↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/42

第8話 今、聞いてほしいんです

 《門》の向こうで、グレンは鉄格子のそばにいた。床には砕けた石片が散り、天井からはまだ砂が落ちている。


「グレン!」


「リーゼ?」


 リーゼは閉じたままの格子の扉を見て、グレンへ目を戻した。


「出るよ」


 リーゼは《門》を振り返った。


「ここ、もう持たない」


「それは見れば分かる」


 グレンは落ちた石片へ目をやり、眉を寄せた。


「待て。上で何が起きてる」


「説明は後!」


 思っていたより強い声が出た。


「後って、お前――」


 言葉を遮るように、また地下全体が揺れた。


 天井の亀裂から砂がまとまって落ち、二人の間を白く横切る。壁の奥で石が擦れる音が続き、鉄格子が低く鳴った。


 リーゼが手を伸ばす。


「早く!」


 グレンの手が、その手を掴んだ。


 指を包む掌から、はっきりと力が返ってくる。リーゼも強く握り直し、その腕を引いた。


 《門》へ踏み出しかけてから、グレンは一度だけ鉄格子を見た。


「……俺、まだ拘束中なんだけど」


「それも後!」


「いいのか、それで」


「今ここに埋まるよりはいい!」


 グレンは、わずかに息を吐いた。


 リーゼはその手を引き、《門》の向こうへ踏み込んだ。


 背後で、石が一つ大きく落ちた。


⸻


 《門》を抜けた先で、グレンは足を止めた。


 石畳が割れていた。


 庭に面した窓は枠ごとなくなり、その下には硝子と木片が散っている。西側へ目を向ければ、渡り廊下の屋根が途中から落ちていた。折れた梁が斜めに突き出し、壁だったはずの場所を白い瓦礫が埋めている。


 地下で聞いていた音の正体が、目の前にあった。


 背後で《門》が閉じる。


 リーゼは手を離すと、すぐに旧棟の方へ歩き出した。


「リーゼ。何があった」


「姉さんに化けてた魔獣がいた」


 足を止めずに答える。


「そいつが、窓から逃げようとして――」


「化けてた?」


「本物の姉さんが帰ってきたんだ。父さんたちの前で、狐になった」


 グレンは、瓦礫を避けながら隣へ追いついた。


 人の姿を取る魔獣が、屋敷にいた。


「じゃあ、昨日の俺も」


「うん」


 リーゼがこちらを見た。


「キミじゃなかった」


 声はまだ掠れていた。


 それでも、その言葉には今までのような苦しさがなかった。信じていると繰り返すしかなかった時とは違う。


 グレンは息を吐いた。


 聞きたいことは、まだあった。リーゼが前へ目を戻したので、グレンもそちらを見た。


「……静かだ」


 足が速くなる。


 グレンも、旧棟へ目を向けた。


 落ちる石や軋む木の音だけが残り、地下まで響いていた衝撃は止んでいた。


 崩れた渡り廊下を避け、壁の残った入口へ回る。


 その向こうに、シュトルがいた。


「戻ったか」


 顔だけがわずかにこちらを向いた。


 リーゼを見て、その後ろのグレンを見る。


「グレン。疑ったことは、後で詫びる」


 低い声だった。


「今は、そこで止まってくれ」


 グレンは入口の手前で足を止めた。


 シュトルの向こうに、灰白い毛並みが見えた。


 狐だった。


 前室の奥を、ほとんど一頭で塞いでいる。頭を低く構え、唇の隙間から牙を覗かせていた。腹と尾の周りには、払いのけられた石や木片が散っている。


 その手前にヴァルターが立っていた。


 両手を開いたまま、動かない。


 モーントは少し離れたところで剣を構え、シックザールは入口の脇にいた。彼女の足元から伸びた黒い帯が、石床の上で止まっている。


 狐の目が、こちらへ動いた。


 グレンを見た。


 ほんの短い間だった。すぐにヴァルターへ戻る。


「フリル?」


 リーゼの声がした。


 グレンは狐の前脚へ目を落とした。


 壁際に、淡い色のドレスが見えた。


 フリルが座り込んでいる。


 背中を壁へ押しつけられ、肩から胸へ、狐の前脚が掛かっていた。小さな両手が、その脚の毛を握っている。


「フリル!」


 リーゼが前へ出た。


 シュトルの腕が、その胸元を遮る。


 同時に、狐の爪が動いた。


 黒い先端が、フリルの顎の下へ寄る。


 リーゼの足が止まった。


「……お姉様」


 フリルが顔を上げようとした。


 だが、首を伸ばすこともできない。目だけがこちらを向く。


 声が聞こえたことに安堵するより先に、グレンは爪と喉の近さを見ていた。


 少し脚を引くだけで、届く。


「動クな」


 狐が言った。


 グレンは、言葉を発した狐の口元を見て息を詰めた。


 シュトルはリーゼが止まったのを確かめ、腕を下ろした。


「フリル。そのままでいろ」


 妹へ向ける声は、静かだった。


「無理に動こうとするな」


 フリルが小さく頷きかける。


 途中でやめた。


 狐は、ヴァルターを見続けていた。


「道ヲ開けろ」


「その子を放せ」


 シュトルが答えた。


「そうすれば、こちらからは手を出さん」


 狐の鼻先に皺が寄った。


「先ニ、退け」


「フリルを連れては行かせられない」


 低い唸りが返った。


 フリルの指が、灰白い毛の中へ埋まる。


 リーゼが息を吸った。


 グレンには聞こえたが、狐へ何か言うことはなかった。


 ヴァルターも動かない。


 狐の頭と父親の間には、数歩分の石床があった。その距離を、誰も詰められずにいた。


「出口までの道は空ける」


 シュトルが言った。


「だが、その子はここへ残せ。俺たちは追わない」


「信じロと?」


「そうだ」


 狐が牙を剥いた。


「放セば、殺ス」


「殺さんと言っている」


「ソイツもか」


 金色の目が、ヴァルターへ向いた。


 ヴァルターの唇が動いた。


 グレンには聞き取れなかった。


 シュトルが短く頷く。


「父上も、手を出さないと仰っている」


 狐は、なおも父親を見ていた。


 確かめるように、鼻先がわずかに動く。


 それから、首を横へ振った。


「退ケ」


 同じ言葉だった。


 シュトルは答えるまでに、少し間を置いた。


「……連れて出て、その後はどうする」


「離レたら、放ス」


「どこまでだ。門の外か、森までか」


「追ウな」


 それ以上の返事はなかった。荒い呼吸のたび、脚の下にいるフリルの身体まで動いた。


 グレンは入口から、前室の奥を見ていた。


 狐の背後は石壁だった。大きな身体の下にいるフリルへ近づくには、前脚の届く範囲へ入らなければならない。


 モーントの剣先が、ほんの少し下がった。


 狐の目がそちらへ向く。


 すぐに前脚へ力が入った。


 フリルの口から、短い息が漏れる。


 剣先が止まった。


 モーントは何も言わず、構えを保った。


 グレンの隣で、リーゼの手が動いた。


 剣の柄へ触れた指が、そのまま止まっている。


 抜くことも、手を下ろすこともできないようだった。


 昨日、この妹はリーゼを頭の上まで持ち上げていた。


 降ろしてくれと言われても笑って、廊下の向こうへ運んでいった。


 そのフリルが、今は脚を押し返そうともしない。少し動けば喉に爪が入る。グレンも、その距離を見ていた。


「頼む」


 シュトルが言った。


「その子を放してくれ」


 狐の耳が動いた。


「俺たちに用があるなら、話は聞く。何をしに来た」


 灰白い胸が、大きく膨らんだ。


 一度だけ、狐は前室の奥の扉を見た。すぐにヴァルターへ目を戻す。


「道ヲ、開けろ」


 シュトルの顎が、わずかに強張った。


 シュトルは口を閉じた。約束だけでは、どちらも動けなかった。


 庭の方で石が崩れた。


 フリルの肩が跳ねる。


 狐までが身を強張らせ、その爪が喉元の布へ触れた。


「動くな!」


 シュトルの声が鋭くなった。


 狐が唸る。


 ヴァルターの片足が、わずかに前へ出かけた。


 止まった。


 フリルは目を閉じていた。


 爪は、それ以上進まなかった。


 誰も声を出さなくなる。


 グレンは、自分の手を握った。


 武器があっても、今の自分が加わるだけでは届かない。必要なのは、狐を倒す力ではなく、フリルから脚を退かせる方法だった。


 放した後の命を保証し、そのうえで必ず従わせる。


 グレンには、一つだけ方法があった。


 グレンは、狐の前脚からヴァルターへ目を移した。


 何かを言おうとして、唇が動いた。


 声にはならなかった。


 隣にリーゼがいる。


 来る前から、リーゼと何度も隠すと確認していた。


「……お父様」


 フリルが呼んだ。


 ヴァルターが娘を見る。


 大きな手が、身体の横でわずかに動いた。


 それだけだった。


 グレンは、浅く息を吸った。


 狐はまだヴァルターを見ている。口を開け、荒い息を吐きながら、娘へ伸びかけた手を警戒していた。


「その子は、もう抵抗していない」


 シュトルが言った。


「少しでいい。脚を緩めてやってくれ」


 狐は答えなかった。


 フリルの胸へ掛かった脚も動かない。


 シュトルは口を閉じた。妹の顔を確かめ、それからまた狐へ目を戻す。


 昨日、何も知らずに食事を勧めてくれた父親がいる。この人へ、自分の口で言わなければならない。


 隣で、リーゼが身じろぎした。


 妹を見つめたまま、唇を強く結んでいる。剣の柄に触れた指先が白かった。


 グレンは、彼女からも目を逸らさなかった。


 言えば、今までどおりには戻れないかもしれない。


 フリルの小さな手が、獣の脚を握っていた。


 グレンは、その手を見つめた。


 息を吐く。


 握っていた手を、ゆっくりと開いた。


「待ってください」


 グレンは言った。


 思ったよりも声が通った。


 シュトルがこちらを見る。


 リーゼも顔を向けた。


 グレンは一歩だけ前へ出た。狐の目が動いたところで、足を止める。


 両手は、相手に見えるところへ出しておいた。


「話があります」


「……今か」


「今、聞いてほしいんです」


 シュトルはグレンを見た。


 すぐには答えなかったが、やがて身体をわずかにずらした。


 ヴァルターの顔が、こちらへ向く。


「グレン?」


 リーゼの声がした。


 グレンは一度だけ、その顔を見た。


 それから、ヴァルターへ向き直った。


「俺の固有スキルは、《飼育》です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。