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第6話 どこにあった?

格子の前へ立つより先に、グレンが顔を上げた。


 健康に大きな異常はない。けれど、今朝から満腹の数値はほとんど上がらず、休息もさらに落ちている。


 寝台代わりの簡素な台に腰を下ろしていたグレンは、わずかに身を乗り出した。


 リーゼは格子に手を添えたまま、動かなかった。


 まばたきが遅い。格子を掴んでからも、しばらく俯いたままだった。


「リーゼ。何かあったか」


 呼びかけられてから、一拍遅れてリーゼが顔を上げた。


 唇を一度だけ結ぶ。


「母さんが、生きてた」


 声は掠れていた。


 それでも、伝えるべきことだけは崩さなかった。


 意味を受け取るまで、一瞬かかった。


「……生きてるって」


「目を覚ましたんだ。《演技》で死者になってた。父さんの声に返事をして、それで――」


 言葉が途切れた。


 リーゼは視線を落とさなかった。ここで目を逸らせば、次の言葉まで辿り着けなくなるように。


 グレンの手が、ゆっくりと格子を握る。


「話せるのか」


「まだ傷は痛むみたい。でも、ちゃんと話した。ボクのことも分かった」


 しばらくして、グレンは息を吐いた。


 深く、胸の奥に溜め込んでいたものを、ようやく外へ出すように。


「……よかった」


 低い声だった。


「よかった。本当に」


 リーゼがほんの少しだけ目を伏せる。


 次のことを言うまでに、長く息を吸った。


 言いかけた唇が、一度閉じられた。


「ただ、母さんは昨夜のことを話した」


 グレンは、わずかに息を詰めた。


「……何を」


「旧棟で、キミを見たって」


 その顔を、近くで見た。


 声は返ってこなかった。


 父を呼ぶと言った時、こちらへ近づいてきて――。


 そこまで言ったところで、グレンが首を横に振った。


「それ以上はいい」


 リーゼが顔を上げる。


「でも」


「細かいことは、あとで聞く。今は無理に言わなくていい」


 格子の向こうで、リーゼの手がわずかに震えた。


 グレンは息を整える。


「俺は、そこへ行っていない」


 格子を握る手に、わずかに力が入る。


「セレスティーヌさんを傷つけたのは俺じゃない」


 リーゼはすぐには返事をしなかった。


「母さんは、こんな嘘をつかない」


「うん」


「モーント兄さんも」


「お前がそう言うなら、俺もそう思う」


 リーゼの目が揺れる。


「二人が見たことと、俺がやってないこと。今は、それがどう繋がるのか分からない」


「じゃあ、どうすれば」


 リーゼの声が途切れた。


「二人はグレンを見たんだよ」


 抑えた声が、最後だけ震えた。


「ボクも、キミがそんなことをするとは思わない。でも、母さんも兄さんも……」


 グレンは、格子のそばへ立った。


 リーゼの言葉を遮るように、ただ事実を返す。


「俺の知らないところで、二人が俺を見た。そのことを、今の俺には覆せない」


 訳の分からないまま疑われていることには、腹も立つ。でもリーゼに、母親を疑えと言う気にはなれなかった。


「でも、俺はやってない」


 それだけは曖昧にできない。


「今すぐ、どちらかが嘘をついてると決めなくていい」


 リーゼは何か言おうとして、口を閉じた。


「そんなこと……」


 リーゼは視線を落とす。


「そんなこと、できるのかな」


 満腹と休息の低さが、改めて意識に引っかかった。


 ほとんど残っていない力で、リーゼはまだ格子の前に立っている。


「リーゼ」


「なに?」


「何か食べろ」


 リーゼが、わずかに眉を寄せた。


「今、そんな話をするの?」


「ああ、そうだ」


 少し強い声になった。


「昨夜から動きっぱなしだろ、もう限界のはずだ」


「……ボクだけ、食べて眠って、そんなことできないよ。キミはここに閉じ込められてるのに」


「お前が休んでいる間に、俺がここからいなくなることはない」


 グレンは言った。


「逃げないから。お前が一人で急がなくていい」


 リーゼは返事をしなかった。


 格子に添えた指が、わずかに滑る。


「頼むよ。お前が倒れたりしたら、そっちの方が困る」


 格子の前のリーゼは、しばらく動かなかった。


 考えているのか。ただ、次の息を待っているのか。グレンには分からない。


 やがて、リーゼはゆっくり息を吐く。


「……母さんとモーント兄さんは、グレンを見た」


 独り言のような声だった。


「でも、グレンはそこにいなかった」


 リーゼが顔を上げる。


「だったら。二人が見たのは、グレンじゃなくて……グレンの姿をした、別の誰かだったのかもしれない」


 まだ確かめていない。それでも、これなら二人が見たことと、グレンがしていないことが両立する。


「俺の姿をした、別の誰か」


 グレンは、その言葉を繰り返した。


「まだ、仮だよ」


「分かってる」


「でも、ボクはそれを調べる」


 残っていた力のすべてを、その一言へ集めたような声だった。


 グレンは短く頷く。


「なら、まず食事だけでもするんだ。お前が考えたことを、ちゃんと追えるように」


 リーゼは目を閉じた。


 頷くまでに、少し時間がかかった。


「……分かった」


 格子から手を離す。


 指が身体の横へ落ちてから、ようやく背を向けた。


「また来る」


「待ってる」


 リーゼは返事の代わりに、一度だけ頷いた。


 数歩進んだところで、足がわずかに止まる。


 それでも振り返らず、歩き出した。


 階段の手すりに手を掛け、リーゼはゆっくり上がっていった。


⸻


 グレンのところを出てから、リーゼは自分がどこをどう歩いたのか、ほとんど覚えていなかった。


 食堂の隣の小間へ通される。


 器が置かれる。


 匙がある。


 右手にある。


 持つ。口へ運ぶ。


 そういうことを、一つずつ確かめなければ、次に何をすればいいのか分からなかった。


 父が作ったのだと、シュトルが言った。


 細かく裂いた肉と、柔らかく煮た野菜の入ったスープだった。


 一口飲む。


 温かい。


 塩気がある。


 そこまでは分かった。


 けれど、次の匙をすくう頃には、何を口に入れたのか曖昧になっていた。


「リーゼお姉様。もう少しだけ」


 フリルの声がする。


「食べてるよ」


 答えた。


 たぶん、答えた。


 自分の声だったはずなのに、少し離れたところから聞こえた。


「話はあとでいい」


 シュトルが言う。


「今は食べろ」


「全部じゃなくていいから」


 モーントの声もした。


 父は何も言わない。


 けれど、リーゼの手が止まるたび、器とリーゼの顔を見ていた。


 みんなが心配している。


 それは分かる。


 分かるのに、言葉が手元へ残らない。


 グレンはしていない。


 母さんは見た。


 モーント兄さんも見た。


 母さんは嘘をつかない。


 グレンも、嘘をつかない。


 どれも、頭の中で同じ場所を回る。


 先へ進まない。


「姉さん」


 気づけば、リーゼはシックザールを呼んでいた。


 長椅子の端に座っていた姉が、こちらを見る。


「人が……別の人に見えるようになることって、ある?」


 シックザールは少しだけ考えた。


「気軽にできることではございませんわ。少なくとも、普通の魔法や幻術では」


 その声は、落ち着いていた。


「あるとすれば、人の姿を取る固有スキルか、擬態する魔獣。薬で認識を乱された可能性も、なくはありませんけれど」


 固有スキル。


 魔獣。


 薬。


 言葉が三つ、頭の中へ落ちた。


 沈んでいく。


「……声も?」


「そこまで同じにできるかは、それぞれでしょうね」


 それで、話が終わった。


 リーゼは、しばらくシックザールを見ていた。


 いつもなら、それでは終わらない。


 どこまで再現できるのか。顔だけなのか。声は。歩き方は。見破る方法は。


 一つ答えを聞けば、次の問いを自分で作る。


 こちらが止めるまで、話す。


 けれど、シックザールは何も続けなかった。


 固有スキル。


 魔獣。


 薬。


 それ以外は、もう頭に残っていなかった。


 ただ、会話がそこで終わったということだけが、妙に重かった。


「……そっか」


 リーゼは匙へ視線を戻した。


 スープは、いつの間にか半分ほど減っていた。


 自分で飲んだのか。


 誰かが手伝ったのか。


 思い出せない。


 フリルが長椅子へ置かれたクッションを引き寄せた。


「少し横になってください」


「寝てる場合じゃ」


 言いかけて、続きが出てこなかった。


「眠れなくてもいい」


 シュトルが言う。


「目を閉じろ」


 リーゼは反論できなかった。


 長椅子へ身体を預ける。


 背中から、力が抜けていく。


 目を閉じる。


 母さんの手が浮かぶ。


 白い布。


 血。


 次には格子があった。


 グレンがいる。


 口を開いている。


 何を言ったのかは、分からない。


 目を開ける。


 天井がある。


 フリルがいる。


 誰かが椅子を引く音がする。


 また、目を閉じる。


 母さんは生きていた。


 グレンはやってない。


 母さんは見た。


 モーント兄さんも。


 同じことばかりが、順番を変えて戻ってくる。


 眠ったのか、ずっと考えていたのか、途中から区別がなくなった。


 次に目を開けた時、窓の光はもう、床の端にしかなかった。


 父が、冷めた器を新しいものへ替えようとしている。


 フリルはリーゼの足元の椅子で、うとうとしていた。


 シュトルは机の端へ書類を積み、モーントは窓の外を見ている。


 シックザールは、先ほどと同じ長椅子にいた。


 その姿を見た瞬間、頭の奥で、何かが止まった。


 グレンの姿をした、別の誰か。


 なら、グレンだけではない。


 誰かの姿を取れるなら。


 昨日、この家へ来た時。


 父もいた。


 母さんもいた。


 シュトルも、モーントも、フリルもいた。


 いなかったのは、シックザールだけだった。夕方になって一人で帰り、楽しみにしていた研究を明日へ回した。


 今日も答えだけを返して、話を終えた。


 リーゼは、長椅子にいる姉の顔を見た。


 リーゼは起き上がった。


「姉さん」


 シックザールが顔を上げる。


「前に、ボクの服の下で見つけたもの。あれは、どこにあった?」


 小間が静かになる。


 シュトルが、怪訝そうにリーゼを見る。


 フリルは眠たげな目を瞬かせた。


 シックザールは答えなかった。


「……何のお話ですの?」


 その声を聞いても、もう迷わなかった。


 同じ頃、廊下の向こうで玄関の扉が開く音がした。


「ただいま戻りましたわ」


 聞き覚えのある声だった。


 フリルが息を呑む。


 戸口に、金色の髪の女が立った。


 リーゼの顔を見て、父たちを見て、それから長椅子の端にいる、自分と同じ顔を見た。


「……まあ」


 帰ってきたシックザールが、初めて言葉を失う。


 リーゼは立ち上がったまま、そちらへ向いた。


「姉さん」


「はい?」


「前に、ボクの服の下で見つけたもの。どこにあった?」


 シックザールは、問いの意味を考えるより先に答えた。


「鎖骨の下ですわ」


 長椅子にいたシックザールを見る。


 身体は重いままだった。今、告げることだけは分かっている。


「父さん」


 リーゼは言った。


「そっちの姉さんは、姉さんじゃない」

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