第1話 合鍵
街の外れまで来ると、人通りは目に見えて少なくなった。
冒険者向けの訓練場が集まっている区画からも外れ、石造りの建物がぽつぽつと残っている。
かつては街を守る兵たちが使っていた一帯らしいが、外壁が拡張されてからは役目を失い、今では倉庫や貸し施設として細々と使われているだけだ。
「ここ?」
「ああ」
グレンが立ち止まったのは、その中でもひときわ愛想のない建物だった。
高い石壁に囲われ、通りから中の様子はまるで見えない。正面にあるのも飾り気のない鉄の門だけで、看板のひとつも掛かっていなかった。
リーゼは壁を見上げ、それから隣のグレンを見る。
「ずいぶん物々しいところを見つけたね」
「人に見られない方がいいだろ」
「まあ、それはそうだけど」
グレンが鍵を開けて門を開くと、蝶番が低く軋んだ。二人はそのまま中へ入った。
敷地の中央には、石を敷き詰めた訓練場があった。外から覗けないほど高い壁に囲まれ、広さも申し分ない。
片側には細長い建物が併設されている。
古い机と椅子の残された休憩室。簡素な炊事場と水場。奥の小部屋には木枠の寝台まであった。
「思ったよりちゃんとしてるな」
リーゼは感心したように言い、窓枠へ指を滑らせた。
指先に白いものがついた。
「……訂正しよう。思ったより、ちゃんとしていた場所だね」
「しばらく使ってなかったらしい」
「それは見れば分かるよ」
リーゼが指についた埃を見せると、グレンは無言で目を逸らした。
「まさかとは思うけど、今日はこのまま訓練を始めるつもりだった?」
「多少汚れてても魔法は使える」
「ボクは嫌だよ」
きっぱりと言って、リーゼは固くなった窓枠を何度か押した。ようやく窓が開くと外気が流れ込み、閉じ込められていた埃が光の中に舞った。
「……特訓の初日が掃除になるとは思わなかったな」
そう言いながらも、声はどこか楽しそうだった。
二人で手分けして室内を片づける。古い布を濡らして机を拭き、床を掃き、窓をひとつずつ開けていった。
途中からリーゼは妙に熱が入り、棚の位置が悪いだの、ここに荷物を置けば邪魔になるだのと口を出し始めた。
結局、昼前にはそれなりに人が使える場所になっていた。
リーゼが窓辺に立ち、室内を見回す。
「うん。これなら悪くない」
「掃除しに来たわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
リーゼは笑ってから、窓の向こうへ目を向けた。
高い壁しか見えない。
外を歩く人間の姿もない。
「……本当に、外から見えないんだね」
「ああ。門を閉めれば、外から入ってくることもまずない」
「そう」
短く答えたあと、リーゼの肩からわずかに力が抜けた。
「ここならさ」
リーゼが振り返った。
「いちいち言葉を選ばなくて済むね」
「何の話だ?」
「外じゃ『飼育対象』なんて言われたら、さすがに困るだろ?」
「言わないよ」
「どうかな。キミ、考え事してると周りが見えなくなることあるし」
グレンは反論しかけてやめ、代わりに腰の小袋へ手を入れた。
「ほら」
小さな金属音。
投げられたものを、リーゼが反射的に受け取った。
手を開く。
鍵だった。
「……これ、ボクが持ってていいの?」
リーゼが鍵とグレンを交互に見る。
「毎回俺と一緒じゃないと入れないんじゃ面倒だろ」
グレンは当然のように言った。
「一人で来てもいい。基礎訓練くらいならここでやって構わない」
「重力魔法も?」
「それはまだ駄目だ」
即答。
リーゼが少し笑う。
「厳しいね、ご主人様」
グレンが嫌そうな顔をした。
「それは勘弁してくれ」
「冗談だよ」
言った本人も少し気まずそうに視線を逸らした。
リーゼは手の中の鍵へ目を落とした。ただの合鍵だった。それでも、リーゼの手はしばらく開いたままだった。
育ててほしいと、自分から頼んだのだ。
少し前までなら考えもしなかった関係だった。
「なくすなよ」
「なくさないよ」
リーゼはようやく鍵をしまい、訓練場へ続く扉を開いた。
「それじゃあ」
振り返る。
「始めようか」
「ああ」
休憩室の机には、重力魔法について必要になりそうな箇所を書き写した紙が置かれていた。
術式。
基礎理論。
習得の段階。
最初に何を感覚として掴むのか。実際に習得させた際、どのような訓練を行わせたのか。
《恩寵の魔王》の飼育記録は膨大だが、重力魔法を扱える人間となれば話は別だった。
そもそもの使い手が極端に少ないため、記されている訓練例も限られている。
しかも、本の手順はあくまで過去の成功例だ。リーゼに通じるかは、やってみなければ分からない。
だから、まず試す。上手くいかなければ、《飼育》スキルで何が足りないのかを確かめ、それをもとに次を考える。
グレンが訓練場の中央で足を止めた。
「最初はこれからだな」
重力魔法の初歩。
自分自身に働く重力を弱める。
「自分を軽くするんだったね」
「ああ。まずはほんの少しでいい」
リーゼは剣から手を離した。
「本にあった通りに?」
「とりあえずは。それで駄目なら別のやり方を考えよう」
「分かった」
リーゼはそっと目を閉じた。
すぐには何も起こらなかった。
片足を少し浮かせて地面へ戻し、数歩歩いてみる。
「……分からないな。変わった感じはしない」
リーゼは首を傾げた。
失敗したこと自体には、さほど気落ちしていない。
「もう一回やってみるよ」
「ああ」
今度はすぐ目を閉じなかった。書き写した内容を思い返すように、足元を見つめている。
それからゆっくりと息を吐き、魔力を動かした。
身体を強くするために使う強化魔法とは違う。
何かを生み出すわけでもない。
自分へ働いている力。
普段なら意識することすらないそれへ、魔力を触れさせる。
リーゼの眉がわずかに動いた。
足を上げる。
下ろす。
もう一度。
今度は、その動きがほんの少しだけ軽い。
グレンが目を細めた。
リーゼ自身も何かを感じたらしく、一歩前へ出た。いつもより僅かに遠くへ足が届き、そこで動きを止める。
「……今の、できてた?」
振り返ったリーゼの方が半信半疑だった。
グレンはリーゼへ意識を向ける。
見間違いではない。
「できてる」
「本当に?」
「ああ」
リーゼが自分の両手を見る。
次に足元。
身体が浮いたわけでも、周囲の石が跳ねたわけでもない。
ただ、確かに自分へかかる重力が僅かに弱くなっている。
「……これで?」
「これで」
リーゼは妙な顔をした。
「もっと、こう……難しいものだと思ってた」
昨日まで重力魔法を使ったことがなく、知識を得たのもつい最近だった。
それが一度試し、少し考え、二度目にはもう現象を起こしている。
「何か掴んだ感じはある?」
「あるにはあるけど……」
リーゼはもう一度、同じように魔力を動かした。今度は迷う時間すら短く、重力が弱まる。
再現できている。
「ほんの少し、魔力の置き方を変えただけなんだ。うまく言えないけど、下へ引かれてるのを少しだけ緩めるような……」
本に書かれた説明を読み、自分なりに試して感覚を掴んだ。
ただ、それだけ。
グレンは改めてリーゼを見る。
資質S。
まだ初歩の操作が一つできただけだ。
それでも。
「……資質Sって、こういうことなのか?」
「ボクに聞かれても分からないよ」
「そうだよな」
リーゼは少し間を置いてから、グレンを見る。
「キミもやってみたら?」
「俺が?」
「同じ説明を読んだんだろ。だったら比べやすいじゃないか」
「できなくても笑うなよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に出てる」
「気のせいだよ」
絶対に気のせいではなかった。
グレンも試した。
一度。
二度。
三度。
何も起きなかった。
本に書かれている理屈は理解できる。それでも、重力へ魔力をどう干渉させるのか、その入口がまるで掴めなかった。
「もういい」
「諦めるの早くない?」
「俺の訓練じゃないだろ」
「それはそうだけど」
リーゼがとうとう笑った。
同じ説明を読んで、同じように試した。
それでも、リーゼには二度目で掴めたものが、グレンにはまるで分からない。
重力魔法 0/資質S。
その意味を、二人ともようやく少し実感し始めていた。
「じゃあ、もう少し強くしてみてもいい?」
「少しだけな」
「分かってる」
リーゼは集中し、先ほどよりもはっきりと重力を弱めた。
「……軽い」
その場で足踏みし、次に一歩踏み出す。いつものつもりで出した足は、思ったより遠くへ伸びた。
「あ」
止まろうとした足も、身体を前へ運んでしまう。二歩余計に進んでから止まった。
「……便利というより、まず慣れないと危ないな」
「踏み込む距離が全部変わる」
「止まる方もな」
「うん。速く動けても、止まれないなら意味がない」
リーゼは何度か歩いてみた。発動そのものには迷いがない。
ただ、身体の扱いは別だった。軽くなれば、今まで積み重ねてきた感覚とのずれが生まれる。
一度、重力魔法を解く。
「どのくらい変わってた? 何か測る?」
グレンは少し考えた。
「見ただけじゃ分かりにくいな。もう一回軽くしてみろ」
「いいけど」
リーゼが重力を弱める。
「できたよ」
「そのまま動くな」
近づいてくるグレンを、リーゼは何をするのかと見上げた。
次の瞬間。
グレンの腕が腰へ回った。
「え」
身体が持ち上がる。
それも片腕で。
足が完全に地面から離れた。
「…………」
リーゼが無言になる。
拍子抜けするほど、軽かった。
「かなり軽くなってるな」
「……下ろしてくれる?」
「確認だろ」
「分かってるよ」
声は平静だった。視線だけが妙に定まっていない。
グレンが素直に地面へ下ろすと、リーゼは服の裾を整えた。
「次から別の方法で測ろう」
「何で?」
「何でも」
グレンは首を傾げたが、追及はしなかった。
リーゼは軽く咳払いする。
「今度は跳んでみる」
「待て」
「大丈夫だよ。さっきより弱くするから」
言いながら、すでに数歩離れている。
リーゼは膝を軽く曲げた。
ごく普通の跳躍。
軽く地面を蹴る。
「――っ」
予想していたよりもずっと高く身体が上がり、一瞬、リーゼの顔から余裕が消えた。
想定した軌道と、実際が食い違っている。
空中では踏み直せない。しかも着地点もずれている。
「リーゼ」
「分かってる――」
着地しようと身体をひねった瞬間、グレンがその先へ割り込んで受け止めた。
「っと」
背中と膝裏へ腕が回り、さっきより完全に抱え上げられる形になった。
リーゼは一瞬、何も言わなかった。
目の前にグレンの顔がある。
いつもより近い。
「……」
「怪我してないか?」
「してない」
返事が少し早かった。
「ならいい」
「うん」
グレンに下ろされた途端、リーゼは半歩離れた。服を直し、髪を耳へ掛ける。
「……今のは要調整だね」
「ああ」
「思ったより跳ぶ」
「見れば分かる」
「そういう意味じゃなくて」
リーゼは一度、自分の足を見る。
「軽くするだけでも、今までの動きが全部ずれる。歩幅も、踏み込みも、跳ぶ高さも」
「まず動く練習からだな」
「そうだね」
リーゼは先ほどより慎重に、もう一度重力を弱めた。
一歩。
止まる。
もう一歩。
また止まる。
グレンはその動きを見ながら、必要になればすぐ止められる距離に立っていた。




