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第2話 大崩落

「……報告より、でかいな」


 誰かが呟いた。


 グレンも同じことを考えていた。


 頭を上げれば大人が見上げるほどの体高があり、肩から前脚にかけて盛り上がった筋肉は厚い毛皮の上からでも分かる。それだけの巨体でありながら、動きには鈍重さがなかった。


 魔物が探索隊へ顔を向け、腹の底まで響くような唸り声を上げた。


「構えろ!」


 前衛が武器を上げる。


 グレンも背負っていた長柄の両手斧を下ろし、柄を握り直した。その直後、魔物の巨体が深く沈み込む。


「来る!」


 石床を蹴る音が響いたかと思うと、魔物は一息で距離を詰めてきた。


 予想していたより、はるかに速い。


 先頭の男が盾を構えるより早く、グレンが一歩前へ出る。斧を横に立て、柄と斧身を使って真正面から突進を受け止めると、凄まじい衝撃が両腕から肩へ抜け、靴底が石床を削った。


 それでも、止まった。


 ほんの一瞬ではあるが、魔物の勢いが殺される。


「今だ!」


 左右から前衛が斬りかかり、剣と槍が一斉に毛皮へ食い込んだ。


 しかし浅い。


 刃が滑ったというより、厚い毛と皮に押し返されている。


 魔物が大きく首を振り、噛みつきを避けきれなかった男を盾ごと弾き飛ばした。空いた場所へ、入れ替わるようにリーゼが踏み込む。


 右脚へ魔力が集まった。


 強化魔法《部位強化》。


 魔法は、生まれ持ったスキルとは違う。自身の魔力を目的に応じた性質へ変え、現象として行使するための技術だ。リーゼが脚へ集中させた魔力は、その一歩の速さと力を大きく引き上げる。


 振り下ろされた前脚を正面から受けることなく、その下へ潜り込むように抜けると、すれ違いざまに剣を走らせた。


 前脚の付け根が深く裂け、黒い毛の間から血が散る。


「入った!」


 後方から声が上がる。


 リーゼはそのまま反転し、もう一度踏み込んで首筋を狙った。だが、魔物も黙って斬らせてはくれない。巨体を乱暴に振った勢いで前脚が横薙ぎに走り、リーゼは剣を引くのとほとんど同時に後ろへ跳んだ。


 直後、彼女のいた石床が砕ける。


「リーゼ」


「平気だよ」


 返事を聞いた時点で、グレンはもうそちらを見ていなかった。


 魔物が再び正面を向く。


「右から来る」


「ああ」


 噛みついてきた頭部を斧の柄で受け、斧身を押し当てるようにして軌道を逸らす。完全に崩せるほど軽い相手ではない。それでもほんのわずか横腹が開けば、リーゼには十分だった。


 今度は一部ではなく、全身へ魔力が巡る。


 強化魔法《全身強化》。


 脚、腰、肩、腕。それぞれを強化しながら一つの動きとして繋げた踏み込みは、先ほどまでよりさらに鋭い。魔物が頭を戻すより早く懐へ入り込み、下から跳ね上げるように振った剣で片目の下を深く裂いた。


 魔物が仰け反る。


 そこへグレンが斧を振り込んだ。


 大きく踏み込み、腰から回した両手斧の刃を横腹へ叩きつける。重量の乗った一撃が毛皮を割って肉へ食い込み、初めて巨体そのものが大きく傾いた。


「続け!」


 後方から号令が飛び、他の前衛たちも一斉に詰める。槍が脇腹へ入り、剣が後脚を裂いたところで、術師たちの詠唱が完成した。


「離れろ!」


 前衛が左右へ散る。


 火球が二発、ほとんど間を置かずに直撃した。爆炎が魔物の上半身を包み、続けて別の術師が足元を凍らせる。


 これだけ入れば、さすがに動きは止まる。


 そう思った者は多かった。


 次の瞬間、炎の中から巨体が飛び出してきた。


 凍った石床を前脚で踏み砕き、ほとんど速度を落とさないまま前衛へ突っ込んでくる。


「まだ来るぞ!」


 正面にいた男が盾を上げる。


 間に合わない。


 グレンが横から割り込み、斧を立てて体当たりを受けたが、今度は最初のようには止めきれなかった。身体ごと押し込まれ、靴底が何歩分も石床を削っていく。


 腕が痺れる。


 さっきより重い。


 これだけ傷を負わせても、明確に力が落ちた感じがしない。


「グレン!」


「大丈夫だ!」


 どうにか勢いを殺したところへ、リーゼが左から回り込んだ。全身強化を維持したまま後脚を深く斬りつける。


 確かな手応えがあった。


 それでも魔物は倒れず、振り向きざまに太い尾を薙ぎ払う。


 リーゼは身を沈めてかわしたが、その後ろにいた前衛は間に合わなかった。鈍い衝撃音とともに身体が横へ飛び、数歩先の石床へ叩きつけられる。


「おい!」


 仲間が駆け寄る。


 男は起き上がろうとしたものの、右腕が明らかにおかしな方向へ曲がっていた。治癒役がすぐにそちらへ回り、別の前衛が空いた位置を埋める。


 まだ戦列そのものは崩れていない。


 けれど、戦い始めたときと同じではなかった。


 グレンは呼吸を整えながら魔物を見る。


 傷は増えている。血も流している。リーゼの剣も、自分の斧も、術師たちの魔法も確実に効いている。それなのに、こちらの消耗だけが先に積み上がっているように見えた。


 隣へ戻ってきたリーゼも、さすがに息が上がっている。


「思ったより、ずっと厄介だね」


「ああ」


「まだ行けるよ」


「俺もだ」


 リーゼが剣を構え直し、グレンも両手斧を握り直す。


 二人が前にいるうちは、まだ持つ。


 だが、その後ろでは一人が戦列から外れ、治癒役も一人取られている。


 魔物は傷だらけの身体を低く沈め、再びこちらへ狙いを定めた。


 今度は正面ではなく、前衛の薄くなった側へ突っ込んでくる。


「左!」


 斥候の声が飛ぶ。


 グレンが動くより早く、そこを埋めていた男が盾を構えた。だが一人では受けきれない。魔物の肩が盾へぶつかり、男の身体が大きく浮いた。


 グレンが横から斧を差し込み、さらに押し込まれるのだけは止める。


「下がれ!」


 倒れた男を別の前衛が引きずる。その間を埋めるようにリーゼが入り、前脚へ剣を走らせた。


 傷は入る。


 それでも、止まらない。


 人数が一人減っただけで、戦い方は目に見えて窮屈になっていた。


 前衛が足りなければ、魔物を押さえておける時間が短くなる。押さえられなければ術師は詠唱に集中できず、治癒役も負傷者のそばから動けない。最初は互いに補えていた役割が、一つ欠けるたびに別の場所まで圧迫していく。


「術師を狙ってる!」


 魔物が身を翻した。


 前衛を振り切り、後方へ走る。


 速い。


 術師たちが散るより先に、グレンが斜めから追いついた。長柄の斧を横薙ぎに振り、刃ではなく柄の根元を肩口へ叩きつける。進路は逸れたが、勢いまでは殺せない。


 巨体が石柱へ激突した。


 轟音とともに柱の表面が砕け、大きな亀裂が走る。天井から石片がばらばらと降り、離れた柱まで軋むような音を立てた。


「グレン!」


「追う!」


 返すだけで、リーゼもすでに動いていた。


 《全身強化》を維持したまま魔物の側面へ入り、傷の重なった後脚を狙う。刃が深く入ったところで魔物が振り返り、爪がリーゼの左肩口を掠めた。


 革の防具が裂ける。


 リーゼはそのまま二歩退いた。


「平気か」


「浅い!」


 短く返して、また構える。


 だが今の一撃で、もう一人の前衛が魔物の正面から外れていた。


「詰めろ!」


 隊をまとめていた男が叫ぶ。


 間に合わない。


 魔物が前脚を振り下ろし、槍を構えていた男をまともに捉えた。


 骨の砕ける音が、離れた場所まで聞こえた。


 その場の空気が変わった。


 倒れた男は動かない。


 治癒役が駆け寄ろうとする。


「待て、前を見る!」


 誰かが止めた。


 魔物はまだこちらを向いている。


 負傷者を回収したい。だが近づけば、そのまま次の標的になる。


 迷いが生まれた。


 それまで辛うじて揃っていた動きが、そこで初めて大きくずれた。


「右へ寄せろ!」


「いや、後ろを空けろ!」


「術師を下げろ!」


 いくつもの声が重なる。


 命令が一つにまとまらない。


 グレンは魔物の正面へ戻りながら、後ろの気配を聞いていた。


 まずい。


「リーゼ、左を頼む!」


「分かった!」


 二人で前を押さえる。


 グレンが噛みつきを斧で受け、リーゼが横から脚へ入る。何度も繰り返してきた動きだった。


 だが、さっきまでとは違う。


 二人が作った隙へ入るはずの前衛が来ない。後方の術師も撃てず、負傷者をどうするかで人がばらけている。


 魔物が身体を捻った。


 嫌な予感がした。


「離れろ!」


 間に合わなかった。


 太い尾が横一線に薙ぎ払われる。


 リーゼは飛び退いた。グレンも斧を立てて受けたが、横からの衝撃までは殺しきれない。


 数人がまとめて吹き飛ばされた。


 術師の一人が石壁へ叩きつけられ、別の一人は杖を落とす。


 その瞬間、完全に戦列が崩れた。


「下がれ!」


 誰かが叫んだ。


「広間から出るぞ!」


「無理だ、追いつかれる!」


 実際、そうだった。


 ここで背を向ければ、足の遅い者から食われる。


 魔物は傷だらけになっている。それでもまだ、こちらより速い。


 グレンは斧を構え直した。何度もまともに衝撃を受けたせいで腕は重く、柄を握るだけでも痛みが走る。


 隣のリーゼも呼吸が荒くなっていた。《全身強化》を長く維持している。魔力もかなり使っているはずだ。


「グレン」


「ああ」


 分かっている。


 このままでは持たない。


 後方で、ひときわ大きな声が上がった。


「前を空けろ!」


 振り返る余裕はなかったが、声の主は分かった。攻撃魔法を担当していた術師の一人だ。


「何をする!」


「まとめて焼く! 今ならまだ間に合う!」


「広すぎる! ここで撃つ気か!」


「このままじゃ全滅するぞ!」


 怒鳴り返す声に、誰もすぐ反論できなかった。


 グレンにも危険は分かった。


 これまで撃っていたものとは規模が違う。魔物だけを焼くような魔法ではない。前衛が退避しきれなければ巻き込まれるし、何よりここは古い遺跡の地下だ。さっき魔物が叩きつけられた柱には、すでに大きな亀裂が入っている。


 それでも、他に明確な手がなかった。


「時間を稼げるか!」


 術師が叫ぶ。


 グレンは魔物を見た。


 リーゼも一瞬だけこちらを見る。


「やるしかないね」


「ああ」


 二人で前へ出た。


 魔物が突っ込んでくる。


 グレンは斧を横に構え、真正面から受ける。今度は止めるためではない。少しでもその場に留めるためだった。


 両腕に焼けるような痛みが走り、足元が滑る。


「グレン!」


 リーゼが側面から入った。


 全身強化をさらに深くかけ、傷だらけの前脚へ剣を突き立てる。魔物が吠え、怒りに任せて身体をそちらへ向けた。


 それでいい。


「まだか!」


「あと少し!」


 後方で膨れ上がる魔力は、これまでの比ではなかった。


 空気が熱を帯びる。


 術師の足元から細かな砂が浮き、周囲の瓦礫が微かに震え始める。広間の高い天井から、ぱらぱらと粉塵が落ちてきた。


 グレンは頭上を見た。


 嫌な感じがした。


 だが、もう止められない。


 斧を引き抜き、もう一度振り込む。リーゼも続き、二人で魔物をその場へ縫い止めた。


「退け!」


 合図が来た。


「リーゼ!」


「分かってる!」


 二人が同時に飛び退く。


 直後、広間が白く染まった。


 轟音とともに放たれた炎が魔物を正面から呑み込み、膨れ上がった熱と衝撃が一気に周囲へ叩きつけられる。


 グレンは腕で顔を庇った。


 熱風だけではない。


 足元の石床そのものが跳ねた。


 壁際の瓦礫が吹き飛び、石柱の表面が一斉に弾ける。先ほど魔物が激突した柱では、入っていた亀裂が衝撃に押し広げられ、太い音を立てて柱の奥まで走った。


 頭上から大量の砂と石片が降る。


 それでも魔法は止まらない。


 炎がさらに膨らみ、広間を支える柱の根元まで巻き込んだ。


 魔物の咆哮が、その中から一度だけ聞こえた。


 やがて炎が収まる。


 黒煙の向こうで、巨体が崩れ落ちた。


「やった……?」


 誰かがそう漏らした、そのときだった。


 みしり、と広間全体が鳴った。


 一か所ではない。


 右から左へ、何本もの石柱を伝うように重い軋みが走る。


 グレンが顔を上げた。


 亀裂の入っていた柱が、ゆっくりと傾いている。


「まずい、離れろ!」


 叫んだ直後、その柱が折れた。


 天井を支えていた一本が失われ、その荷重を受けた隣の柱にも亀裂が走る。さらにその向こうで石材がずれ、天井の一角が大きく沈んだ。


 崩れ始めると、あとは一瞬だった。


「走れ!」


 巨大な石材が落下し、床を叩き割る。


 その衝撃がまた別の柱を揺らし、広間の端から次々と天井が落ちてくる。先ほどの大魔法でひびの入った床まで割れ始め、足元の奥から低い崩壊音が響いた。


 術師の姿を振り返る余裕はなかった。


 グレンはリーゼを探した。


 数歩先にいる。


「リーゼ!」


 呼ぶと、彼女もこちらを向いた。


「グレン!」


 二人の間へ、巨大な石材が落ちた。


 床が砕ける。


 グレンは反射的に前へ出た。リーゼもこちらへ走ってくる。


 その足元に亀裂が走った。


「止まれ!」


 言ったときには遅かった。


 石床が大きく沈み、リーゼの身体が傾く。


 グレンは斧を捨てて手を伸ばした。


 腕を掴む。


 次の瞬間、グレンの足元まで崩れた。


 大魔法の衝撃で亀裂の入った床が、二人の体重を支えきれずに抜け落ちる。


 身体が浮いた。


 視界が大きく傾き、上から落ちてくる岩と土煙で何も見えなくなる。


 それでも、掴んだ腕だけは離さなかった。

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