第3話 今は?
シックザールが姿を見せたのは、それから一時間以上が経ってからだった。
すでに夕食の支度は整い、グレンたちも食堂へ集まっている。
「姉さん」
最後に入ってきたシックザールを、リーゼが呼び止めた。
「結局、戻ってこなかったね」
「申し訳ありませんわ。思いのほか手間取ってしまいましたの」
「終わったの?」
「ええ。ひとまずは」
「で、何してたの?」
「それは秘密ですわ」
シックザールは微笑んだ。
リーゼはしばらく姉の顔を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「まあいいや。それより研究はどうする? 夕食を食べたら始める?」
「まあ、そうでしたわね」
シックザールが窓の外へ目をやる。
「さすがに遅くなりましたわね。明日の朝からにいたしませんこと?」
「グレンは?」
「俺は構わない」
一日延びれば、《飼育》を隠して過ごす時間も長くなる。グレンは隣のリーゼを見てから、食卓へ目を戻した。
「じゃあ、明日だね」
「ええ」
話が決まったところで、それぞれ席についた。
昼間は順番に顔を合わせていたため、グレンがアルヴェイン家の人間を一堂に見るのはこれが初めてだった。
父のヴァルターと母のセレスティーヌ。その子供は五人。
長男のシュトゥルム。その下に次男のモーントシャインと長女のシックザールがいて、次女のリーゼ、末妹のフリルことフリューリングと続く。
忘れようにも忘れにくい人間ばかりだった。
「お姉様、こちらをどうぞ」
隣に座ったフリルが、さっそくリーゼの皿へ肉を取り分けている。
「ありがとう。でも自分で取れるよ」
「存じておりますわ」
昼間にも似たようなやり取りを聞いた気がする。
料理はすでに食卓を埋めるほど並んでいた。
昼間、ヴァルターが一瞬で解体した魔獣も、その大部分が料理になっている。厚く焼かれた肉に、香草と一緒に煮込まれた部位。骨から取ったらしい濃い色のスープまである。
「…………」
ヴァルターがグレンに何か言った。
正面から聞いても、やはり声が小さすぎる。
少し離れたシュトゥルムが顔を上げた。
「父上は、『存分に味わってくれ』と仰っている!」
「ありがとうございます」
グレンはまず、昼間に勧められた肉を取った。
焼き目のついた表面へナイフを入れると、思いのほか抵抗なく刃が沈む。一口食べれば、見た目ほど脂っこくもない。魔獣特有の癖もほとんど感じなかった。
「美味しいです」
ヴァルターが小さく頷いた。
それだけで満足したのかと思ったが、すぐに大皿へ手を伸ばし、別の部位をグレンの皿へ載せる。
「…………」
「そちらも食べてみてほしいそうだ!」
「いただきます」
今度は煮込まれた肉だった。
食べ終わるより先に、ヴァルターがまた別の皿へ手を伸ばす。
「父さん。グレンの皿、もういっぱいだよ」
リーゼに言われ、ヴァルターはグレンの皿を見た。
「大丈夫です。まだ食べられます」
そう答えると、ヴァルターは満足そうに頷いた。
どうやら気に入った料理は一通り食べてもらいたいらしい。
シュトゥルムはヴァルターの言葉をグレンに伝えながら、自分の食事もかなりの勢いで進めている。セレスティーヌは時折リーゼの皿や顔を見ていたが、昼間のように怪我を確かめようとはしなかった。
モーントシャインは道化姿のままだった。
窓枠に座っていたときには異様にしか見えなかった格好も、家族の誰一人として気に留めていない。
シックザールもごく自然にその中へ混じっていた。
しばらくは、リーゼが家を離れてからの話が続いた。
やがて話題が途切れたところで、セレスティーヌが娘を見た。
「リーゼ、遺跡でのこと、聞いてもいいかしら?」
リーゼの手が止まった。
「うん、もちろんだよ」
「手紙では、崩落に巻き込まれたことしか分からなかったから」
セレスティーヌの声音は穏やかだった。
「話したくないことまで聞くつもりはないわ。ただ、何があったのかは知っておきたいの」
リーゼは少し考えてから、グレンを見た。
決めていた説明でいいか、確かめる視線だった。グレンが頷くと、リーゼは家族へ向き直った。
「最初は、いつも通りの探索だったんだ」
そこからは、ギルドでも話した通りだった。
複数のパーティで遺跡へ潜り、想定を上回る魔物と遭遇した。戦闘の最中に連携が崩れ、放たれた大規模な魔法が遺跡そのものを巻き込んだ。
「使った本人は?」
シュトゥルムが尋ねた。
「亡くなったよ。崩落に巻き込まれた」
それまでの声より少し低くなった。
シュトゥルムも表情を改める。
「そうか」
「それで、お姉様とグレン様だけが地下に?」
フリルが尋ねる。
「ああ。少なくとも、ボクたちがいた場所には二人だけだった」
「怖くありませんでしたの?」
リーゼはすぐには答えなかった。
手元の皿へ一度目を落とす。
「……怖かったよ」
フリルが少し驚いた顔をした。
「出口も分からなかったし、《案内》を使っても地上へ続く道は出なかった。救援が来る保証もない。あのまま終わる可能性は、本気で考えた」
セレスティーヌが黙って娘を見ている。
ヴァルターも食事の手を止めていた。
「でも、帰ってきただろう?」
モーントシャインが言った。
「ああ」
「どうやって?」
「空間魔法だよ」
リーゼは答えた。
「《門》を使って、二人で外へ出たんだ」
モーントシャインの眉が上がった。
「空間魔法?」
「ああ。前から練習してたんだ。まだまともに使えたことはなかったけどね」
「それが、あそこで使えたのか?」
「どうにかね。他に出る方法もなかったから、試してみたんだ」
グレンは黙って聞いていた。本当は、あのとき初めて得た空間魔法だった。
「そんな練習をしてたなんて知らなかったな」
シュトゥルムが言った。
「言ってなかったからね。使えるようになるかも分からなかったし」
「……見捨てられた人形にとっては、糸のない夜こそが最初の舞台、か」
「モーント。今のは、もう少し遠くを見るように言った方がいいわ」
モーントシャインは神妙に頷いた。
セレスティーヌがリーゼへ向き直った。
「それで、怪我をしたのは崩落のとき?」
「ほとんどはね。あとは脱出する途中に少し」
「今は?」
「もう大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当だって」
今度はフリルが、リーゼの手元を覗き込んだ。
「お姉様、痛いところはございませんの?」
「ほとんどないよ」
「ほとんど?」
「……言葉尻を拾わないでくれるかな」
フリルの眉がわずかに下がる。
リーゼは困ったように笑って、その頭へ手を伸ばした。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に平気だから」
フリルはしばらく姉を見上げていたが、ようやく頷いた。
「無茶はなさらないでくださいませ」
「ああ。約束するよ」
「…………」
ヴァルターが何かを言った。
リーゼの表情が止まった。
「父さん」
「…………」
「昔の話だろ、それは」
セレスティーヌが小さく笑った。
「何を言われたの?」
グレンが尋ねる。
リーゼは少し嫌そうな顔をした。
「『その約束は何度目だ』って」
「なるほど」
「納得しないでくれ」
グレンが笑うと、リーゼは不服そうにパンを千切った。
重くなりかけていた食卓の空気も、それで少し緩んだ。
⸻
「グレン様は、お姉様とはいつもご一緒なのですか?」
フリルが尋ねた。
「いつもってわけじゃないよ」
リーゼが答える。
「仕事は一緒に受けることが多いけど、住んでるところは別だしね」
「近くではあるけどな」
グレンが付け加えた。
「ああ。歩いてすぐだよ」
「では、お互いのお部屋にも行かれるのですか?」
フリルの問いに、リーゼは何でもないことのように頷いた。
「まあね。用がなくても行くことはあるよ。グレンも来るし」
「そうなのですか」
フリルは頷いた。
そのまま少し考えるようにリーゼを見ていたが、やがてグレンへ顔を向ける。
「では、グレン様はお姉様とご結婚なさるのですか?」
リーゼの手が止まった。
「……どうしてそうなるんだい」
「お二人はいつも一緒で、お互いのお部屋にも行かれるのでしょう?」
「だからって結婚するとは限らないだろ」
「では、なさらないのですか?」
今度はフリルがリーゼへ尋ねた。
「それは……」
リーゼが一瞬だけ言葉に詰まる。
「今はそういう関係じゃないよ」
代わりにグレンが答えた。
リーゼがこちらを見る。
「今は?」
「……そこを拾うなよ」
リーゼは少しだけ頬を赤くしたまま、グレンを見ていた。
フリルも二人を交互に見る。
「なるほど、これからですのね」
「話が飛びすぎだよ、フリル」
リーゼはそう言って、パンを一口ちぎって口へ運んだ。
⸻
夕食を終えて食堂を出たあと、グレンは自分にあてがわれた客室へ戻った。
研究は明日からになった。今夜はもう特にすることもない。
荷物を整理していると、しばらくして扉が叩かれた。
「グレン、少しいいかい?」
「ああ」
扉を開けると、リーゼが立っていた。
部屋へ通すと、リーゼは長椅子の端へ腰を下ろした。グレンも荷物を片づけてから、その隣に座る。
「それで?」
「いや、特に用事があるわけじゃないんだけどね」
リーゼは少し笑った。
「今日はほとんど家族に連れ回されてたから、ちゃんと話せてなかっただろ?」
「確かにな」
「どうだった? うちの家族」
グレンは今日会った面々を順に思い浮かべた。
「全員、一度会ったら忘れないと思う」
「それはいい意味で?」
「半分くらいは」
「もう半分が気になるね」
リーゼが苦笑する。
実際、話に聞いていた以上に癖の強い一家だった。
それでも、居心地が悪かったわけではない。突然やってきた娘の相棒を、少なくとも歓迎してくれていることは伝わっている。
「父さんにも気に入られてたじゃないか。あれだけ食べさせてもらったんだから」
「あれはそういう意味なのか?」
「父さんの愛情表現さ」
「ただ、少し意外だったな。《飼育》のことを知られるのをあれだけ警戒してたから、もっと厳しい人なのかと思ってた」
「父さんは優しいよ。普段はね」
最後の一言が妙に引っかかった。
リーゼはそれ以上説明するでもなく、背もたれに身体を預けた。
「でも、なんか不思議だな。グレンがここにいるの」
「そうか?」
「うん。ここでグレンとこうして話してるの、今まで想像したことなかったから」
そう言いながら、リーゼはどこか嬉しそうだった。
話しているうちに、リーゼの肩がグレンの腕へ触れた。長椅子にはまだ余裕がある。グレンも場所を空けず、そのまま話を聞いていた。
しばらくして、廊下から足音が聞こえた。
その瞬間、リーゼの肩がわずかに離れた。
二人とも黙る。
足音は扉の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかっていった。
リーゼはしばらく扉を見ていた。
「……今のところは、大丈夫そうだね」
「ああ」
何のことかを確かめる必要はなかった。
今日だけでも、危ない場面はあった。
「セレスティーヌさんには見られかけてたけどな」
「危なかったよ。何かを隠してるとは思われたかもね。まあでも、まさか自分の娘がキミに飼われてるだなんて考えもしないだろうけど」
リーゼが小さく息を吐く。
「しばらくは、気を抜かない方がいいな」
「ああ」
足音はもう聞こえない。
少しして、離れていたリーゼの肩が、またグレンの腕に触れた。
⸻
それからもしばらく、二人はそのまま話していた。
再び廊下から足音が聞こえてきたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
今度は通り過ぎない。
扉の前で止まり、そのまま控えめに叩かれる。
「お姉様、いらっしゃいますか?」
フリルの声だった。
「いるよ」
リーゼが答えると、扉が開いた。
顔を覗かせたフリルは、長椅子に並んで座る二人を見てから、リーゼへ視線を戻した。
「お姉様。そろそろ参りましょう!」
「もうそんな時間?」
「今日はわたくしと一緒にお休みになるのでしょう?」
「ああ。昼間に散々せがまれたからね」
「お姉様がいいと仰ったのです!」
「分かってるよ」
リーゼは苦笑して、長椅子から立ち上がった。
「じゃあ、また明日。おやすみ、グレン」
「ああ。おやすみ」
リーゼが扉まで行くと、フリルは嬉しそうにその手を取った。
「グレン様も、おやすみなさいませ!」
二人が廊下へ出ていき、扉が閉まる。
グレンは残っていた荷物を片づけると、明日の支度を済ませた。
⸻
その声が聞こえたのは、グレンがそろそろ休もうとしていた頃だった。
「――誰か!」
遠くから響いた声に、グレンは顔を上げた。
一瞬、誰の声なのか分からなかった。
今日の芝居がかった声とは違う。モーントシャインの叫びだった。
「誰か来てくれ!」
続けて響いた声に、グレンは椅子を引いて立ち上がった。
扉を開ける。
静まり返っていた廊下に、次々と人が出てくるところだった。使用人たちも声のした方角を確かめ、そのうちの何人かが走り出す。
西側だ。
グレンも後を追った。
中央を抜け、古い造りの残る西側へ入る。
声を頼りに廊下を進み、角を曲がったところで、前を走っていた使用人が足を止めた。
その先にモーントシャインがいた。
床に膝をついている。
その前に、一人の女が倒れていた。
グレンの足も止まった。
血が出ている。
頭の下から流れた血が床に広がり、長い金色の髪の一部を赤黒く濡らしていた。すぐそばの壁にも血の跡が残っている。
強く頭を打ったのだ。
それだけは、見れば分かった。
壁際に置かれていた細い飾り台が横倒しになり、上にあったらしい花瓶が床で割れている。破片は廊下に散らばり、敷かれていた細長い絨毯も大きくずれていた。
モーントシャインは何も言わなかった。
今日一日まとっていた道化師の振る舞いも、芝居がかった身振りも消えている。ただ床に倒れた女の傍らに膝をつき、その顔を見つめていた。
「兄さん!」
背後から声がした。
リーゼがグレンの横を駆け抜けていく。
だが、モーントシャインのところまで行く前に、その足が止まった。
「…………」
声が出なかった。
その直後、いくつもの足音が重なった。
「何があった!」
シュトゥルムが駆け込んでくる。
少し遅れて、その後ろからフリルも走ってきた。
「お兄様、どうなさったのです――」
フリルの声が途切れた。
シュトゥルムも、それ以上は何も言わなかった。
さらに別の足音が近づいてくる。
「何事ですの?」
シックザールだった。
彼女も人の間から床へ目を向ける。
そして、黙った。
誰も動かない。
誰も、次の言葉を出せない。
そこへ、廊下の向こうから大きな人影が現れた。
ヴァルターだった。
集まった使用人たちが、何も言われないまま左右へ退いた。
ヴァルターはその間を通り、倒れている女の傍らまで来る。
モーントシャインが場所を空けた。
大きな身体が、ゆっくりと片膝をつく。
ヴァルターは女の肩に触れた。
続いて、首元へ指を当てる。
誰も声をかけなかった。
グレンも、その手元を見ていた。
しばらくして、ヴァルターの手が離れた。
それだけだった。
何も言わない。
けれど、その場にいる全員に意味は伝わった。
リーゼは立ち尽くし、フリルもその背後から動けずにいた。いつも声の大きなシュトゥルムまで黙っている。誰も、その身体へもう一度呼びかけようとはしなかった。
先ほどまで賑やかだった屋敷から、音が消えていた。
グレンも、その場で動けなかった。
血の中に倒れていたのは――アルヴェイン家の母、セレスティーヌだった。




