第2話 一度会ったら忘れない
ヴァルターたちとの話を終え、グレンは客室へ向かう使用人に続いた。玄関ホールの階段を上がり、二階の廊下を進んでいく。
しばらく歩いたところで、先を行く使用人の足がわずかに緩んだ。
廊下の突き当たりに、大きな窓がある。
開け放たれたその窓枠に、男が腰掛けていた。
二階だというのに、身体の半分を外へ出している。
銀髪に、白く塗られた顔。黒い化粧の目元と描かれた笑み、大きな襟飾りに膨らんだ袖。どう見ても道化師だった。
グレンが足を止める。
男がゆっくりこちらを向く。
「おや」
何もない両手を広げた。
「グレン・ローデン」
初対面の相手から名前を呼ばれ、グレンはわずかに眉を寄せた。
男は気にした様子もなく、右手を返す。
何もなかった掌に、小さな黒い箱が現れた。
「人は皆、自分でも知らない箱を抱えているものさ」
箱を指先で弄びながら、男は言う。
「その蓋が開く瞬間を見るのが、僕は好きでね」
ぱちん、と指を鳴らす。
黒い箱が消え、代わりに赤い箱が現れる。
「追い詰められると、余計なものから一つずつこぼれていく」
赤い箱を宙へ放る。落ちてくる前に青い箱へ変わり、それも消えた。
最後に、白い箱が現れた。
男はそれを耳元で振る。
何の音もしない。
「そうして最後まで残るのは――当人にとっても思いもよらないものだったりする」
白い箱の蓋が開く。
中から、一輪の花が現れた。
「大崩落に呑まれて、それでも妹と二人で帰ってきた」
男は花を摘み上げる。
「さて」
花が消える。
「君の箱には、何が残ったんだろうね」
今度は銀貨が現れた。
「宝か」
銀貨が消える。
「傷か」
何もない掌を、ゆっくり閉じる。
「それとも――」
そこで言葉を切る。
「秘密か」
グレンは黙ったまま、男を見た。
男もまた、描かれた笑みを浮かべたままこちらを見ている。
「グレン」
後ろから声がした。
グレンが振り向く。
リーゼがこちらへ歩いてきていた。
その隣にはフリルもいる。
「ああ、リーゼ」
窓辺の男が片手を上げた。
リーゼの視線がそちらへ向く。
足が止まった。
「……モーント兄さん?」
リーゼは兄の顔を見る。
服を見る。
もう一度、顔を見る。
「何その格好」
男は胸へ手を当て、大仰に一礼した。
「ようやく僕も、本当の自分を見つけたのさ」
「先月からですわ、お姉様」
フリルが言った。
リーゼはそのまま兄の方へ歩いていく。
「久しぶり、兄さん。最後に会ったときは、孤独を愛する詩人だったっけ?」
「あれは思ったより寂しくてね」
男も窓枠から降りた。
「久しぶり、リーゼ。無事でよかったよ」
「心配かけたね」
「報せを受けたときは、さすがに驚いたよ。この僕でもね。怪我は?」
「もうほとんど治ってる」
「それならよかった」
リーゼがグレンと兄を見比べる。
「兄さん、グレンにちゃんと名乗った?」
「ああ、そうだったね」
男はグレンへ向き直った。
「モーントシャイン・アルヴェイン。リーゼの兄だ」
「グレン・ローデンです」
「ああ。よろしく、グレン」
⸻
その後、グレンは使用人に案内され、二階の客室へ通された。
荷物を置き、最低限の説明を受ける。
リーゼとフリルもそのまま付き合っていたが、部屋に長居する理由もない。
「せっかくだし、少し屋敷の中を案内しようか」
リーゼの提案で、三人は再び一階へ降りることになった。
階段を下りたところで、奥の方からシュトゥルムの声が響いてくる。
「父上! これはこっちでいいのか!」
グレンが声の方を見る。
「兄さん、相変わらずよく通る声だね」
「シュトルお兄様ですもの」
リーゼとフリルは特に気にした様子もなく、そのまま廊下を進んでいく。
ほどなくして、厨房の手前にある広い作業場へ出た。
そこでヴァルターが腕まくりをしていた。
その前に置かれているものを見て、グレンは足を止める。
牛より一回り大きな四足の魔獣が、作業台に一頭丸ごと横たえられていた。すでに息はない。
傍らには包丁や鉈が並んでいた。
ヴァルターはそのどれにも手を伸ばさず、獣の胴へ片手を置いた。
次の瞬間。
「…………」
グレンは目を瞬いた。
さっきまでそこにあった一頭の獣が、消えている。
代わりに作業台の上へ並んでいたのは、切り分けられた肉だった。
骨、皮、内臓、脂。それ以外の細かな部位まで、用途ごとに分けられている。
血が飛び散った様子すらない。
ほんの一瞬前まで一頭の獣だったものが、もう料理に使うための材料へ変わっていた。
「……今の」
「ああ」
リーゼは何でもないことのように答える。
「父さんの《料理》だよ」
ヴァルターは肉の一つを持ち上げ、状態を確かめている。
やがて、こちらへ気づいた。
リーゼを見る。
「…………」
「うん。部屋は見てきたよ」
「…………」
「大丈夫。困ってることもない」
普通に会話が続いている。
グレンにはほとんど聞こえない。
ヴァルターは満足したように頷き、それからグレンへ視線を移した。
「…………」
グレンも見返す。
数秒。
やはり分からない。
少し離れたところにいたシュトゥルムが振り返った。
「父上は――!」
一気に声量が上がる。
「『今夜の夕食に使う肉だ! せっかく来てくれたのだから、遠慮せず好きな部位を言ってくれ! できる限り君の好みに合わせよう!』と仰っている!」
「……ありがとうございます」
グレンは作業台の肉からヴァルターへ目を戻した。
「何でも大丈夫です」
「…………」
「『そうか! ならば任せてもらおう!』と!」
ヴァルターが小さく頷いた。
そして、何事もなかったように次の肉へ手を伸ばす。
グレンはその手元を見ながら、ほんの少しだけ距離を取った。
⸻
「リーゼ!」
背後から声が飛んできた。
リーゼが振り返る。
「母さん」
廊下の向こうから、金髪の女性が歩いてきていた。
華やかな顔立ちに、背筋の伸びた歩き方。家の中だというのに、舞台へ出てくる役者のように妙に目を引く。
その足取りが、リーゼの前まで来たところで急に速くなった。
「本当にもう。どれだけ心配したと思っているの」
「ごめん」
女性はそのまま娘を抱きしめた。
リーゼも抵抗せず、母の背へ腕を回す。
「ただいま、母さん」
「お帰りなさい」
抱擁は思ったより長かった。
ようやく身体を離したところで、リーゼの母がグレンへ目を向けた。
「あら。そちらが?」
「ああ。グレン・ローデン。ボクの相棒だよ」
「初めまして。グレン・ローデンです」
「セレスティーヌ・アルヴェインよ。リーゼの母です」
柔らかく笑ってから、セレスティーヌはすぐに娘へ向き直った。
「それで、怪我は?」
「もうほとんど治ってるよ」
「肩は?」
「大丈夫」
「脇腹も怪我をしたのでしょう?」
「そこも平気だよ」
「見せて」
「本当に大丈夫だから」
「あなた、昔から怪我を隠すでしょう」
「隠してないって」
セレスティーヌが上着へ手を伸ばす。
リーゼの手が、その手首を掴んだ。
セレスティーヌが止まる。
リーゼを見る。
「……本当に大丈夫だから」
「…………」
数秒して、セレスティーヌは手を引いた。
「そう?」
「ああ」
「なら、今は信じておきましょう」
それ以上は追及しなかった。
リーゼが小さく息を吐く。
その横で、セレスティーヌがふっと笑った。
「昔から変わりませんこと」
「何が?」
「何でも自分で大丈夫だと言うところ」
「そんなことないよ」
「ありましたわよ」
セレスティーヌがわずかに姿勢を変えた。
肩が落ち、顎が少し上がった。足を開き、片手を腰へ当てる。顔も髪も背丈も、そのままだ。
「『ボク、一人でできるもん!』」
グレンは目を見開いた。
目の前のセレスティーヌが、リーゼの面影を残した幼い少女にしか見えなかった。
少し顎を上げる癖や、強がる目つき。尖らせた口元はどこか得意げで、息の吸い方から語尾の跳ね方まで、グレンの知るリーゼの癖が幼い形でそこにあった。
子供の頃のリーゼなど、一度も見たことがない。
それでも、きっとこんな少女だったのだろうと思えてしまう。
「そんな言い方してない!」
「していたぞ!」
作業場からシュトゥルムの声が飛んでくる。
「兄さん!」
セレスティーヌはまだ戻らなかった。
今度は腰へ当てていた手を下ろし、少し俯く。
さっきまでの強気な表情が消えた。
眠そうに目を細め、何かを握るように片手を前へ伸ばす。
「『……寝るまで手、離しちゃ駄目だからね』」
「母さん! それは今関係ないだろ!」
リーゼがとうとう母の肩を掴んだ。
頬が赤い。
セレスティーヌがふっと息を吐く。
それだけで、幼い少女の面影が消えた。
背筋が伸び、目元が柔らかくなる。
次に瞬きをしたときには、そこにいるのは最初に会った華やかな女性だけだった。
「まあ、昔の話ですものね」
リーゼはしばらく黙っていた。
それから、グレンを見ないまま言った。
「……忘れてくれ」
「努力はする」
⸻
セレスティーヌと別れてから、しばらく経った頃だった。
玄関の方から、扉の開く音がした。
「ただいま戻りましたわ」
聞き覚えのある声だった。
グレンがそちらを見る。
リーゼは一瞬遅れて、目を見開いた。
「……姉さん?」
玄関ホールへ出る。
開いた扉の前に、金髪の女が立っていた。
シックザールだった。
「姉さん、今帰ってきたの?」
「ええ。ただいま」
「ただいま、じゃないよ。ボクたちより先に帰るって言ってたじゃないか」
「……ええ」
「父さんたちにも話しておくって」
「そうでしたわね」
「来てみたら姉さんはいないし、何も聞いてないって言われるし。どこに行ってたんだい?」
「少々、予定が狂いまして」
「また何か見つけたの?」
「まあ、そのようなところですわ」
リーゼが息を吐いた。
「まったくもう……」
シックザールは小さく頭を下げた。
「申し訳ございません」
「まあ、帰ってきたならいいよ」
そこでリーゼが隣のグレンを振り返った。
「グレン」
「ああ」
二人の視線を追って、シックザールもグレンを見る。
「俺は大丈夫です。皆さんにも事情は説明できましたから」
「まあ、そうでしたか」
シックザールが頷く。
「ご迷惑をおかけしましたわね」
「いえ」
ともかくシックザールは戻ってきた。ようやく、ここへ来た目的に取りかかれる。
「それじゃあ姉さん、少し休んだら始めようか」
「まあ!」
シックザールが目を見開いた。
「そうでしたわね」
そのまま頬へ手を添える。
「困りましたわ。まだ一つ、済ませておかなければならないことがございますの」
「さっき言ってたやつ?」
「ええ」
「それ、ボクたちの研究と関係あること?」
「そうですわね……」
シックザールはわずかに考えた。
「無いとも言い切れませんわね」
「何それ。何するの?」
「それは秘密ですわ」
シックザールはにこりと笑った。
「終わってからのお楽しみ、ということで」
「またそうやって……」
リーゼが呆れたように息を吐く。
「時間かかるの?」
「どうでしょう。確認してみなければ何とも言えませんわね」
「じゃあ、終わったら呼んでよ」
「ええ、もちろんですわ」
シックザールはそう答えると、廊下の奥へ向かって歩き出した。
「姉さん」
数歩進んだところで、リーゼが呼び止める。
シックザールが振り返った。
「今度はちゃんと戻ってきてよ」
「まあ」
シックザールが微笑む。
「善処いたしますわ」
「そこは約束してくれないんだね……」
シックザールは答えず、軽く手を振った。
そのまま廊下の角を曲がり、姿が見えなくなる。
リーゼはしばらくその先を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「仕方ない。もう少し待とうか」
「ああ」




