第4話 キミじゃない
最初に動いたのは、ヴァルターだった。
セレスティーヌの傍らに膝をついたまま、周囲へ視線を巡らせる。
壁に残った血の跡。倒れた飾り台。床に散った花瓶の破片と、大きくずれた絨毯。
それから、セレスティーヌの腕を取り、袖を少し上げた。
露わになった腕にも、赤黒い痕が残っている。
「……父さん」
シュトゥルムが低く呼んだ。
ヴァルターが何かを言う。
小さな声だった。
シュトゥルムが頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
次に振り返ったとき、シュトゥルムの顔からは動揺が消えていた。
「門を閉めろ。今夜この屋敷にいた者は、一人も外へ出すな」
使用人たちが一斉に顔を上げる。
「西側を封鎖。ここから先には誰も入れるな。今いる人間を全員確認しろ。二人残ってここを見張れ。何にも触るな」
「はい!」
返事とともに、使用人たちが散っていく。
ヴァルターも立ち上がっていた。
床に倒れている妻ではなく、廊下と、そこにいる人間たちを見ている。
シュトゥルムも同じだった。
ほんの少し前まで、そこにいたのは妻の傍らに膝をつく夫と、母親を前に立ち尽くす息子だった。
今はもう違う。
グレンはそこで初めて、リーゼから聞いていた言葉を実感した。
アルヴェイン家は、武門の家だ。
その変化についていけていないのは、フリルだった。
床に倒れたセレスティーヌを見たまま、リーゼの服を掴んでいる。リーゼもその手を振りほどかず、妹を自分のそばへ寄せていた。
「……兄さん」
モーントシャインが呼んだ。
シュトゥルムが振り返る。
「どうした」
モーントシャインはすぐには答えなかった。
その視線がグレンへ向く。
「俺、さっきグレンを見た」
リーゼが顔を上げた。
「兄さん?」
「ここへ来る少し前だ。この先の角からグレンが出てきた。かなり近かったから、顔も見た。声をかけたけど返事はなくて、そのまま行ってしまった」
モーントシャインが西廊下の奥を見る。
「俺はそのままこっちへ来た。それで、母さんを見つけた」
空気が変わった。
シュトゥルムはしばらくモーントシャインを見ていた。
「間違いはないな?」
「ああ」
短い返事だった。
グレンは口を開く。
「待ってくれ。俺は部屋にいた」
「そうだよ。ボクも一緒にいた」
リーゼがすぐに続いた。
「さっきまでグレンの部屋に――」
そこで言葉が止まる。
リーゼの服を掴んでいたフリルが、姉を見上げた。
リーゼが部屋を出たあと、二人は一緒にいた。
そのことを、この場ではフリルが誰よりよく知っている。
シュトゥルムがリーゼを見る。
「お前が部屋を出たあとは?」
「……」
「一人だった」
グレンが答えた。
シュトゥルムはそれ以上聞かなかった。
「兄さん。グレンじゃない」
リーゼが一歩前へ出る。
「ボクはグレンを知ってる。母さんにこんなことをするはずが――」
「…………」
ヴァルターの声だった。
聞き取れないほど小さい。
それでも、リーゼは止まった。
ヴァルターはグレンを見ていた。
昼間まで向けられていた柔らかな目ではない。
何かを言う。
「はい」
シュトゥルムが答えた。
そしてグレンへ向き直る。
「グレン。地下へ来てもらう」
「兄さん」
リーゼが再び口を挟もうとする。
だが、シュトゥルムはグレンから目を逸らさなかった。
「抵抗はしてくれるなよ」
低い声だった。
拒む余地はなかった。
グレンは一度ヴァルターを見た。
その後ろでは、使用人たちがすでに指示どおり動いている。
「……分かった」
「グレン」
リーゼがこちらを見る。
「大丈夫だ」
そう答えて、グレンはシュトゥルムに従った。
廊下を離れる直前、一度だけ振り返る。
リーゼはその場に立ったまま、こちらを見ていた。
その隣では、フリルがまだ姉の服を握っていた。
その夜、グレンはアルヴェイン邸の地下牢へ入れられた。
壁際の簡素な寝台で目を閉じても、眠れなかった。石の冷たさが背中へ伝わるたび、昨夜の光景が戻ってくる。
床に広がった血。
その中に倒れていたセレスティーヌ。
モーントシャインの声。
そして、こちらを見るリーゼの顔。
地下牢の小窓は、地面に近いところにあった。
夜のあいだは何も見えなかったそこから、今は薄い朝の光が差し込んでいる。格子の影が、床の上へ長く伸びていた。
階段から足音が聞こえた。
グレンは寝台から起き上がる。
足音は途中で一度止まり、またゆっくり近づいてくる。
姿を見せたのは、リーゼだった。
リーゼは着替えていた。髪はいつもより乱れている。
鉄格子の前まで来ると、リーゼはしばらく何も言わなかった。
格子の向こうにいるグレンを見る。
昨夜の別れ際と同じように。
「おはよう」
ようやく出てきた声は、少し掠れていた。
「牢屋に朝の挨拶しに来たのか」
「一応」
リーゼは小さく笑った。
笑顔にはならなかった。
グレンはそれ以上、軽口を続けなかった。
「……眠れてないだろ」
リーゼの視線がわずかに揺れる。
休息不足。眠気。精神的な疲労。昨夜からほとんど回復していない。
「まあね、ほとんど寝てない」
「フリルは?」
「さっき寝たよ」
リーゼは鉄格子へ手を掛けた。
「母さんの部屋の前で泣き疲れて、そのまま。ボクの部屋へ連れていこうとしたんだけど、嫌だって。母さんのそばから離れたくないって言うから」
そこで言葉が止まる。
リーゼは一度、目を伏せた。
「父さんも、兄さんたちも、ずっと起きてる。使用人たちも交代で見張りをしてる。誰も、どうしていいか分からないんだと思う」
グレンは返事をしなかった。
何を言っても、今は違う気がした。
「父さんはね」
リーゼが続ける。
「キミがやったって確信してるわけじゃない」
「ああ」
「兄さんも同じだよ。モーント兄さんが見たことを無視できないから、ああするしかないって」
「分かってる」
「……分かってるんだよね。キミは」
リーゼは少し苦しそうに笑った。
「……ボクも、理屈では分かるよ」
鉄格子を掴んだ指先に、少し力が入る。
「母さんがああなって、君は唯一の部外者で、目撃証言まである」
リーゼはそこで初めて、グレンから目を逸らした。
「でも、納得したくはない」
地下牢の石壁を見る。
「少し前まで、みんなで夕食を食べてたんだ。父さんはキミにもっと食べろって言って、フリルは結婚するのかなんて聞いて……」
言葉が、そこで止まった。
リーゼは息を吸い直す。
「それが、気づいたら母さんは死んでいて、キミはここにいる」
グレンは鉄格子のそばまで歩いた。
けれど、その向こうへ手を伸ばすことはできなかった。
「リーゼ」
「……待って」
すぐに返ってきた。
声は強くなかった。
「たぶん今、キミに大丈夫だって言われたら、余計に駄目になる」
グレンは黙った。
リーゼも、すぐには次を言わなかった。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「キミじゃない」
その言葉だけは、迷わなかった。
「キミは、母さんにこんなことをしない」
リーゼはグレンを見つめた。
グレンは少しだけ眉を寄せた。
「モーント兄さんも、嘘をついてるとは思わない。何があったのか、ボクが調べる」
先ほどより静かな声だった。
「現場をもう一度見て、兄さんにも話を聞く。昨日は誰も、ちゃんと考える余裕なんてなかったから」
「……無茶はするなよ」
「しないよ」
リーゼは少しだけ笑った。
「母さんに言われたばかりだしね」
その笑みはすぐ消えた。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「キミを信じてるから調べる。父さんたちにも、ちゃんと分かる形でキミじゃないって言えるように」
グレンは頷いた。
「分かった」
「待ってて」
「ああ」
リーゼは鉄格子から手を離した。
階段へ向かう前に、一度だけ立ち止まった。
「……本当は、ここに来たらもっと何か言えると思ってたんだけどね」
「何を」
「分からない」
リーゼは困ったように笑った。
「顔を見たら、少しは落ち着くと思ってた」
リーゼは階段へ向かった。
「何か分かったら、また来るよ」
「ああ」
足音が一段ずつ遠ざかっていく。
その音が聞こえなくなったあとも、グレンはしばらく鉄格子の前に立っていた。
薄い朝の光は、まだ地下牢の床までしか届いていなかった。




