第7話 道を開けろ
戸口のシックザールが、長椅子の端にいる自分を見た。
「困りましたわ。……わたくしが先に帰宅しておりますわね」
長椅子にいた女は、何も言わなかった。
戸口のシックザールを見たまま、目だけが動く。
戸口から父へ、窓へ。
父は、手にしていた器を卓へ置いた。
それから、リーゼと女の間に立つ。
シュトルがフリルの椅子を引いた。フリルは兄の背へ移る。
モーントも窓際から離れた。
昨夜と同じように、何も言わず女の横顔を見ている。
帰ってきたシックザールは、長椅子の女を見たまま、わずかに眉を寄せた。
それからリーゼへ顔を向ける。
「それでリーゼ、グレンさんはどちらに?」
「……姉さん、今は研究どころじゃないかな」
長椅子の女が肘掛けへ手をつき、立ち上がろうとした。
長椅子が、先に沈んだ。
木がひしゃげる音がする。
女の背が、天井へ押し上がる。
人の輪郭が、そこから先を保てなくなった。
金色の髪が灰白い毛へ変わる。
身につけていた服は、床へ落ちなかった。膨らむ身体に沿って、髪も服も、人の姿を作っていたすべてが毛並みへ呑まれていく。
人の腕が太い前脚になった。
長い鼻面が突き出される。
暗い灰色の耳が、折れたまま梁へ押しつけられた。
長椅子は腹の下で砕けた。尾が卓を壁へ押し込み、食器が床へ散る。
狐だった。
天井まで、灰白い毛並みが詰まっていた。
背を伸ばす余地などない。長い首を曲げ、鼻先をわずかに下げて、ようやく人間たちを見下ろしている。
「まあ、これほど大型の魔獣でしたのね。……素敵な変身でしたわ」
戸口から聞こえた声に、狐の耳が動いた。
本物のシックザールは、砕けた家具の向こうにいる獣を見ていた。その足元で、影がゆっくりと広がっていく。
フリルがシュトルの上着を掴んだ。
妹を背中へ庇ったまま、空いた手で戸口を示した。
「リーゼ、フリルを連れて廊下へ出ろ。窓には近づくな!」
モーントは、すでに剣を抜いていた。
飾り気のない、実用一辺倒の剣だった。切っ先を狐へ向けたまま、低く息を吐く。
「……僕も母さんも、こいつに化かされたって訳だ。グレンには謝らないとね」
リーゼは剣の柄へ手を掛け、それから指を離した。先にフリルの手を取る。妹を連れて戸口へ下がる間も、狐からは目を逸らせなかった。
父が二人の前へ出た。
大きな背が、狐との間を遮る。
その口元がわずかに動いた。シュトルが頷き、獣へ声を張る。
「聞こえているなら止まれ! 抵抗しなければ、命までは取らん!」
狐の淡い金色の目が、父を見た。
次いで、その脇にいるモーントへ。戸口に立つシックザールへ。
最後に、内庭に面した窓へ目を向けた。
「道ヲ、開けロ」
前脚が床を蹴った。
硝子が弾け、窓枠が外へ吹き飛ぶ。肩が両脇の壁を削り、灰白い巨体が内庭へ飛び出した。
父も、その後を追った。
狐が庭へ降り立ち、出口へ向き直ろうとしたところで、父の手が後ろ脚を掴む。
その脚を高く持ち上げながら、父が横へ踏み込んだ。
狐の腰が浮いた。残った三本の脚が石畳を掻くより早く、父は掴んだ脚をさらに横へ振り抜く。
巨体が横倒しになった。肩と脇腹が石畳を打ち、砕けた石が四方へ跳ねる。小間に残っていた窓硝子が、遅れて何枚も落ちた。
リーゼはフリルを連れて小間を出た。
内庭を囲む廊下を走り、西側の旧棟へ続く入口の手前で足を止める。窓からは十分に離れていた。太い柱の陰へ妹を入れ、リーゼもそこで剣を抜いた。
庭では、もう狐が立ち上がっていた。
低く伏せた頭の向こうに、屋外へ抜ける門がある。
狐がそちらへ走り出した瞬間、黒い帯が石畳を横切った。
シックザールの闇魔法だった。
何本もの帯が門の前へ伸び、狐の前脚に絡みつく。狐は脚を振って引き千切ったが、その間に父が回り込んでいた。
進路を塞がれ、狐が牙を剥く。
父は噛みついてきた頭を横へかわし、すれ違いざまに首筋を掴んだ。そのまま廊下の方へ引き倒す。
狐の前脚が踏ん張りを失い、顎が廊下の敷石へ叩きつけられた。勢いの残った胴が横へ流れ、その奥にある旧棟の壁へぶつかる。石組みの目地から白い砂が噴き、壁際の柱に細い亀裂が走った。
「モーント! 太い綱と革帯を出せ!」
シュトルが庭へ下りながら叫んだ。
「お任せあれ」
モーントの空いた左手から、巻かれた綱が落ちた。
続いて馬具の革帯。荷車に使う太い留め紐。何も持っていなかったはずの手から、次々に道具が現れる。
モーントの固有スキル、《収納》だった。
シュトルが革帯へ手を伸ばす。
その指の間に、糸を引いた針が並んだ。シュトルが手を開くと、針は落ちずに宙へ浮いた。
シュトルの固有スキル、《縫製》。針を宙へ待たせたまま、シュトルは革帯を見定めた。
「シシィ、胸の下へ回してくれ!」
「ええ」
黒い帯が革を持ち上げた。
父が狐の頭を押さえている間に、一束が胸の下をくぐり、もう一束が胴へ回る。
シュトルが指先を振った。
針が一斉に手元を離れ、革帯へ飛んだ。縁を表から裏へと繰り返しくぐり、そのたびに糸が張って、重なった革を締め合わせていく。
短い革帯の端と端が縫い合わされ、幾重にも重ねた幅広い帯になる。胸と胴を囲んだ二本が背の上でつながり、そこへ太綱の端が固く縫い留められた。
狐が身を捩る。
縫い目が一斉に張ったが、革は外れなかった。
「父上!」
シュトルが綱を渡す。
父はそれを受け取ると、狐の首から手を離し、庭の中央へ下がった。
自由になった頭が跳ね上がる。
狐はすぐに立ち、廊下沿いに旧棟の入口へ走ろうとした。だが、二歩も進まないうちに綱が張る。胸の革帯に引き戻され、前脚が敷石を滑った。
父は綱を短く持ち直した。
四本の脚を踏ん張っても、狐の身体が少しずつ引き寄せられていく。
その横では、モーントが旧棟の入口との間に立っていた。狐が首を向けるたび、剣先もそちらを向く。門の前には再び闇が集まり、シックザールが指を上げていた。
狐の耳が伏せる。
革帯に覆われた胸が、荒く上下した。
リーゼは剣を握ったまま、父の背を見ていた。
あれだけの獣が、父へ引きずられている。
石に食い込んだ爪が一本ずつ外れ、長い傷を残した。
その時、狐が横へ跳んだ。
父から離れる方角ではなかった。張った綱を軸に、すぐ脇の石壁へ向かって身体を振る。
先ほど亀裂の入った柱へ、肩がぶつかった。
柱の表面が剥がれ落ちた。
父が綱を引く。狐は壁へ前脚を掛け、崩れかけた石組みに爪を食い込ませた。だが、それでも引き戻される。爪に引っ掛かった石が、身体と一緒に壁から抜けた。
柱の上で、梁がずれた。
「壁から離れろ!」
シュトルの声に、モーントが庭側へ跳ぶ。
直後、柱の上半分が崩れた。
支えを失った梁が傾き、廊下の屋根が大きく沈む。狐の背後へ石と瓦が降り注ぎ、その重みを受けた床が、鈍い音を立てて割れた。
リーゼの足元まで、亀裂が走った。
隣でフリルが顔を上げる。
「ここも落ちますわ!」
頭上の梁が片側から外れかけていた。
リーゼが妹の腕を引こうとするより早く、フリルが両手を伸ばした。落ちてきた梁の端を受け、膝を曲げる。
床が鳴った。
それでも、細い腕は折れなかった。
フリルの固有スキル、《解体》。部材を外す間、重みを支えて運ぶ力も備わる。昨日、リーゼを軽々と持ち上げた腕が、今は梁を受け止めていた。
フリルは梁を抱えたまま、ひびの入っていない敷石へ足を移した。持ち上げた端を横へずらし、隣の柱の根元へ下ろしていく。
「お父様、そちらの床から下がってくださいませ! 下が空いております!」
父が綱を引いたまま、庭の中央へもう一歩下がった。
狐が壁際から引き剥がされる。
次の瞬間、今まで獣の立っていた場所が沈んだ。
廊下の床が石材ごと落ち、黒い穴が開いた。底から響いた衝突音に重なって、さらに低い、何かの折れる音がした。
リーゼは穴を見た。
西側旧棟の地下。
あの下には、留置区画がある。
「……グレン」
口にした途端、今朝見た鉄格子と、狭い石の部屋が浮かんだ。
鉄格子の向こうにいるグレンには、逃げる場所がない。
「グレン!」
シュトルが振り向いた。
リーゼを見て、次いで崩れた床へ目を向ける。その顔から表情が消えた。
「行け! こっちは俺たちで押さえる!」
「でも、フリルが――」
「お姉様、早く!」
フリルは梁を支えたまま、顔だけをこちらへ向けていた。
シックザールの闇が、その梁の下へ伸びる。落ちかけた屋根を別の帯が受け、妹の足元へ降っていた瓦の破片が止まった。
リーゼは剣を鞘へ戻した。
廊下から内庭へ下り、崩れた床から距離を取る。まだ身体は重かった。リーゼは一度息を整え、両手を前へ出した。
指先の間に、細い裂け目が生まれる。
地下牢へ通じる《門》。
裂け目の向こうで、石の壁から砂が落ちていた。
リーゼは、その向こうへ飛び込んだ。
⸻
ヴァルターが綱を引き、狐をさらに壁から遠ざけた。
巨体は四肢を突っ張っていたが、石畳を削りながら後ろへ滑っていく。胸に巻かれた革帯が軋む。
シュトルがほつれた継ぎ目を指した。数本の針が宙を走り、その部分へ新たな糸を重ねた。
狐が首を捻った。
庭の一角には、《門》が開いたまま残っていた。そこへ飛び込んだ銀髪の娘は、まだ戻ってこない。
狐は歯を剥き、前脚を石畳へ突き立てた。
その背後で、壁に残っていた梁の端が外れた。
「下がれ!」
シュトルが叫んだ。
ヴァルターが狐を引き寄せる。遅れて落ちた石材が尾のすぐ後ろへ積み重なり、白い粉塵が庭へ噴き出した。
狐の輪郭が、その中へ隠れた。
綱が緩み、ヴァルターの腕が胸元へ戻った。狐の身体が抜けた胴輪が、空のまま石畳へ落ちる。
「姿を変えたぞ!」
シュトルが叫ぶのと、人影が粉塵の下から飛び出すのは同時だった。
モーントは、すぐにその前へ踏み込んだ。
旧棟の入口へ向かう人影の肩を、剣が狙う。
相手は身を沈めた。
刃が頭上を通り過ぎる。そのまま横へ転がり、入口脇へ斜めに倒れた梁の下へ滑り込んだ。
モーントが追う。
太い梁に阻まれ、切っ先は届かなかった。回り込もうとした足元へ、瓦礫が崩れ落ちた。
ヴァルターも横から迫っていた。
人影との間にある石塊を掴み、脇へ放る。空いた場所へ踏み込んだときには、相手はすでに梁の向こう側へ抜けていた。
その先で、フリルが顔を上げた。
少女は旧棟の入口脇で、先ほど受け止めた梁の端を床へ下ろしたところだった。梁は斜めに倒れたまま、フリルと庭の兄たちの間を隔てている。
「フリル、奥へ下がって!」
モーントの声に、フリルが手を離した。
前室へ退こうと、片足を引く。
梁の下から人影が立ち上がった。
銀髪が揺れ、すぐ目の前にリーゼの顔があった。
「お姉――」
引きかけた足が止まった。
その手首を、相手が掴んだ。
強く引かれ、フリルの身体が半回転する。背中へ回り込んだ腕が首の前へ掛かり、喉を押し上げた。
声が途切れた。
「フリル!」
シュトルが梁の端を回り込み、妹へ手を伸ばした。
その手の前で、フリルの身体が持ち上がる。
爪先が床を擦った。
兄の手が止まった隙に、リーゼの姿をしたものが後ろへ跳ぶ。
フリルを抱えたまま、旧棟の前室へ。
モーントが入口へ回り込んだときには、その小さな身体が正面へ差し出されていた。
剣を引く。
床を走ってきたシックザールの闇も、フリルの足元で止まった。
人影はフリルの首へ腕を掛けたまま、壁際まで退いた。
そこで腰を落とす。フリルを床へ座らせるように押し下げ、肩を掴んだ。
その手が、膨れた。
銀髪の間から濃灰色の耳が伸び、見慣れた顔が長い鼻面へ変わっていく。床についた腕が太くなり、灰白い毛に覆われた胸が、フリルの頭上までせり上がった。
ヴァルターが入口を越えたとき、狐はすでにこちらを向いていた。
壁を背にしたフリルが、片方の前脚で押さえ込まれている。
肩と胸に掛かった脚の下から、細い手が伸びていた。少女は毛を掴み、押し返そうとしていたが、獣の脚は動かなかった。
狐が、その脚を少し持ち上げた。
黒い爪の一本が、フリルの喉元へ触れる。
「……近づクな」
ヴァルターが止まった。
狐の息は荒かった。
脇腹には石に擦れた傷があり、胸の毛は革帯に締められた形に潰れている。口を開くたびに唾液が落ち、足元の石を濡らした。
金色の目だけが、ヴァルターから離れなかった。
「……フリルを放せ」
シュトルが言った。
狐は答えず、前脚へわずかに力を込めた。
フリルの肩が壁へ押される。
短い息が漏れた。
モーントは剣を構えたまま、狐の脚と妹の首を見ていた。シックザールの指が止まり、入口から伸びていた黒い帯が床に伏せる。
庭で、また石の落ちる音がした。
フリルの手が、獣の毛を強く握った。
ヴァルターが、空になった両手をゆっくりと開く。
先ほどまで狐の巨体を引きずっていたその手は、数歩先にいる娘へ、もう届かなかった。




