第8話 ボクを育ててくれ
「でも、《飼育》を使うかどうかは別だ」
リーゼは少し黙った。
「……なんで?」
「地下で言っただろ。ここを出るために必要なこと以外では、《飼育》を使わないって」
「ああ」
覚えている。
あの時は、それも含めて説明を受けたうえで《飼育》を受け入れた。
けれど、リーゼには今の話と同じには思えなかった。
「でも、それはキミが勝手に使わないって話だっただろ?」
グレンがこちらを見る。
「今はボクから頼んでる」
「それでもだよ」
「どうして?」
すぐには返事がなかった。
机の上には、先ほどグレンが書いた二枚の紙がある。
その隣には、《恩寵の魔王》の本。
何を鍛えるかだけではない。
いつ休ませるか。何を食べさせるか。何を与えれば満たされるか。
二人とも、ついさっきまでその記録を読んでいた。
リーゼはグレンの顔を見た。
「キミは自分にはずっと使ってたんだろう?」
「ああ」
「それで、鍛えるものを決めたり、疲れを見たりしていた」
「してたよ」
「だったら、ボクにも――」
「けど、俺自身を管理するのとは全然違う話だろ」
思っていたより強い声だった。
リーゼの言葉が止まる。
グレンも、一度口を閉じた。
部屋の外から、通りを行く荷車の音が聞こえてくる。
「……それは分かってるよ」
リーゼが先に言った。
「同じことだなんて思ってない」
「ああ」
「……でも、それでもボクが頼んでるんだ」
グレンは答えなかった。
リーゼはしばらく、その顔を見ていた。
「何がそんなに嫌なんだい?」
「嫌っていうか……」
グレンは言葉を探すように、本へ目を落とした。
「あれを読んだだろ」
「読んだね」
「本気で育てるなら、伸びてるかどうかだけ見て終わりじゃない」
「ああ」
「見えるものがあるなら、俺はたぶん気にする。疲れてるとか、休んだ方がいいとか、それで伸び方が変わるならなおさらだ」
そこで一度、口を閉じる。
「そうやって、お前のことをずっと判断するようになる」
リーゼは少し眉を寄せた。
「それが嫌なら言うよ」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話なんだ?」
「……簡単に慣れていいことじゃないだろ」
リーゼは返事をしなかった。
グレンの視線が、机の端に置かれた紙へ落ちる。
身体の状態も。
欲求も。
能力も。
今では、リーゼを見るだけで分かる。
「今だって、勝手に見えるものが多すぎると思ってる。それを今度は、役に立つからって自分から使い始めるのは……」
「でも、役に立つんだろ?」
グレンが顔を上げた。
「そうだとしてもだ」
「なら、いいじゃないか」
「よくない」
今度の返事は早かった。
リーゼの眉がわずかに動く。
「……どうしてさ」
「だから、それを今話してるだろ」
「ボクには、そこまで嫌がる理由が分からないよ」
リーゼの声にも、少しずつ硬さが混じり始めていた。
「ボクが嫌だって言ってるなら分かる。でも、頼んでるのはボクだ」
「それでも、俺が何でもやっていいことにはならない」
「何でもやれなんて言ってない」
「分かってる」
「だったら――」
「リーゼ」
少し強く名前を呼ばれ、言葉が止まった。
「焦りすぎだ」
その一言に、リーゼの顔からわずかに力が抜けた。
「……焦ってるよ」
「ああ」
「焦るだろ、普通」
「それは分かる。でも、だからって今すぐ全部決めなくてもいい」
グレンは少し声を落とした。
「重力魔法は試せばいい。使えそうなら鍛えればいい。俺も付き合う」
「だったら《飼育》も使えばいいだろ」
「そこまで急ぐ必要はないって言ってるんだ」
リーゼが黙った。
ほんの少し前まで開いていた重力魔法の頁へ目を落とす。
「……急がなくていい?」
「ああ」
「強化魔法も?」
「時間はかかるだろうけど、戻せないわけじゃない」
「時間って、どのくらい?」
グレンは一瞬だけ答えに詰まった。
「それは分からない。でも――」
リーゼが顔を上げる。
グレンは、その表情に気づかないまま続けた。
「何年かかったって、戻れないわけじゃないだろ」
リーゼの目が止まった。
グレンも、そこでようやく口を閉じる。
「……」
何か言おうとしたのか、リーゼの唇がわずかに動いた。
声は出なかった。
頬を何かが伝った。
リーゼが瞬きをする。
「……え」
自分でも何が起きたのか分からないような顔で、頬へ手をやる。
指先が濡れていた。
「……いや」
すぐに手の甲で拭った。
「違うんだ」
何が違うのか、自分でも分かっていないようだった。
グレンが椅子をわずかに動かす。
「リーゼ」
「いや、ほんとに……」
もう片方の頬にも涙が落ちた。
リーゼは眉を寄せ、今度は両手で乱暴に拭う。
「ちょっと待って。なんだこれ」
苦笑しようとした声が、途中で崩れた。
「別に、泣くような……」
言い終わらないうちに、また涙が溢れた。
拭っても止まらない。
リーゼは俯き、片手で目元を覆った。
「……いや、違うっていうか……」
小さく息を吸う。
呼吸まで上手く整わなかった。
グレンは何もできずに、その場に座っていた。
「水、いるか」
「……いらない」
「分かった」
「あと」
リーゼは目元を覆ったまま言った。
「ちょっとだけ、何も言わないで」
「ああ」
それきり、グレンは黙った。
──
開いた窓の向こうでは、変わらず人の声がしていた。
どれくらい経ったのか、よく分からなかった。
窓から入る光はいつの間にか傾いている。
《恩寵の魔王》の本は、重力魔法の頁を開いたままだった。
リーゼは少し離れた椅子に座り直していた。
目元にはまだ熱が残っている。
グレンも、それからは何も聞かなかった。
しばらくして。
「……何年もかけてさ」
リーゼがぽつりと言った。
グレンが顔を上げる。
「何年もかけて、ボクが前と同じところまで戻ったとして」
そこで一度、言葉が止まる。
「その頃には、キミはもっと先にいるだろ」
グレンは何も言わなかった。
「キミだって立ち止まってるわけじゃない。当然だよね」
「……ああ」
「じゃあ、そこからまた追いかけるのかって」
リーゼは膝の上で指を組み直した。
「また何年もかけて」
少し間が空く。
「それでも追いつけなかったら?」
声が小さくなった。
「……一生、追いつけないかもしれないだろ」
グレンの口がわずかに動いた。
けれど、リーゼはその前に続けた。
「それにさ」
言ってから、視線を逸らす。
「キミがその間、ずっと一人でやってるわけじゃないだろ」
「それは……」
「誰かと組むこともあるよね」
グレンは少し迷ってから頷いた。
「あると思う」
「うん」
リーゼも頷いた。
「そうだよね」
分かっていた答えだった。
それでも、口に出して聞くと少しだけ胸がざわついた。
「その人と何度も一緒に戦ってさ。キミもその人の動きを覚えて、その人もキミのことを分かるようになって」
そこまで言って、リーゼは顔をしかめた。
「……なんか、嫌だな」
自分でも子供っぽいと思ったのか、小さく笑う。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
「ボクが戻った頃には、その人がキミの隣にいるのが普通になってるかもしれない」
また少し黙る。
「その時、ボクが戻ってきても……」
続きが出てこない。
リーゼは一度目を伏せた。
「前みたいには、もういかないかもしれないだろ」
部屋の外から、人の話し声が聞こえた。
リーゼはしばらく黙っていた。
やがて視線が、机の上へ戻る。
《重力魔法》。
しばらくその文字を見てから、小さく息を吐く。
「……だから、これに賭けたい」
グレンは何も言わなかった。
「上手くいくかは分からない。それでもいい」
リーゼは指先で頁の端を押さえた。
「キミが嫌がるのも分かってる」
「リーゼ」
「分かってるよ」
少しだけ笑う。
「ボクがこうなったこと、キミが気にしてるのも」
グレンの表情がわずかに動いた。
「それを分かってて頼むんだから、ずるいよね」
一度、目を伏せる。
「……それでも、頼みたいんだ」
少し間を置いて、顔を上げた。
今度は、グレンから目を逸らさなかった。
「……まだ、キミの隣にいたい」
沈黙が落ちる。
リーゼは一度だけ息を吸った。
「だから」
「ボクを育ててくれ」
開いた窓から風が入り、本の頁がわずかに揺れた。
グレンは黙ったまま、リーゼを見ていた。
すぐには答えなかった。
リーゼも急かさない。
やがて、グレンが小さく息を吐いた。
「……分かった」
リーゼの目がわずかに見開かれる。
「やる」
「……いいの?」
「ああ」
少し間があった。
リーゼは目元に残った涙の跡を指で触る。
「なんか、泣き落としみたいになっちゃったね」
「泣いたから決めたわけじゃない」
「……本当に?」
「ああ」
リーゼはしばらくグレンの顔を見ていた。
「そっか」
それだけ言って、少し笑った。
重力魔法が本当に使いものになるのかは、まだ分からない。
どれくらいで戻れるのかも分からない。
それでも、さっきまで考えていた何年もの先を、一人で追いかけなくていい。
グレンが一緒に探してくれる。
そう思った途端、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
――飼育対象の状態に変化がありました。
【対主人】
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