第8話 断罪前夜
王都は静かだった。
明日に控えた建国記念祝賀会。
貴族たちは華やかな宴の準備に追われ、街には祝祭の飾り付けが並ぶ。
誰も知らない。
その宴が、一人の公爵令嬢を断罪するための舞台になることを。
そして誰も知らない。
その舞台が、すでに別の形へと組み替えられていることを。
◇
王城。
国王アウグストは、一枚一枚、報告書へ目を通していた。
「……全員、配置についたか」
「はっ」
影が膝をつく。
「証人、商会、教会、司法卿。すべて予定通りでございます」
国王は静かに頷く。
「そうか……」
その隣で王妃ヘレナは、窓の外を見つめていた。
「明日で終わるのですね」
「いいや」
国王は首を横に振る。
「終わるのではない、始まるのだ」
新しい王国が、そう小さく呟いた。
◇
一方、王立学園。
生徒会室には重苦しい空気が流れていた。
「……本当に大丈夫でしょうか」
シャーリーが不安げに尋ねる。
レナードは腕を組み、苛立ちを隠さない。
「問題ない」
そう答えるものの、その声には以前のような自信がなかった。
証人は減った。
協力者も減った。
令嬢たちの視線も冷たい。
それでも。
「私は王太子だ」
その言葉だけを、自分自身へ言い聞かせていた。
◇
夜。
カルメネール公爵家。
広い屋敷は、静まり返っていた。
執事たちも、侍女たちも皆が明日に備えて早く休んでいる。
フランシスカの部屋だけに、まだ灯りがともっていた。
机の上には革手帳。
びっしりと書き込まれた予定。
一つ、また一つ。
赤い丸で埋められている。
残る予定は、あと一つだけ。
断罪
「……終わるのね」
小さく呟く。
その声は、どこか力がなかった。
窓の外には、満月。
前世もこんな夜だった。
処刑を言い渡される前夜。
誰にも信じてもらえず、父も母も涙を流し。
自分はただ、首を横に振ることしかできなかった。
『違います』
『私はやっていません』
何度叫んでも誰も聞いてくれなかった。
「お嬢様」
静かなノック。
「マリアです」
「……入って」
侍女のマリアが、温かなミルクティーを運んできた。
「お休みになられないのですか?」
「もう少しだけ」
マリアは何も言わず、カップを置く。
その優しさに、フランシスカは小さく微笑んだ。
「ねえ、マリア」
「はい」
少しだけ沈黙が流れる。
「私は……」
言葉が止まる。
喉の奥が締め付けられる。
「私は、どこで間違えたんだろうね」
その一言は。
この一週間で初めて聞く、弱々しい声だった。
マリアは驚かなかった。
静かにフランシスカの隣へ膝をつく。
「お嬢様」
「……」
「お嬢様は、どこも間違えてなどおりませんわ」
「そう、かしら……」
「そうですよ、幼い頃から毎日お勉強をされて。領地のことも学ばれて。使用人一人ひとりの名前まで覚えてくださって。孤児院へ通われ。奥様のお手伝いもなさって。雨の日には、ご自身の傘を平民の子へ差し出されて」
マリアは、少しだけ頬を膨らませた。
「そんな完璧なお嬢様にケチをつけるなんて」
腕を組む。
「王太子殿下のお目々が節穴だっただけですわ」
「……ぷっ」
思わずフランシスカは吹き出した。
「ふふっ……」
肩を震わせながら笑う。
「節穴って」
「だってそうでしょう?」
マリアは真剣そのものだった。
「王国中、いえ、世界中探したって、お嬢様より素敵な令嬢なんておりませんもの」
「ふふ、マリア」
「はい」
「ありがとう」
その笑顔は。
この一週間で、一番自然な笑顔だった。
マリアは静かに立ち上がる。
「お嬢様。明日は、私たち使用人全員がお嬢様の味方です」
「ええ」
「旦那様も奥様もアルフレッド様もみんな、お嬢様が歩まれた17年を知っております」
マリアは深く頭を下げた。
「だから、どうか胸を張って、行ってらっしゃいませ」
フランシスカはゆっくりと頷く。
「ええ、行ってくるわ」
◇
マリアが部屋を後にしてしばらくすると、再び控えめなノックが響いた。
「フランシスカ」
聞き慣れた父の声だった。
「お父様?」
扉が開き、公爵ディミトリウス・カルメネールと、その隣には公爵夫人エミリア・カルメネールが立っていた。
「少しだけ、時間をもらってもいいかい?」
フランシスカは微笑みながら頷く。
「もちろんです」
二人は向かいへ腰を下ろした。
しばらく誰も口を開かない。
静かな沈黙だけが流れる。
やがて、公爵がゆっくりと口を開いた。
「フランシスカ」
「はい」
「王から王子の現在もお前が置かれてる状況も聞いてる。もし明日、お前が耐えられないと思ったなら」
その声は公爵のものではなく。父親のものだった。
「逃げてもいい」
その一言に、フランシスカは目を見開く。
「お父様……」
「王太子との婚約も、公爵家の立場も、私はどうでもいい」
公爵は娘を真っ直ぐ見つめる。
「私にとって一番大切なのは、お前や家族だ。父として、お前を守る。だから、逃げてもいい」
フランシスカは唇を噛んだ。
胸の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます」
小さく笑う。
けれど、その瞳は真っ直ぐだった。
「ですが、逃げません」
「フランシスカ」
「私は逃げたら、一生後悔します」
静かに首を横へ振る。
「明日は、私自身のために参ります。17年間積み重ねてきたものを、私自身が否定したくありません」
その言葉を聞いた公爵は目を閉じ、小さく笑った。
「そうか、強くなったな」
隣に座るエミリアが、そっと娘の手を包み込む。
「フランシスカ、怖いですか?」
その問いに、フランシスカは少しだけ黙り込んだ。
そして。
「……怖いです」
初めて、本音を口にした。
「誰にも信じてもらえなかったらと思うと。大切な人を悲しませてしまったらと思うと……」
声が震える。
「怖くて、たまりません」
エミリアは何も言わず、娘を優しく抱きしめた。
幼い頃と変わらないように。
「大丈夫」
母の声は、とても穏やかだった。
「明日は、あなた一人じゃない。お父様も、私も。アルフレッドや、マリア、屋敷のみんなも、あなたが歩いてきた17年を知っているわ」
公爵も静かに頷く。
「だから胸を張りなさい」
「お前は、私たちの誇りだ」
フランシスカの瞳から、一筋だけ涙が零れ落ちた。
それは悲しみではなく。
支えてくれる人がいるという安堵の涙だった。
その時コンコン、と扉が叩かれる。
「失礼いたします」
アルフレッドだった。
「王城より、お嬢様宛てにお手紙が届いております」
「王城から?」
「はい」
差し出された封筒には、王家の紋章。
封蝋には、王妃ヘレナの印章が押されていた。
フランシスカは丁寧に封を開く。
中には、便箋が一枚だけ。
整った文字で、綴られていた。
──────────────
フランシスカ嬢
明日は王妃としてではなく、あなたの成長を10年間見守ってきた一人の大人として、その場に立ち会います。
あなたが積み重ねてきた努力を、私は知っています。
どうか胸を張って、前を向いて歩いてください。
あなたが真実を語るその時、私は最後まで、あなたの言葉を聞き届けます。
ヘレナ・デ・アルフォード
──────────────
読み終えたフランシスカは、そっと便箋を胸へ抱き寄せた。
「……ありがとうございます」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
父か。
母か。
王妃か。
それとも、ここまで歩いてきた自分自身へなのか。
窓の外では、満月が静かに夜空を照らしている。
もう迷いはなかった。
明日は、自分の足で歩く。
そして、自分の言葉で未来を切り開く。
そう心に誓いながら、フランシスカは静かに便箋を手帳へ挟み、大切に閉じた。
◇
そして、同じ満月を見上げながら、王城の回廊ではヴァルデマールもまた眠れずにいた。
静かな夜風が長い回廊を吹き抜け、窓辺から差し込む月明かりが石畳を淡く照らしている。
「……明日か」
誰に聞かせるでもない呟きが、静寂へ溶けていく。
脳裏に浮かぶのは、一人の少女。
フランシスカ・カルメネール。
藤色の輝く髪に湖面を映したような水色の瞳。
芯の通った佇まいは一種の絵画のように美しい、我が甥であるレナードの婚約者。
国王にも王妃にも臆する事なく進言できる心の強さを持っている。
数手先を読む頭の回転の速さと思慮深さ。
その姿は一朝一夕で出来上がるものではない。
もし万が一にも。
彼女の積み重ねてきた17年が、理不尽に踏みにじられるようなことがあれば──
ヴァルデマールは静かに拳を握り締めた。
「その時は」
新緑の瞳に、迷いのない光が宿る。
「私は、君を守ろう」
それが王族としてなのか。
一人の人間としてなのか。
まだ、自分でも分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
彼女のような人を、理不尽に失ってはならない。
王国のためにも。
そして──自分自身のためにも。
「何があろうと」
その声は、静かでありながら強い決意を帯びていた。
「私は君の味方でいる」
月明かりの下、一人の王弟は胸の内に芽生えた想いへ、まだ名前を付けることはできなかった。
けれどその決意は、誰にも揺るがされることなく、静かに彼の心へ刻まれていた。
一人の令嬢の運命が決まる日。
いや──
王国の未来が決まる日。
その幕が、静かに上がろうとしていた。
フランシスカには使用人たちも、両親も、王妃も見方してくれます!
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