第1話 ボクの家だよ?
最初の衝撃は、頭上から来た。
鈍く、腹に響く音だった。分厚い石天井のさらに上で、何か重いものが叩きつけられたらしい。
グレンは壁から背を離した。石組みの隙間から砂が落ちている。
地下へ入れられてから、どれくらい経っただろう。高い位置の小窓から差す光だけでは、時刻までは分からない。武器も預けてあり、廊下との間には厚い鉄格子がある。
「……今のは何だ」
返事はない。鉄格子へ近づいたところで、二度目が来た。
今度は、足の裏ではっきり分かるほど床が揺れた。壁に固定された灯りが軋み、格子が低く鳴る。ぱき、と乾いた音がした方を見ると、石の継ぎ目に細い亀裂が伸びていた。
「誰かいるか!」
声が廊下の奥へ消えていく。見張りも、上の騒ぎに駆り出されているのか。
グレンは格子の扉へ手を掛けた。外から施錠されている。素手で破るには時間が要る。
三度目の衝撃が来た。
今度は、地下全体が一度大きく沈んだように感じた。
「――っ」
格子を掴んで身体を支えた直後、頭上で石が擦れた。拳より大きな石片が落ち、さっきまで座っていた場所で砕ける。
白い粉塵の向こうで、壁から天井へ亀裂が広がっていた。この格子のせいで、逃げ場がない。
そのとき、牢の中央に一本の裂け目が走った。
石壁でも床でもない。何もない空間から明るい光が漏れ、音もなく左右へ開いていく。
「……《門》?」
開き切るのを待たず、銀髪の少女が飛び込んできた。頬にも服にも白い埃がついている。
「グレン!」
――話は、前日の午後まで遡る。
⸻
アルヴェイン邸は、もう道の先に見えていた。
中央の大きな棟から左右へ建物が伸び、その片側だけ、遠目にも石造りの古さが分かる。リーゼから大きな家だとは聞いていたが、実際に見ると想像していた以上だった。
「……あれか」
「うん。もうすぐだよ」
隣を歩くリーゼの声には、いつもよりわずかに緊張が混じっていた。
「思ってたより大きいな」
「そう?」
「そこで育ったお前には分からないか」
「ボクにはあれが普通だったからね」
リーゼは少し笑い、襟元へ伸ばしかけた手を止めた。
「見えてないよね?」
「見えてない」
「ならいい」
短く答えて、手を下ろす。
訪問の理由は、シックザールの研究への協力。それ自体は事実だ。《飼育》のことさえ話さずに済めばいい。
「姉さんには任せてあるし、普通にしていれば大丈夫さ」
「そうだな」
「そんなに構えなくてもいいよ。少し変わってはいるけど、悪い人たちじゃないから」
「『少し』?」
「……そこは会ってから判断してくれ」
リーゼは涼しい顔でそう言って、門へ向かった。
ほどなくして二人は玄関前へ着いた。
リーゼが扉を叩く。
少しして、内側から足音が近づいてきた。
扉が開く。
出迎えた使用人は、リーゼの顔を見るなり目を見開いた。
「リーゼお嬢様……?」
「久しぶり。急に帰ってきてすまないね」
「いえ、そのような――お帰りなさいませ」
驚きはすぐに喜びへ変わった。
使用人は深く頭を下げ、それからリーゼの隣にいるグレンへ視線を移した。
「こちらはグレン・ローデン。姉さんから聞いていると思うけど――」
使用人の表情に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
リーゼの言葉が止まる。
「……聞いてない?」
「申し訳ございません。シックザールお嬢様からは、何も」
「何も?」
「はい。それどころか、シックザールお嬢様はまだお戻りになっておりません」
リーゼが黙った。
グレンも、つられて黙る。
数秒して。
「……姉さん」
リーゼが額へ手を当てた。
「先に帰るって言ってたよな」
「言ってたよ。……まったく」
リーゼは息を吐き、額から手を下ろした。
それから、すぐに使用人へ向き直る。
「ごめん。こちらの話だよ」
「では、こちらの方は……?」
「ああ。ボクの冒険者仲間だ。姉さんの研究にも協力してもらっていてね。それで今日は一緒に来てもらったんだ」
グレンも軽く頭を下げる。
「グレン・ローデンです。突然すみません」
「とんでもございません。リーゼお嬢様のご友人でしたら」
使用人はそう答えたものの、当然ながら予定された客を迎える態度ではない。
リーゼが横目でグレンを見る。
「さて、どうしようか」
「ここまで来て帰るのも変だろ」
「そうだね」
シックザールがいつ戻るのかも分からない。
リーゼは少し考えたあと、使用人へ尋ねた。
「父さんたちはいる?」
「はい。旦那様も奥様もご在宅です」
「なら、ボクから話すよ。姉さんには後で一言言っておこう」
最後だけ、少し声音が低くなった。
使用人が扉を大きく開ける。
「どうぞ、お入りくださいませ」
「ありがとう」
リーゼが先に敷居を跨いだ。
グレンもそのあとに続く。
玄関を抜けた先には広いホールがあり、正面には二階へ続く大きな階段が見えた。
リーゼは慣れた足取りで進みながら、一度だけグレンを振り返った。
「予定とは少し違ったけど……まあ、何とかなるさ」
「本当か?」
「ボクの家だよ?」
そう言って、リーゼはいつものように笑った。
⸻
「リーゼお姉様!」
声がしたのは、リーゼがそう言った直後だった。
廊下の奥から、銀髪の少女が駆けてきた。淡い色のドレスに幾重ものフリルが揺れ、顔立ちは一目でリーゼの妹と分かるほどよく似ている。
「フリル――」
「お姉様!」
リーゼが名前を呼び終えるより早く、少女はその胸へ飛び込んだ。
「ご無事でしたのね! お手紙を読んで、わたくし本当に心配しておりましたのよ!」
「ああ。心配をかけたね」
「大怪我をなさったと聞きましたわ!」
「もう大丈夫だよ。傷もほとんど――」
「お部屋で休みましょう!」
「え?」
フリルがリーゼの脇へ両手を差し入れた。
そのまま、ひょいと持ち上げる。
「――え?」
リーゼの足が床を離れた。
それだけでは止まらない。
フリルの腕がそのまま伸び、リーゼの身体が頭上まで持ち上がった。
「…………」
グレンは見上げた。
リーゼもまた、自分を持ち上げている妹を見下ろしている。
「フリル、何をしてるんだい?」
「お部屋へお連れしますわ!」
フリルは姉を掲げたまま歩き出した。
「待って。ボクは歩けるよ」
「存じておりますわ!」
「じゃあ降ろしてくれるかな」
「嫌ですわ!」
フリルは止まらない。
頭上にリーゼを掲げたまま、廊下をどんどん進んでいく。
グレンはその場に立ったまま、遠ざかっていく二人を見送った。
「フリル、一度止まってくれ!」
「大丈夫ですわ、お姉様!」
「何が大丈夫なんだい!」
リーゼが身を捩った拍子に、襟元がずれた。
鎖骨の下が覗く。
グレンは反射的に自分の鎖骨を指差した。
リーゼがこちらを見る。
一瞬遅れて、その意味に気づいた。
「あ」
リーゼは慌てて襟元を直す。
「どうかなさいましたの?」
「何でもないよ。それより、一度降ろしてくれないかな!」
「嫌ですわ!」
そのまま二人は廊下の角へ消えた。
「…………」
グレンはしばらく、角の向こうを見ていた。
やがて、そばに残っていた使用人へ顔を向ける。
「……今のが、フリューリングさんですか?」
「はい。末のお嬢様でございます」
「そうですか……」
もう一度、廊下を見る。
当然、リーゼは戻ってこない。
「俺は、どうすればいいですか?」
「旦那様へお取り次ぎいたします。こちらでお待ちください」
グレンは頷き、廊下の角をもう一度見た。
ほどなく、使用人が戻ってきた。
案内され、グレンは玄関ホールから東側の廊下へ進んだ。
リーゼが連れていかれたのとは反対側だ。
いくつか扉を過ぎたところで、使用人が足を止める。
「こちらです」
扉が開かれた。
中にいたのは、二人の男だった。
一人は、椅子に腰掛けている。
大柄なグレンより、さらに一回り大きい。座っていてなお肩の位置が高く、膝に置かれた腕まで太かった。
髪はリーゼと同じ銀色。
目尻や額には年齢相応の皺が刻まれており、黙っているだけでもかなりの威圧感がある。
その隣に立つ男も背が高かった。
こちらは金髪で、父親ほどではないにせよ身体つきはいい。年齢はグレンよりいくらか上だろう。
「グレン・ローデン様をお連れいたしました」
使用人が告げる。
銀髪の男が立ち上がった。
グレンもつられて視線を上げる。
やはり、自分より明らかに大きい。
「初めまして。グレン・ローデンです」
頭を下げる。
男が口を開いた。
「…………」
「……え?」
グレンは顔を上げた。
声はした。低い上に異様に小さく、数歩離れただけで言葉の形が崩れてしまう。
すると、隣の金髪の男が勢いよく一歩前へ出た。
「父上は――!」
声が部屋に響いた。
「『突然の来訪には驚いた! だが、我が娘リーゼが自ら連れてきた客人であれば、我らアルヴェイン家にとっても大切な客人だ! 遠慮はいらない、どうか自分の家と思ってくつろいでほしい! まずは座って、ゆっくり話そうではないか!』と仰っている!」
「……ありがとうございます」
グレンはもう一度銀髪の男を見る。
銀髪の男は何事もなかったように頷き、椅子へ戻る。
「こちらが父、ヴァルター・アルヴェインだ!」
金髪の男が続ける。
「そして俺が長男、シュトゥルム・アルヴェイン! シュトルで構わない!」
「よろしくお願いします」
「ああ! こちらこそよろしく頼む!」
グレンも勧められた椅子へ腰を下ろした。
シュトゥルムだけはヴァルターの横に立ったままだ。
ヴァルターがグレンを見る。
「…………」
今度こそ、と耳を澄ませる。
やはり聞き取れない。
グレンが諦めてシュトゥルムへ視線を移すと、長兄は大きく頷いた。
「『さて! せっかくこうして出会えたのも何かの縁だ! ぜひ君のことを聞かせてほしい! リーゼとはどこで出会い、今はどういう間柄なのだろうか!』と父上は尋ねている!」
「……冒険者仲間です」
出会いまで聞かれていたのだろうか。
「リーゼとは普段から一緒に依頼を受けています」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「…………」
シュトゥルムも、はっと目を見開いた。
「そうか!」
その声だけで十分大きい。
直後、父親の方へ耳を傾ける。
「…………」
「『なるほど! では先日の大崩落――リーゼと共に遺跡から生還した仲間というのは、君だったのか!』と!」
「はい」
そこで初めて、ヴァルターの表情が少し変わった。
厳しい顔つきのまま、グレンを見る目だけが和らいだ。
「…………」
短い声。
シュトゥルムが大きく息を吸う。
「父上は――!」
さらに声を張った。
「『あの知らせを受けてから、どれほど案じたことか! 崩落に呑まれ、生還すら絶望視されていた娘が、こうして再び我が家の扉をくぐることができた! 君もまた同じ場所で命を懸け、娘と共に帰ってきた者なのだろう! 父親として、心から礼を言わせてほしい!』と仰っている!」
「…………」
今度こそ、グレンはヴァルターの口元を見た。
もう閉じている。
本当にそこまで言ったのだろうか。
シュトゥルムは至って真剣だった。
「俺の方こそ、リーゼには助けられました」
グレンはヴァルターへ向き直る。
「リーゼがいなかったら、俺も帰ってこられなかったと思います」
ヴァルターはしばらくグレンを見たあと、ゆっくりと頷いた。
「…………」
「『ならば、どちらか一人が救ったのではない! 二人で支え合い、二人で死地を越えてきたということだ! それ以上に喜ばしいことがあるものか!』と父上は仰っている!」
グレンはシュトゥルムを見た。
次にヴァルターを見る。
「……そうですね」
ひとまず、そういうことにしておいた。
ヴァルターがまた何かを言う。
「…………」
「『ところで! 今日はリーゼと共に、我が家へ何をしに来たのだろうか! せっかくならば滞在中は何一つ不自由させるつもりはない! 必要なものがあれば何でも言ってほしい!』と!」
「今日は、シックザールさんの研究に協力するために来ました」
「シシィの研究だと!?」
シュトゥルムが身を乗り出した。
「はい。本当はシックザールさんが先に戻って、俺が来ることを説明してくれることになっていたんですが……」
「何も聞いていないぞ! 何をしているんだ、あいつは!」
シュトゥルムが頭を抱える。
その横から、ヴァルターが何か言った。
「…………」
「父上! 俺も知らん! 数日前から一度も見ていない!」
「…………」
「いや、研究先までは聞いていない! そもそも出るときに何も言っていかなかっただろう!」
小声と大声が交互に飛び交う。
どうやら、この家ではこれで普通に会話が成立するらしい。
「…………」
「そうだな! 帰ってきたら本人を捕まえて聞こう!」
シュトゥルムは大きく頷いた。
ヴァルターがグレンへ向き直る。
「…………」
シュトゥルムもすぐさまこちらを向く。
「父上は――!」
再び通訳の声になる。
「『ともあれ、事情は分かった! シシィがどこをほっつき歩き、何を企んで君をここまで呼びつけたのかは、本人が帰ってからじっくり聞くとしよう! 君はすでに我が家の客人だ! 今さら予定が違ったから帰れなどとは言わん! 何日でも心ゆくまで滞在してくれ!』と仰っている!」
「ありがとうございます」
グレンは頭を下げた。
何日も滞在してほしいらしい。歓迎されていることは、十分に伝わった。




