、その反応を見ていたのだろう。
ヴァルターがもう一度、何かを言った。
「…………」
リーゼはすぐには答えなかった。
シュトルも口を挟まず、モーントも黙って妹を見ている。
フリルだけが、隣にいる姉と父親を交互に見ていた。
少しして、リーゼが息を吐いた。
「……まあ、そうなるよね」
困ったように笑う。
それから、家族を見た。
「ああ、ボクも、グレンの《飼育》の対象なんだ」
誰もすぐには反応しなかった。
シュトルの表情が止まり、モーントの目がわずかに見開かれる。
フリルは意味を確かめるように、リーゼの顔を見上げた。
ヴァルターだけは黙ったまま、娘を見ている。
シックザールも何も言わなかった。
「……説明すると長くなるけどさ」
リーゼが続ける。
「大崩落のとき、そうする必要があったんだ」
そこで一度、グレンへ目を向けた。
「グレンが勝手にやったわけじゃないよ。そこは、先に言っておく」
ヴァルターの目が、今度はグレンへ向いた。
グレンは何も言わなかった。
リーゼが話し終えるのを待った。
やがてヴァルターが口を開く。
「…………」
リーゼが小さく頷いた。
「うん。ちゃんと話すよ」
さらに短く何かが返る。
それを聞いてから、シュトルがグレンへ向き直った。
「詳しい話は、場を改めて聞くそうだ」
「分かりました」
リーゼも頷いた。




