第5話 間違えようがありませんわ
母の身体は、夜のうちに自室へ移されていた。
旧収蔵室へ続く西側の廊下は狭い。途中の前室で一度折れ、奥の収蔵室へとつながっている。
母が倒れていたのは、その前室だった。
壁際の棚は斜めにずれ、椅子が一脚、通路を塞ぐように横倒しになっている。石床に残った血だけが、昨夜から何も動いていないように見えた。
使用人たちが入ったあとだから、床にはいくつもの足跡が重なっている。
リーゼは血の跡の手前で立ち止まり、しばらく前室を見回した。
昨夜、父とシュトルが確かめていたとおり、刃物の痕はない。壁にも床にも、魔法が使われたらしい跡は見当たらなかった。凶器になりそうな物も残っていない。
素手だったのかもしれない。
あるいは、犯人が持ち去った何かを使ったのか。
リーゼは倒れた椅子の脇に屈み、棚の裏まで確かめた。立ち上がると、モーントが相手を見た廊下へ向かった。
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前室を出て中央棟へ戻る途中、モーントと会った。
昨夜のままの、道化師じみた派手な服を着ている。リーゼが近づくと、モーントは顔を上げた。そこに、いつもの芝居がかった笑みはなかった。
「兄さん。昨日のこと、少しだけ確認させて」
モーントは何も言わず、リーゼの続きを待った。
「兄さんが見たのは、西廊下を中央の方へ歩いてくるグレンだよね。母さんが襲われたところでも、旧棟から出てきた瞬間でもない」
「ああ」
「それから先は?」
「中央棟側の角を曲がって、見えなくなった。僕は現場の方へ向かったから、追ってはいない」
昨夜、シュトルに答えた内容と変わらない。
十歩もない距離だった。灯りはついていた。モーントは正面から顔を見て、グレンの名を呼んだ。
相手は一度だけこちらを見たが、返事をしなかった。
襲撃そのものは見ていない。それでも顔を見間違えた可能性は、低そうだった。
リーゼは小さく頷き、兄の前を離れようとした。
モーントは口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。
「……ありがとう、兄さん」
リーゼは振り返らずに言って、そのまま歩き出した。
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シュトルを見つけたのは、中央棟の大ホールだった。使用人へ指示を出していた兄は、リーゼが近づくとすぐそちらを見た。
「昨夜、みんなから聞いたことを見せて」
シュトルは一瞬だけ黙り、手元の紙を差し出した。
騒ぎのあと、館内にいた者の動きを確認した記録だった。
屋敷の外へ出た者はいない。
リーゼとフリルは、東側二階で一緒にいた。使用人たちも、食後の片づけや夜番の場所については互いに確認が取れている。
一方で、全員の行動が最初から最後まで誰かに見られていたわけではなかった。
シックザールは自室にいたと言っている。そこにいたことを見た者はいない。
父も兄たちも、事件が起きるまでのすべての時間を、誰かと一緒に過ごしていたわけではない。
グレンも同じだった。
客室に戻ったところを見た者はいない。客室にいたことを証明できる者もいない。
ただ、グレンだけには、現場の近くで姿を見たという証言がある。
リーゼは紙を読んだまま、しばらく動けなかった。
「……これだけじゃ、何も変わらないね」
シュトルは紙を受け取りながら、小さく頷いた。
「そうだ」
グレンだけに、現場の近くで見られた証言がある。その一点を覆せなければ、状況は動かない。
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母の部屋へ戻ると、血で汚れていた髪は拭われ、裂けた衣服も替えられていた。傷口には白い布が当てられ、寝台の上には清潔な寝具が整えられていた。
死者のための身支度は、もう済んでいた。
リーゼが部屋へ入ると、フリルが顔を上げた。
寝台の脇の椅子に座り、母の手のそばへ両手を置いている。触れているわけではなかった。
昨夜から何度も泣いたのだろう。目の周りは赤く腫れ、普段なら丁寧に結われている髪も、肩へほどけかけていた。
リーゼの姿を見ると、フリルは何かを尋ねかけた。
けれど、何も言わなかった。
リーゼも、答えられなかった。
父は寝台のそばにいた。
大きな身体を椅子へ沈め、片手だけを母の手の上へ置いている。そこから離れたところを、リーゼはまだ見ていない。
シュトルは壁際の机に書類を広げていた。使用人へ出す指示や、昨夜から確かめたことが書かれた紙だ。
けれど、筆記具は置かれたままだった。
モーントは窓の近くに立っている。
昨日と同じ、あまりにも派手な服を着ていた。いつもならそれに似合うように振る舞う兄が、今は窓の外を見たまま、一度も口を開かない。
シシィは少し離れた長椅子に座っていた。
リーゼが入ってきたことへ、静かに目礼を返す。
誰も、母の名前を呼ばなかった。
呼んでも、返事はない。
それを、もう全員が知っている。
リーゼは空いていた椅子へ腰を下ろした。
何も見つけられなかった。リーゼは膝の上で手を重ね、母の顔を見た。
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえた。
その声を聞いて、リーゼは昼が近いことを知った。
昨夜から、時間だけが進んでいる。
父がわずかに身を寄せた。
母の顔のすぐそばへ。
唇が動く。
声は聞こえない。
父が母へ何かを話しかけていることだけは分かった。
母の手へ重ねた父の指が、動きを止める。
「わたくしは、あれくらいが好きですわよ」
リーゼは、すぐには顔を上げられなかった。
聞き間違いだと思った。
けれど、フリルが息を呑む音がした。
シュトルが椅子を引く。
モーントが窓際から振り返る。
父だけが、まだ動かなかった。
父が何を言ったのか、リーゼには聞こえていない。その返事をした声だけは、間違えようがなかった。
「……お母様?」
フリルの声が震えた。
寝台の上の母は、返事をしない。
瞼も閉じたままだった。
けれど、長い指先が、父の手の中でわずかに動いた。
リーゼは立ち上がった。
心臓が、ひどく大きな音を立てている。
母の瞼が揺れる。
ゆっくりと、目が開いた。
最初に見たのは、父の顔だった。
次に、寝台の周りへ集まった子どもたちを見た。
シュトゥルム、モーントシャイン、シックザール。リーゼを見て、最後にフリルへ。
母は、そこまで見てから自分の身体へ目を落とした。
眉がわずかに寄る。
寝台の上で起き上がろうとして、すぐに動きを止めた。
「……わたくし、役に入り込みすぎてしまっていたようですわね」
⸻
「母上……!」
シュトルの声は低かった。
けれど、最後の一音だけがわずかに揺れた。
すぐに扉へ向かい、廊下にいる使用人へ指示を出す。
戻ってきた兄は、寝台のそばへ膝をついた。
母が目を閉じるだけで、また戻ってしまうのではないかとでも思っているように、顔を見つめている。
フリルは、しばらく動けなかった。
それから、恐る恐る母へ手を伸ばす。
母の方から、その手を取った。
フリルの顔が歪んだ。
「お母様……」
声にならなかった言葉と一緒に、涙が落ちた。
今度は、母の手から離れなかった。
モーントが一歩だけ近づく。
「母上」
兄も、それ以上は言えなかった。
いつものように、何かを飾ることはしなかった。
父はまだ、ほとんど何も言っていない。
母の頬へ手を触れ、そこにいることを確かめるように、ゆっくり指を動かしている。
母は父を見つめた。
それから、自分の手を重ねた。
指先が、父の指を握り返す。
父の肩が、初めて揺れた。
リーゼは寝台の反対側へ回った。
「母さん」
呼ぶと、母の視線がこちらへ向いた。
「リーゼ」
いつもの声だった。
そのことだけで、息ができなくなった。
リーゼは母の手へ触れた。
冷たくはなかった。
触れた指先へ、弱いながらも力が返ってくる。
母さんは生きている。
その事実を受け入れるまで、少し時間がかかった。
やがて、セレスティーヌは浅く息を整えた。
シュトルが止めようとしたが、母は首を横に振る。
昨夜のことを、すべてではなく、まず自分がどうしていたのかだけ話した。
襲ってきた相手と向き合い、自分では敵わないと判断したこと。
だから、"死んだふり"を選んだのだということ。
⸻
母の固有スキル、《演技》。姿勢や歩き方、言葉を選ぶ間や感情の動く癖まで、自分の中に再現する。昨日、幼いリーゼを演じた時のように、そこにいる人物そのものになってしまう。
今回、彼女が演じたのは死者だった。
呼吸も脈も、心臓さえ止まっていた。
それでも、死んではいなかった。
生きている人間には本来あり得ないその状態を、役を演じているあいだだけ成立させる。それが、母の《演技》だった。
「死者なら、呼ばれても返事はいたしませんでしょう」
セレスティーヌは、申し訳なさそうに目を伏せた。
役に入り込むうち、自分が演じていることまで忘れていたらしい。父の言葉に妻として返事をして、ようやく思い出したのだという。
リーゼは、すぐには何も言えなかった。
フリルの手が、もう一度母の手を強く握る。
セレスティーヌはその小さな手を撫でた。
「ごめんなさいね」
声は先ほどより小さかった。
「皆さまに、こんな思いをさせてしまって」
フリルが首を振る。
モーントも、俯いたまま首を振った。
シュトルは何も言わず、寝台の脇へ立っていた。
母が生きている。
今は、それだけでよかった。
⸻
ひとまず母を寝台へ休ませ、傷の手当てを済ませてから、シュトルが昨夜のことを尋ねた。
父は、変わらず寝台の脇にいた。母の手を包んだまま、ひとことも発さない。
フリルは母の反対側で、その手を握っている。モーントは窓際へ下がり、シシィは少し離れた長椅子に座ったまま、口を挟まなかった。
リーゼは寝台のそばに立っていた。
「母上。無理はなさらずに。昨夜のことを、話せる範囲で聞かせてください」
母は一度、目を閉じた。
「西側の旧棟で、何かが擦れるような音がいたしましたの」
夜番の使用人が入る場所ではない。
気になって、旧収蔵室へ続く前室まで様子を見に行ったのだという。
「旧収蔵室の扉の前に、人が立っていらっしゃいました」
母は、リーゼを見た。
「グレンさんでしたわ」
部屋の中から、音がなくなった。
「母さん」
声が掠れた。
「顔を見たの?」
「ええ」
母はためらわない。
「わたくしが声をかけると、こちらを向かれました。灯りもついておりましたし、距離も数歩ほどでしたわ」
「正面から?」
「正面からです」
母の声は静かだった。
「間違えようがありませんわ」
リーゼは息を詰めた。
近くで、正面から顔を見た。モーントの証言と、同じだった。
「何をしていたの?」
「それは、分かりませんわ」
母はゆっくり首を横に振った。
「扉の前にいらして。わたくしが、そこで何をなさっているのかとお尋ねしましたけれど、何もお答えになりませんでしたの」
「それで?」
「旧収蔵室は、許可なく入る場所ではありません。お部屋へ戻っていただくようお伝えいたしました」
フリルの指が、母の手の上で強くなる。
「それでも何もおっしゃらないので、お父様をお呼びすると申し上げましたの」
母の言葉が、そこでわずかに途切れた。
「その時ですわ。グレンさんが、こちらへ来られました」
リーゼの喉が詰まる。
「胸を強く打たれて、棚へぶつかりました。そのまま床へ倒れて……起き上がろうといたしましたけれど、また近づいてこられて」
母は視線を伏せた。
「自分では敵わないと思いましたの」
だから、死んだのだと思わせることを選んだ。
目の前にいる相手へ、これ以上襲う必要はないと思わせるために。
「そのあとは?」
リーゼが尋ねると、母は首を横に振った。
「目を閉じておりましたから、分かりませんわ」
「……なら」
窓際のモーントが、低く言った。
「僕が見たのは、そのあとだ」
誰も兄へ顔を向けず、その続きを待った。
「西側の廊下から中央棟へ戻ってくるグレンさんだった。僕が呼んでも、返事はなかった」
母を襲った相手。
旧棟から離れ、中央棟の方へ歩いていく姿。
昨夜から別々にあった二つの証言が、そこでひとつにつながった。
リーゼは母を見た。
「本当に、グレンだったの?」
同じことを聞いている。答えも分かっているのに、聞かずにはいられなかった。
母は少しだけ悲しそうに目を細めた。
「ええ、リーゼ」
柔らかな声だった。
「わたくしを襲ったのは、グレンさんでしたわ」
「もういい」
シュトルが言った。
「これ以上は、母上の負担になる」
リーゼは何か言おうとして、口を閉じた。
シュトルは寝台の脇へ立ったまま、しばらく考えていた。
「旧収蔵室には、古い武具や魔道具、魔獣の素材が保管されている」
誰かを責めるための声ではなかった。
「何かを盗もうとしていたのか。あるいは、探していたものがあったのか。それはまだ分からない」
けれど、夜にあの場所へいた理由としては、もっとも自然だった。
「グレンが、そんなことを……」
言葉が続かなかった。
母の身体には傷があり、モーントも同じ顔を見た。リーゼは口を閉じ、母の顔を見つめた。
「リーゼ」
母が手を伸ばした。
リーゼはその手を取る。
「あなたが、グレンさんのことを何か知っていて、黙っていたとは思っておりませんわ」
「……ボクは、何も知らない」
「分かっております」
母の指が、リーゼの手をそっと撫でた。
シュトルがリーゼを見る。
「旧収蔵室のことを、グレンから聞いたことはあるか」
「ないよ」
リーゼはすぐに答えた。
「ボクからも、あそこに何があるのかは話してない。グレンは知らないはずだ」
「分かった」
シュトルは頷いた。
それ以上、問いを重ねることはなかった。
リーゼは母の手を見つめたまま、浅く息を吐く。
「……分からない」
声が弱くなった。それしか言えなかった。
「でも、グレンじゃない」
母は否定しなかった。
ただ、リーゼの手を離さなかった。
しばらくして、シュトルが言う。
「グレンには、こちらから改めて話を聞く」
そして、リーゼへ目を向けた。
「お前が本人と話したいなら、面会は許可する」
リーゼは顔を上げた。
「会わせて」
母が生きていたことも、見たことも、自分の口で伝えなければならない。
シュトルは短く頷いた。
リーゼは、母の手を静かに離した。




