第6話 発情について
「今度こそ、続きを読もうか」
グレンが本を引き寄せる。
厚い紙の擦れる音が、部屋に響いた。
二人で開いたのは、昨日も見た剣士の記録だった。
《恩寵の魔王》に仕え、将としていくつもの戦場に名を残した男。
記録はほぼ時系列に沿っていた。
身体の状態。能力の推移。訓練、食事、休息、実戦。その前後で起きた変化まで、数年分が所見とともに並んでいる。
ある時期、それまで順調だった剣術の伸びが止まっていた。
魔王はまず訓練量を増やしている。反復回数を増やし、実戦形式の訓練も追加した。
直後にはわずかに持ち直した。
だが数週間後、活力と休息が落ち、剣術の伸びも再び鈍る。さらに続けたところで、成長効率そのものまで低下していた。
そこで方針が変わる。
訓練量を戻し、睡眠を増やす。連日の実戦もやめ、間隔を空ける。
状態が戻るにつれて剣術もまた伸び始め、その後は以前よりわずかに低い負荷が基準になっていた。
欄外に、短い所見が残されている。
『我が見るに、足りぬは鍛錬にあらず。鍛錬を実と成すための余地であった。耕地を痩せさせてなお種を増やすは、勤勉ではなく愚鈍にすぎぬ』
リーゼはそこを二度読んだ。
「……自分で増やしておいて、言うことはだいぶ偉そうだな」
「そこはずっとこんな感じだ」
「知ってる」
リーゼは苦笑し、先へ進んだ。
しばらくして、頁の上部に振られた参照番号へ気づく。
「これ、別のところに繋がってる?」
「ああ」
グレンが目録を開いた。
昨日は個々の名前ばかりを追っていたが、本自体はかなり明確に分けられている。
《飼育》についての総論。
食事や休息、称賛、接触などを扱う管理篇。
能力と資質を評価し、何を育てるかを扱う育成篇。
後半には個体ごとの長期記録があり、末尾には技能や魔法の資料まで収められていた。
「昨日、いきなり一番重いところを読んでたんだね、ボクたち」
「名前が並んでたからな」
「そりゃ目も行くか」
グレンが参照先を開いた。
そこでは、複数の対象から得られた結果が項目ごとにまとめられていた。
称賛。
戦果の直後に認めた場合と、時間を置いてから評価した場合。
人前で称えた時と、二人きりで具体的に褒めた時。
ある者は人前の方が強く満たされ、別の者は主人と二人きりの時にだけ大きく反応する。
同じ言葉を繰り返して反応が鈍れば、時機や内容を変える。その結果まで記録されていた。
接触も同じだった。
実戦後には強く求めるが、訓練中には煩わしがる。
頭へ触れられることを好む者もいれば、別の場所を好む者もいる。
同じ相手でも、疲労や精神状態によって反応は変わっていた。
リーゼはふと、机の端に置いた二枚の紙を見る。
接触47。
称賛52。
少し前まで、自分でも知らなかった数字だ。
食事と睡眠については、さらに地味だった。
量や内容を変える。時間をずらす。睡眠を増やし、必要なら途中に休息を入れる。
数日後、数週間後の状態が続き、効果が薄ければまた修正されている。
やがて、見覚えのある項目が現れた。
リーゼの指が止まる。
発情。
「……」
一瞬だけ眉間に皺が寄った。
それでも、今度は頁を飛ばさなかった。
発情が強くなると眠りや集中を乱す者。
満たされたあと、長く心身が安定する者。
接触欲求まで落ち着く者もいれば、主人への接触だけが強く残る者もいる。
さらに読み進めたところで、リーゼの目が止まった。
魔王自身が応じた記録がある。
別の人間をあてがった記録もあった。
同じ対象に、その両方を試している例まである。
「…………」
リーゼは黙って先を追った。
魔王自身が相手をしたあとは、睡眠が深くなり、集中が長く安定した。
別の相手では、身体の状態は早く落ち着いたものの、主人への接触欲求が残っている。
他の対象では、また違う結果が出ていた。
誰と何をしたのかについては、驚くほど簡潔だった。
細かいのは、その後だ。
睡眠。集中。充足。欲求。翌日の訓練効率。
リーゼはしばらく読んでから、息を吐いた。
「……徹底してるな」
猥雑なことを書いているはずなのに、文章の調子は食事や睡眠の記録とほとんど変わらない。
リーゼは少しだけ口元を歪め、頁をめくった。
次に開いたのは、何を育てるかを扱う篇だった。
既に高い水準にある技能を伸ばす。
伸びの悪い分野を切る。
別の技能を並行して育てる。
必要なら能力を再配分する。
そこにも実例が並んでいた。
ある兵士は、飼育対象となった直後、大きな再配分を行う前に、それまで使っていなかった分野まで資質を調べられている。
そこで高い投擲の資質が見つかった。
だが、それまで積み上げてきた槍術も捨ててはいない。
一部を投擲へ回し、槍を残したまま戦える距離を広げている。
別の例では、再配分の候補を探す過程で高い魔法資質がいくつも見つかっていた。
それでも、すべてを育てたわけではない。
実用までにかかる時間。
今ある技能との相性。
移すことで失うもの。
それらを比べた結果、何も移さなかった例もある。
「……資質が高ければ、それで決まりってわけじゃないんだ」
「ああ。高い方が育てやすいってだけだからな」
別の対象では、成立直後の調査で、それまで使っていなかった分野に高い資質が見つかっている。伸びの悪かった技能から大きく再配分され、それ以降の訓練内容はその能力を軸に組み直されていた。
リーゼが次の頁へ指を掛けたところで、隣のグレンが動いていないことに気づく。
本の一箇所へ目を落としたまま、少し考え込んでいた。
「どうしたの?」
「……いや」
グレンはしばらくして本から目を離した。
「俺も、自分には似たようなことやってるなと思って」
リーゼが顔を上げた。
「自分に?」
「ああ」
グレンは少し考えてから、続けた。
「地下で話したことは訂正する。《飼育》をほとんど使ったことがないって言ったけど、自分を数えてなかった」
「と、言うと?」
「スキルに目覚めたら、まずは自分の状態が見えるようになってた。体調とか疲れだけじゃなく、能力や資質も。飼育対象ほど細かくはないけどな」
「へえ」
リーゼは素直に頷いた。
「じゃあ、それで鍛えるものも選んでた?」
「ああ。筋力は伸びやすい。斧も向いてる。逆に魔法はどれも大したことない。それくらいは最初から分かってた」
グレンは開いた本へ指を置いたまま続ける。
「鍛え方を変えた時も、それで本当に伸びが良くなったかは見える。疲れが溜まりすぎてるとか、休んだ方がいいとかもな」
「なるほど」
考え方自体は、特別なものではない。
向いているものを伸ばし、伸びが悪ければやり方を変える。疲れていれば休む。
ただ、グレンには、その判断が正しかったかを確かめる手段があった。
リーゼはそこで、改めて隣を見た。
「なるほど。だから、ここまで出来上がっているのか」
「何が?」
「いや、こっちの話」
グレンは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
リーゼの視線は、そのまま彼の肩へ向いていた。
鎧を外した今は、普段より体格の大きさがよく分かる。
厚い肩。
袖の上からでも形の分かる腕。
胸元にも十分な厚みがあり、座っているだけでも、自分とは骨格から違うことが分かる。
それでいて、ただ大きいだけではない。
あの長柄の斧を振る姿を、リーゼは何度も見てきた。
大きな一撃を受け止め、そのまま押し返す。
振り切った斧をすぐに引き戻し、次の動きへ繋げる。
必要なところに必要なだけ筋肉がついている。
リーゼの目が、肩から腕へ落ちた。
さらに、その先の手へ。
自分のものより、ずっと大きい。
その手に引き起こされたことも、支えられたこともある。
視線を戻そうとして、今度は胸元で止まった。
ずいぶん男の身体だと思う。
まあ、魅力的だと言わざるを得ない。
そう思ったまま、少し長く見ていた。
不意に、グレンの手が止まった。
頁へ掛けていた指が、そのまま動かない。
リーゼが顔を上げると、グレンは妙にこちらを見ないまま、わずかに耳を赤くしていた。
「…………」
リーゼも動きを止めた。
数拍遅れて、本へ目を戻す。
その途中で、机の端に置いた二枚の紙が目に入った。
頬が熱くなる。
何も言わず、リーゼは頁を一枚めくった。
グレンも何も言わなかった。
──
しばらく文字を追ってから、リーゼは気を取り直すように机の端の紙を引き寄せた。
剣術44。
強化魔法12。
空間魔法55。
同じ数字が並んでいるだけなのに、さっきまでとは少し見え方が違う。
グレンが自分の身体をどう作ってきたのか。
魔王が何を見て、何を残し、何を変えていたのか。
それを知ったあとでは、ただの現在地には見えなかった。
リーゼの視線は、しばらく紙の空いたところに留まっていた。
「じゃあさ」
やがて顔を上げる。
「ボクを育てるなら、どうする?」




