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第2話 その場から動くな

 最初に見えたのは、金色の髪だった。


 薄暗い路地の奥を、一人の女が歩いている。


 建物と建物の隙間を縫うような細い道だった。頭上では張り出した二階部分が空を狭く切り取り、壁には黒ずんだ雨染みが幾筋も垂れている。


 割れた木箱や空き瓶が端へ蹴り寄せられ、鼻につくような湿った臭いがこもっていた。


 そんな場所に、女はひどく不釣り合いだった。


 長い金髪。


 上等な服。


 背筋を伸ばし、急ぐでもなく辺りを見ながら歩いている。


 男は、迷い込んだ金持ちの娘だと思った。


 連れはいない。


 護衛も見当たらない。


 だから声をかけた。


「お嬢さん」


 女は足を止め、ゆっくりと振り返った。そこで男は、わずかに言葉を詰まらせた。


 綺麗な女だった。


 若く、整った顔立ちをしている。


 けれど、近くで見ると何かが引っかかった。


 肌が白い。


 薄暗いせいだけではない。金の髪の下で、その顔だけがひどく色を失って見える。


 対して、目だけが妙に冴えていた。


 男を見る。


 その後ろを見る。


 路地の奥にいる仲間を見る。


 視線だけが、一人ずつを静かになぞっていく。


 怯えた様子はなく、警戒しているようにも見えない。むしろ、何かを確かめているようだった。


「ちょうどよかったですわ」


 女の声は穏やかだった。


「少し、道をお尋ねしたいのですけれど」


「……道?」


「ええ」


 女が一歩近づくと、男はなぜか反対に半歩下がりかけ、すぐに踏みとどまった。


 女一人だ。細身で、武器らしいものも持っていない。


 自分が何に引っかかったのか、男自身にも分からなかった。


「だったら教えてやるよ。こっち来な」


 仲間の一人が笑う声で、男も我に返った。


 気づけば、道の奥にも三人。


 女が来た方にも二人が回っている。


 囲まれていることに、女も気づいたはずだった。


 それでも表情は変わらない。


「こちらではありませんの?」


 男たちが笑う。


 女だけが笑っていなかった。


 本当に道を尋ねているらしい。


「いいから来いって」


 一人が腕を伸ばした。女は避けず、手首を掴まれたところで初めて男たちから視線を外す。


 自分の手首を見る。


 そこに掛かっている指を見る。


 そして、もう一度男の顔を見る。


 怒ってはいなかった。


 怖がってもいなかった。


 ただ、その目で見られた男が、今度こそ笑うのをやめた。


「……何だよ」


 女は少し考えた。


「困りましたわ」


 次の瞬間。


 男の身体が横へ消えた。


 鈍い音とともに壁へ叩きつけられ、石畳へ落ちる。


「――は?」


 誰も、すぐには動けなかった。


 女の背後に、黒いものがあった。


 路地の暗がり。


 建物の影が、そのまま形を持って伸びてきたようにも見えた。


 細長い。


 腕ほどの太さ。


 先端だけが緩やかに曲がり、倒れた男の胴へ巻きついている。


「何だ、それ……」


 黒いものが、もう一本現れた。


 さらに一本。


 壁際から。


 女の足元から。


 どこから生まれているのか分からない。


 それぞれが別の生き物のように持ち上がった。


「魔術師だ! やれ!」


 一人が叫ぶと、男たちが動いた。


 女は動かなかった。


 黒いものだけが動いた。


 一人の足首へ巻きつき、引く。石畳へ倒れた身体を、そのまま引きずった。


 別の一本が振り下ろされた棒を受け止め、絡みつき、奪う。


 さらに一本が背後から回り込んだ男の胸へ巻きついた。


「ぐっ――」


 男はそれを掴んだ。引き剥がそうと力を込めた指が、すぐに緩む。


「……?」


 膝が落ち、顔から血の気が引いていく。


「おい」


 隣の男が腕を掴み、その男まで黒いものに触れた。


「――っ」


 異変に気づいて手を離す。


 遅かった。


 腕から力が抜け、剣が石畳へ落ちた。乾いた音だけが路地に響く。


 女は何かを確かめるように男たちの顔を順番に見ていた。


 一人が逃げ、来た道へ走った。


 三歩目で、足首に黒いものが巻きついた。


 身体が倒れ、引き戻される。悲鳴が途中で弱くなった。


 それからは、長くかからなかった。


 路地が静かになる。


 六人。


 全員が倒れていた。


 意識のある者もいた。目は開いているのに起き上がれず、腕にも力が入らない。声を出そうとしても、喉から掠れた息が漏れるだけだった。


 女だけが立っている。


 服は乱れておらず、金色の髪もほとんど崩れていなかった。


 黒いものがゆっくりとほどけていく。


 女は倒れている男の一人へ近づくと、裾を整えてその前にしゃがんだ。


「それで、少しお尋ねしたいのですけれど」


 男の目が動き、女へ向いた。


「わたくし、リーゼ・アルヴェインを探しておりますの」


 返事はない。


 女は待った。


 男の口がわずかに動く。


 音にはならなかった。


「……」


 さらに少し待つ。


「……あら」


 女は瞬きをして周囲を見た。


 先ほどまであれほど騒がしかった男たちが、一人として声を発さない。


「聞いていらっしゃいませんわね」


 女は少し考えてから、眉を寄せた。


「困りましたわ」


 影のようなそれが、彼女の背後でわずかに揺れた。


⸻


 それから数日で、重力を弱めること自体は、もう問題ではなくなっていた。


 今はその先だ。


 どこへ。


 どれだけ。


 どの瞬間まで。


 どうやって止めるか。


 リーゼは掌の上に小さな石を載せていた。


「じゃあ、少しだけ右へ」


「分かった」


 石は途中まではうまく滑った。が、最後に勢いがつきすぎた。そのまま掌から落ちた。


「今のは?」


「魔力が足りないんじゃない。制御の方だ」


「じゃあ出力を上げても意味がない?」


「たぶんな」


「なら、もっと小さいものに戻そう」


 次は水。


 器そのものは動かさず、中身だけに働く重力を変える。


 水面の片側が僅かに持ち上がったところで、全体が揺れて縁からこぼれた。


「惜しい」


「今のは?」


「最初は合ってた。途中で範囲が広がったんだと思う」


「思う?」


「俺に重力魔法の感覚は分からないんだから仕方ないだろ」


 リーゼが少し笑う。


「そこは《飼育》でも分からないんだ」


「何でも答えが出るわけじゃない」


 見えるのは、結果と不足だ。


 魔力が足りない。


 制御が甘い。


 身体の動きと噛み合っていない。


 疲労で精度が落ちている。


 それでも、何も分からず繰り返すよりは早かった。


 石。


 水。


 木片。


 落ちる水滴。


 何度も失敗し、そのたびにやり方を変えながら、魔王の本にあった訓練を少しずつリーゼに合う形へ組み直していった。


 休憩に入る頃には、朝より明らかに精度が上がっていた。


 リーゼが水差しを置く。


「そういえば、まだ試してないの、あるよね」


 グレンにはすぐ分かった。


「……命令か」


 リーゼが頷いた。


 《飼育》が成立してから、意図的に避けていた機能だ。


 ただ、これから《飼育》を育成に使い続けるなら、何が起きるのか分からないままにしておくのも違う。


「一回だけ確認する?」


「安全なやつでな」


 二人で外へ出ると、石床の中央でリーゼがグレンを見た。


 グレンは一度息を吐いた。


 普段の言葉とは違う。


 命令として向ける。


「その場から動くな」


 リーゼは腕を上げる。


 膝を曲げる。


 その場で身体を捻る。


「……別に、固まってはいないね」


 一歩、前へ出ようとする。


 ――出せなかった。


 足が動かないわけではない。


 何かに押し返されるわけでもない。


 ただ、命令に反する動きを、自分自身が最後まで選べない。


「……変な感じだ」


「どういう?」


「動けないんじゃない。動いちゃいけないっていうのが、自分の中で決まってる」


 後ろも、横も同じだった。


「……気持ち悪いな、これ」


「解除する」


 命令が解けると、リーゼはすぐに一歩下がった。


「……うん。もう動ける」


「ああ」


 それ以上は試さなかった。必要もなかった。


 さっきまでと何も変わらない休憩室へ戻っても、二人の間にはしばらく言葉がなかった。


 しばらくして、リーゼが口を開く。


「じゃあ……これも試す?」


 リーゼは自分の頭を指した。


 グレンはしばらくリーゼを見ていた。


「本気か?」


「本に書いてあったんだろ」


 《恩寵の魔王》の記録では、接触もまた飼育対象の充足に影響するとされていた。


「……何でそんなに悩むの」


「いや」


「別に危ないことじゃないだろ」


「そういう話じゃない」


 リーゼは少し待ち、グレンが動かないのを見て小さく息を吐いた。


「もう」


 グレンの手首を掴む。


「おい」


「ほら」


 そのまま引き寄せ、自分の頭へ載せた。


 手のひらの下に、柔らかな銀髪が触れる。


「……」


「……」


 二人とも黙った。


「それで?」


「俺に聞くなよ」


「キミがやるんだろ」


「やったことない」


「ボクだって撫でられる練習なんてしたことないよ」


「練習って言うな」


 リーゼが少し笑うと、グレンは仕方なく手を動かした。


 一度、頭の上から髪に沿ってゆっくりと。


 もう一度。今度は少しだけ力を抜く。


 リーゼの目が僅かに細くなり、肩の力も抜けていく。


 接触への欲求。


 充足。


 静かに変わっていく。


 数度撫でて手を離すと、リーゼの目がその手を一瞬だけ追った。


「……どうだった、今の」


 リーゼは少し考えた。


「……撫でるの、下手だね」


「やったことないんだから仕方ないだろ」


「こうするんだよ」


 今度はリーゼがグレンの頭へ手を伸ばす。


 一度。


 二度。


 さっきよりずっと自然な手つきだった。


「……こう」


「なるほど」


「分かった?」


「たぶん」


 リーゼは満足そうに手を離した。


「じゃあ、次はもう少し上手くやってよ」


「次もあるのかよ」


 リーゼが笑うと、グレンもつられて笑った。

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