第7話 困りましたわ
「では、わたくしも飼っていただけます?」
次の瞬間には、リーゼが姉の腕を掴んでいた。
「姉さん」
「はい?」
「駄目」
「まだグレンさんに――」
「駄目」
今度は強く言った。
「どうしてあなたが決めますの?」
「決めるよ。これは駄目」
グレンは二人を見比べた。
「……本気で言ってるのか?」
「もちろんですわ」
「解除できないんだぞ。命令にも逆らえなくなる」
「どちらも存じておりますわ」
迷いがない。
「必要でしたら、わたくしもお役に立てると思いますわよ?」
リーゼが絶句した。
「戦闘もできます。魔法も。それに、グレンさんの命令には逆らえなくなるのでしょう?」
「それを利点みたいに言うなよ!」
「ですが、グレンさんにとっては利点ではございませんの?」
「そういう問題じゃない」
グレンが割って入る。
「やらない」
「なぜですの?」
「とにかく駄目だ」
「絶対に?」
「ああ」
「条件を決めても?」
「やらない」
「困りましたわね」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼの表情が強張った。
姉が困ったと言うときは、大抵、諦めたときではない。別の方法を考え始めたときだ。
「姉さん」
「はい?」
「もう何も考えなくていいから」
「それは難しいですわね」
明らかに考えている。
やがて顔を上げた。
「では、わたくしを飼っていただけないのであれば、お父様にお話しいたします」
リーゼの手から力が抜けた。
「…………は?」
リーゼが固まった。
「それ、本気で言ってる?」
「ええ?」
「父さんに話すって?」
「そうですわ」
リーゼの顔色が変わった。
「やめて」
短い言葉だった。怒っているというより、本気で止めていた。
グレンは黙って二人を見比べた。
「姉さん、それ脅迫だよ」
シックザールはしばらくリーゼを見ていた。
「……まあ。脅迫はいけませんわね」
それだけだった。
しばらく経って、リーゼが口を開いた。
「……とにかく、飼うのはなしだからね」
「残念ですわ」
それ以上は食い下がらなかった。だが、諦めたようにも興味を失ったようにも見えない。
グレンは少し考えて口を開く。
「《飼育》について知りたいなら、見せられるものはある」
リーゼがすぐにグレンを見る。
「……グレン」
「ああ」
「本だ」
「本?」
「《飼育》について書かれた記録がある」
「どなたが書いたものですの?」
グレンは一瞬迷った。
「《恩寵の魔王》」
シックザールが黙った。
「……魔王本人が?」
「ああ」
「そのようなものが現存しておりますの? 本物だと?」
「ああ。本人が書いた原本だ」
シックザールの目が細くなる。
「なぜ、そう言い切れますの?」
グレンが視線を向けると、リーゼは少し迷ってから頷いた。
「《恩寵の魔王》は、俺の祖先だ」
シックザールが止まった。
「…………まあ」
グレンを見る。
リーゼを見る。
「リーゼ」
「何」
「あなた、素敵な殿方を見つけたのね。羨ましいわ」
「付き合ってないよ」
「まあ」
シックザールは再びグレンを見る。
「魔王の子孫に、同じ《飼育》が発現した。そして本人が残した原本まである。その上、現在の飼育対象がリーゼ」
「姉さん、言い方」
「間違っております?」
「間違ってないけど」
「やはり羨ましいですわね」
「だから付き合ってないって」
もう聞いていなかった。
「その本は、今どちらに?」
「俺の部屋だ」
気づけば、腕を掴まれていた。
「読ませていただけます?」
「姉さん。近い」
「失礼しましたわ」
手は離した。
距離はほとんど変わらない。
「どの程度の記録がございますの? 飼育対象ごとに――」
「待て」
グレンが止める。
「一つずつ聞け」
「では、読ませていただけます?」
「そっちに戻るのかよ」
「一つずつとおっしゃいましたので」
グレンは息を吐いた。
「読ませる前に、条件がある」
「何でしょう?」
「今日知ったことを誰にも話すな。《飼育》も、俺の出自も、本のことも。家族にもだ」
シックザールは少し考えて、リーゼを見る。
「では、わたくしからも一つよろしいかしら」
「……何」
「お二人を調べさせてくださいな」
リーゼの眉が寄る。
「本だけじゃないの?」
「本を読めば、実際の例と比べたくなるに決まっておりますもの」
「まだ読んでもないだろ」
「ですから、先にお願いしておりますのよ」
《飼育》によってリーゼに何が起きているのか。
グレンが何を把握し、どのように影響を与えているのか。
必要な観察や検査には協力してほしいという。
「勝手に何かするのはなしだからね。危ないこともなし」
「ええ。何をするかは先に申し上げますし、危ないこともいたしませんわ」
「嫌なことまで無理にやらせるのもなし」
「それでは調べられないことも――」
「姉さん」
「分かりましたわ」
グレンも口を挟む。
「魔法を使うなら先に言え。俺たちの身体に何かするなら、なおさらだ」
「承知しました」
「血も勝手に取らないでね」
シックザールが一瞬黙る。
「姉さん」
「……事前に申し上げますわ」
「言えば取っていいって意味じゃないよ」
「分かっております」
グレンは少し考える。
「……分かった。危険なことはしない。何をするかは先に説明する。それを守るなら、必要な観察や検査には協力する」
リーゼも嫌そうな顔をしたあと、息を吐いた。
「……ボクもそれでいいよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、こっちの条件もだ」
グレンが言う。
「今日知ったことは、誰にも話さない。《飼育》のことも、俺の家のことも、本のことも」
「ええ」
「家族にもだ。約束できるか?」
「約束しますわ」
リーゼの表情が変わる。
「……本当に?」
「ええ」
「父さんにも?」
「もちろんですわ」
「母さんにも、兄さんたちにも? 姉さんの『分かりました』じゃないよね」
「誰にも申し上げません。約束ですわ」
シックザールが首を傾げた。
「わたくし、約束したことを破ったことはございませんのよ」
「それ、姉さんが言ってるだけだからね」
「困りましたわ」
リーゼはしばらく姉を見てから、息を吐いた。
「……まあ、そこは信じる」
「本も持ち出し禁止だ。写すのもなし」
「分かりましたわ」
「……本当に分かってるか?」
「もちろんですわ」
そして、ほんの少し間を置く。
「では、参りましょう」
「どこに」
「グレンさんのお部屋ですわ」
迷いのない足取りだった。
⸻
グレンの部屋へ着くと、シックザールはさっそく机についた。グレンがその目の前へ本を置く。
「どうぞ」
「まあ」
すぐに表紙を開いた。
最初の数頁。
目録。
章を飛び、戻り、また先へ進んでいく。
「……シックザールさん」
返事はない。
「飲み物、置いておきますね」
やはり返事はなかった。
「もう聞こえてないと思うよ」
リーゼが言った。
グレンは杯を置き、自分たちの分を持ってリーゼの隣へ腰を下ろした。
「……ごめんね、グレン。姉さんのこと、いろいろと」
「何でお前が謝るんだ」
「一応、ボクの姉だからね」
「まあ……ちょっと変わってるな」
「ちょっとで済ませてくれるんだね」
リーゼはわずかに笑った。
「研究に協力する件も、姉さんはたぶん遠慮しないよ」
「それはもう何となく分かった。でも、条件は決めたからな。危ないことはさせないし、嫌なことまで付き合う必要もない」
「うん」
少し黙る。
「……それと、父さんにはまだ知られたくない」
「そんなにまずいのか」
「うん」
返事は短かった。
「たぶん、かなり」
「分かった」
グレンもそれ以上は聞かなかった。
「姉さんが約束したなら、そこから伝わる心配はないはずだよ」
「そこは信用していいんだな」
「約束したことだけはね」
「だけ?」
「それ以外は姉さんだから」
「……なるほど」
その間にも頁をめくる音は止まらない。
グレンが何気なく机を見る。
シックザールが三人になっていた。
「……」
杯を持ったまま、手が止まる。
一人は椅子に座って本を開いている。
もう一人はその横から頁を覗き込み、三人目は反対側に立っていた。
「こちらを先に読むべきですわ」
「いいえ。その前に、先ほどの記述と照らし合わせませんこと?」
「でしたら、こちらも必要になりますわね」
「ええ。それを」
一人が頁を戻す。
別の一人が目録へ手を伸ばす。座っているシックザールがその手を止めた。
「待ってくださいな。まだここを読んでおりますの」
「では参照先だけ覚えておきましょう」
「そういたしましょう」
グレンは隣のリーゼを見る。
「……何だ、あれ」
「姉さんのスキルだよ」
「……そうか」
リーゼは特に気にした様子もなく飲み物を口にしている。グレンもそれ以上は聞かなかった。
いつの間にか二人になり、次に見たときにはまた三人になっている。
シックザールの前へ置いた飲み物には、一度も手がつけられていなかった。
⸻
しばらくして、ようやくシックザールが本から顔を上げた。
いつの間にか一人に戻っている。
「リーゼ。《飼育》されてから、自分で何か変わったと感じます?」
「……いきなりだね」
シックザールは気にせず質問を続けた。
リーゼ自身に分かる変化。
グレンから見えている状態。
成立前後で何が違うのか。
答えれば、すぐ次が来る。グレンにも同じ調子だった。
やがて、ふと質問が止まった。シックザールは部屋を見回す。
「……ここでは設備が足りませんわね」
リーゼの顔がわずかに曇った。
「その言い方、嫌な記憶があるんだけど」
「昔のようなことはいたしませんわ」
「それもあまり安心できないなあ」
「次は、わたくしの部屋で調べさせてくださいな。必要な道具も揃っておりますし」
リーゼもグレンも、すぐには答えなかった。
「……《飼育》のこと、隠したままで大丈夫ですか?」
グレンが聞くと、シックザールは当然のように頷いた。
「ええ。そちらは約束しておりますもの。わたくしからお話しすることはありませんわ」
リーゼも少し表情を緩めた。それでも、完全には安心していない。
「問題は、グレンまで連れていったら理由を聞かれることだね」
「でしたら、お父様たちにはわたくしからお話しいたしますわ。グレンさんにも、わたくしの研究に付き合っていただくことになった、と」
グレンは少し考えた。嘘ではなく、表向きの理由としては十分だった。
「それなら……まあ」
リーゼはまだ少し、迷っていた。
「そんなに気になるなら、俺は行かない方がいいんじゃないか?」
「それは困りますわ」
シックザールが即答した。
「グレンさんにも調べさせていただくのですから」
「ですよね」
グレンが小さく息を吐くと、リーゼも困ったように笑った。
「姉さんの研究に付き合うって約束したからね」
「……分かった。行くよ」
「ありがとうございます」
リーゼが続ける。
「《飼育》のことは、本当に父さんたちには言わないでよ」
「ええ。それは約束しておりますもの」
「ならいい」
リーゼが小さく息を吐いた。
シックザールは再び本へ手を伸ばした。
「……姉さん」
「なんでしょう」
「まだ読むの?」
「もう少しだけですわ」
リーゼはグレンを見る。
「たぶん、しばらく帰らないよ」
「そんな気はしてた」
数日後、グレンはアルヴェイン家の門の前に立っていた。




