第8話 今、聞いてほしいんです
《門》の向こうで、グレンは鉄格子のそばにいた。床には砕けた石片が散り、天井からはまだ砂が落ちている。
「グレン!」
「リーゼ?」
リーゼは閉じたままの格子の扉を見て、グレンへ目を戻した。
「出るよ」
リーゼは《門》を振り返った。
「ここ、もう持たない」
「それは見れば分かる」
グレンは落ちた石片へ目をやり、眉を寄せた。
「待て。上で何が起きてる」
「説明は後!」
思っていたより強い声が出た。
「後って、お前――」
言葉を遮るように、また地下全体が揺れた。
天井の亀裂から砂がまとまって落ち、二人の間を白く横切る。壁の奥で石が擦れる音が続き、鉄格子が低く鳴った。
リーゼが手を伸ばす。
「早く!」
グレンの手が、その手を掴んだ。
指を包む掌から、はっきりと力が返ってくる。リーゼも強く握り直し、その腕を引いた。
《門》へ踏み出しかけてから、グレンは一度だけ鉄格子を見た。
「……俺、まだ拘束中なんだけど」
「それも後!」
「いいのか、それで」
「今ここに埋まるよりはいい!」
グレンは、わずかに息を吐いた。
リーゼはその手を引き、《門》の向こうへ踏み込んだ。
背後で、石が一つ大きく落ちた。
⸻
《門》を抜けた先で、グレンは足を止めた。
石畳が割れていた。
庭に面した窓は枠ごとなくなり、その下には硝子と木片が散っている。西側へ目を向ければ、渡り廊下の屋根が途中から落ちていた。折れた梁が斜めに突き出し、壁だったはずの場所を白い瓦礫が埋めている。
地下で聞いていた音の正体が、目の前にあった。
背後で《門》が閉じる。
リーゼは手を離すと、すぐに旧棟の方へ歩き出した。
「リーゼ。何があった」
「姉さんに化けてた魔獣がいた」
足を止めずに答える。
「そいつが、窓から逃げようとして――」
「化けてた?」
「本物の姉さんが帰ってきたんだ。父さんたちの前で、狐になった」
グレンは、瓦礫を避けながら隣へ追いついた。
人の姿を取る魔獣が、屋敷にいた。
「じゃあ、昨日の俺も」
「うん」
リーゼがこちらを見た。
「キミじゃなかった」
声はまだ掠れていた。
それでも、その言葉には今までのような苦しさがなかった。信じていると繰り返すしかなかった時とは違う。
グレンは息を吐いた。
聞きたいことは、まだあった。リーゼが前へ目を戻したので、グレンもそちらを見た。
「……静かだ」
足が速くなる。
グレンも、旧棟へ目を向けた。
落ちる石や軋む木の音だけが残り、地下まで響いていた衝撃は止んでいた。
崩れた渡り廊下を避け、壁の残った入口へ回る。
その向こうに、シュトルがいた。
「戻ったか」
顔だけがわずかにこちらを向いた。
リーゼを見て、その後ろのグレンを見る。
「グレン。疑ったことは、後で詫びる」
低い声だった。
「今は、そこで止まってくれ」
グレンは入口の手前で足を止めた。
シュトルの向こうに、灰白い毛並みが見えた。
狐だった。
前室の奥を、ほとんど一頭で塞いでいる。頭を低く構え、唇の隙間から牙を覗かせていた。腹と尾の周りには、払いのけられた石や木片が散っている。
その手前にヴァルターが立っていた。
両手を開いたまま、動かない。
モーントは少し離れたところで剣を構え、シックザールは入口の脇にいた。彼女の足元から伸びた黒い帯が、石床の上で止まっている。
狐の目が、こちらへ動いた。
グレンを見た。
ほんの短い間だった。すぐにヴァルターへ戻る。
「フリル?」
リーゼの声がした。
グレンは狐の前脚へ目を落とした。
壁際に、淡い色のドレスが見えた。
フリルが座り込んでいる。
背中を壁へ押しつけられ、肩から胸へ、狐の前脚が掛かっていた。小さな両手が、その脚の毛を握っている。
「フリル!」
リーゼが前へ出た。
シュトルの腕が、その胸元を遮る。
同時に、狐の爪が動いた。
黒い先端が、フリルの顎の下へ寄る。
リーゼの足が止まった。
「……お姉様」
フリルが顔を上げようとした。
だが、首を伸ばすこともできない。目だけがこちらを向く。
声が聞こえたことに安堵するより先に、グレンは爪と喉の近さを見ていた。
少し脚を引くだけで、届く。
「動クな」
狐が言った。
グレンは、言葉を発した狐の口元を見て息を詰めた。
シュトルはリーゼが止まったのを確かめ、腕を下ろした。
「フリル。そのままでいろ」
妹へ向ける声は、静かだった。
「無理に動こうとするな」
フリルが小さく頷きかける。
途中でやめた。
狐は、ヴァルターを見続けていた。
「道ヲ開けろ」
「その子を放せ」
シュトルが答えた。
「そうすれば、こちらからは手を出さん」
狐の鼻先に皺が寄った。
「先ニ、退け」
「フリルを連れては行かせられない」
低い唸りが返った。
フリルの指が、灰白い毛の中へ埋まる。
リーゼが息を吸った。
グレンには聞こえたが、狐へ何か言うことはなかった。
ヴァルターも動かない。
狐の頭と父親の間には、数歩分の石床があった。その距離を、誰も詰められずにいた。
「出口までの道は空ける」
シュトルが言った。
「だが、その子はここへ残せ。俺たちは追わない」
「信じロと?」
「そうだ」
狐が牙を剥いた。
「放セば、殺ス」
「殺さんと言っている」
「ソイツもか」
金色の目が、ヴァルターへ向いた。
ヴァルターの唇が動いた。
グレンには聞き取れなかった。
シュトルが短く頷く。
「父上も、手を出さないと仰っている」
狐は、なおも父親を見ていた。
確かめるように、鼻先がわずかに動く。
それから、首を横へ振った。
「退ケ」
同じ言葉だった。
シュトルは答えるまでに、少し間を置いた。
「……連れて出て、その後はどうする」
「離レたら、放ス」
「どこまでだ。門の外か、森までか」
「追ウな」
それ以上の返事はなかった。荒い呼吸のたび、脚の下にいるフリルの身体まで動いた。
グレンは入口から、前室の奥を見ていた。
狐の背後は石壁だった。大きな身体の下にいるフリルへ近づくには、前脚の届く範囲へ入らなければならない。
モーントの剣先が、ほんの少し下がった。
狐の目がそちらへ向く。
すぐに前脚へ力が入った。
フリルの口から、短い息が漏れる。
剣先が止まった。
モーントは何も言わず、構えを保った。
グレンの隣で、リーゼの手が動いた。
剣の柄へ触れた指が、そのまま止まっている。
抜くことも、手を下ろすこともできないようだった。
昨日、この妹はリーゼを頭の上まで持ち上げていた。
降ろしてくれと言われても笑って、廊下の向こうへ運んでいった。
そのフリルが、今は脚を押し返そうともしない。少し動けば喉に爪が入る。グレンも、その距離を見ていた。
「頼む」
シュトルが言った。
「その子を放してくれ」
狐の耳が動いた。
「俺たちに用があるなら、話は聞く。何をしに来た」
灰白い胸が、大きく膨らんだ。
一度だけ、狐は前室の奥の扉を見た。すぐにヴァルターへ目を戻す。
「道ヲ、開けろ」
シュトルの顎が、わずかに強張った。
シュトルは口を閉じた。約束だけでは、どちらも動けなかった。
庭の方で石が崩れた。
フリルの肩が跳ねる。
狐までが身を強張らせ、その爪が喉元の布へ触れた。
「動くな!」
シュトルの声が鋭くなった。
狐が唸る。
ヴァルターの片足が、わずかに前へ出かけた。
止まった。
フリルは目を閉じていた。
爪は、それ以上進まなかった。
誰も声を出さなくなる。
グレンは、自分の手を握った。
武器があっても、今の自分が加わるだけでは届かない。必要なのは、狐を倒す力ではなく、フリルから脚を退かせる方法だった。
放した後の命を保証し、そのうえで必ず従わせる。
グレンには、一つだけ方法があった。
グレンは、狐の前脚からヴァルターへ目を移した。
何かを言おうとして、唇が動いた。
声にはならなかった。
隣にリーゼがいる。
来る前から、リーゼと何度も隠すと確認していた。
「……お父様」
フリルが呼んだ。
ヴァルターが娘を見る。
大きな手が、身体の横でわずかに動いた。
それだけだった。
グレンは、浅く息を吸った。
狐はまだヴァルターを見ている。口を開け、荒い息を吐きながら、娘へ伸びかけた手を警戒していた。
「その子は、もう抵抗していない」
シュトルが言った。
「少しでいい。脚を緩めてやってくれ」
狐は答えなかった。
フリルの胸へ掛かった脚も動かない。
シュトルは口を閉じた。妹の顔を確かめ、それからまた狐へ目を戻す。
昨日、何も知らずに食事を勧めてくれた父親がいる。この人へ、自分の口で言わなければならない。
隣で、リーゼが身じろぎした。
妹を見つめたまま、唇を強く結んでいる。剣の柄に触れた指先が白かった。
グレンは、彼女からも目を逸らさなかった。
言えば、今までどおりには戻れないかもしれない。
フリルの小さな手が、獣の脚を握っていた。
グレンは、その手を見つめた。
息を吐く。
握っていた手を、ゆっくりと開いた。
「待ってください」
グレンは言った。
思ったよりも声が通った。
シュトルがこちらを見る。
リーゼも顔を向けた。
グレンは一歩だけ前へ出た。狐の目が動いたところで、足を止める。
両手は、相手に見えるところへ出しておいた。
「話があります」
「……今か」
「今、聞いてほしいんです」
シュトルはグレンを見た。
すぐには答えなかったが、やがて身体をわずかにずらした。
ヴァルターの顔が、こちらへ向く。
「グレン?」
リーゼの声がした。
グレンは一度だけ、その顔を見た。
それから、ヴァルターへ向き直った。
「俺の固有スキルは、《飼育》です」




