25.ごはんは
いい匂いがした。
そう思って顔を上げる。食事にはまだ早い。
そもそも、いまいるのは食堂でもない。特にすることもなく、書庫から持ち出した本を眺めながら時間を潰していたところだった。
白なら読めるだろうけれど、俺にはいまいち内容が分からない。文字は読める。意味も分かる。なのに何が書いてあるのか分からない。
専門書とはそういうものなのかもしれない。
「……何だろう」
匂いがした。甘い。
花のような甘さではない。砂糖や果物とも違う。
けれど、なぜだろうか。妙に気になる。
鼻を利かせる、というほど意識するまでもなく、その匂いがどこから来ているのか分かった。
部屋を出る。廊下には誰もいない。
いつものようにレイスが一人、ふわふわと漂いながら掃除をしているくらいだった。
「お疲れ様」
ぺこり。頭を下げられた。
こちらも軽く頭を下げて、その横を通り過ぎる。
匂いは消えない。むしろ近づいている。階段を降りて廊下を曲がる。厨房。
どうやら、ここらしい。
何か作っているのだろうか。そう思いながら中を覗く。
「あ、領主さま」
ハイジがいた。
最近では、厨房に立っていることも珍しくない。レイスたちに混ざって、何か野菜を切っていたらしい。
「何か食べます?」
「いや」
そこで気づいた。ハイジが片手を押さえている。
「怪我した?」
「ああ、これですか?」
手を上げる。人差し指。小さな切り傷だった。
「ちょっと切っちゃって」
赤いものが、指先に浮かんでいる。
「…………」
血だ。
それを理解した瞬間、口の中に唾液が溜まった。
ごくり、と飲み込む。
覚えのある感覚だった。
血を飲んだことならある。クロエの血。
血の味、としか言いようのない味だったけれど、不思議と甘く感じた。
身体が喜ぶ。というのだろうか。腹が満たされるのとは少し違う、本能に直接触れるような感覚。
美味しいと思った。それは認める。
けれど、あの時は口にしてから分かった。いまは違う。
まだ触れてすらいない。
「領主さま?」
「ああ、ごめん」
ぼんやりと見ていたらしい。
「大丈夫か?」
「これくらい平気ですよ」
ハイジが笑う。
「村にいた頃なんて、もっと酷い怪我もしてましたし」
「ちゃんと洗ってね」
「分かってます」
そう言って、水で傷口を流す。赤いものが薄くなって、流れていく。
「…………」
勿体ない。そう思った。
思ってしまった。何が勿体ないんだ?
「領主さま?」
「いや」
目を逸らす。匂いはまだ残っていた。
クロエの血とは違う。
味ではない。そもそも、まだ味なんて知らない。なのに。
※※※
「クロエ」
「な~に?」
中庭。日陰になっているところで、クロエが寝転がっていた。
何をしているのかと思ったら、本当に寝転がっているだけらしい。
自由だ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「あるじさまから相談~?」
ぱっと起き上がる。なんで嬉しそうなんだ。
「人間の血って、美味しいの?」
「おいしいよ?」
早かった。
「そんな即答する?」
「だっておいしいもん」
何を当たり前のことを聞いているのか、という顔をされた。
「吸血鬼の血より?」
「うん」
また早い。
「全然?」
「全然」
「そんなに?」
「そんなに~」
随分と差があるらしい。
「何が違うの?」
「ん~」
クロエが少し考える。
「おいしい?」
「それは聞いた」
「じゃあ、飲みやすい?」
「飲みやすい」
「魔力も吸いやすいし~」
なるほど。
以前、血から魔力を得るのは効率が良いと聞いた。
吸血鬼同士でもそれは同じらしいけれど、人間の方が良いのだろうか。
「匂いも違う?」
「違うよ~」
「やっぱり」
クロエの赤い目が細くなる。
「なに~? 人間の血の匂いした?」
「……ハイジが指を切って」
「へえ」
それだけだった。
「別の部屋にいたんだけど、分かった」
「あるじさまだもん。それくらい分かるんじゃない?」
「そういうものなの?」
「たぶん?」
たぶん、か。
「それで?」
「それで?」
「飲まなかったの?」
「飲まないよ」
「なんで?」
「なんでって」
思わず言葉に詰まる。
「ハイジだぞ?」
「うん?」
「……」
駄目だ。この吸血鬼には通じない。
「本人の許可もないのに飲まないだろ」
「じゃあ聞けばいいじゃ~ん」
「聞けないよ」
「なんで~?」
今度はこちらが答えられない。
ハイジに、血を飲ませてください。と言う自分を想像してみた。嫌すぎる。
「人を傷つけるのも嫌だし」
「じゃあ傷つけなきゃいいじゃん」
「簡単に言うなあ」
「簡単だもん」
クロエが自分の犬歯を指先で触る。
「ちょっともらえばいいだけだよ~?」
「そういうものなのかな」
「そういうものだよ」
今度は断言された。
吸血鬼にとっては、本当にその程度の話なのかもしれない。
「あるじさま、人間の血飲んだことないんだっけ?」
「ないね」
「じゃあ今度飲んでみたら?」
「簡単に言うなあ」
「クロエちゃんが教えてあげよっか?」
「何を」
「上手な飲み方~」
「遠慮します」
「え~」
何故か不満そうだった。
※※※
「吸血鬼にとって、人間って食べ物なのかな」
本を読んでいた白が顔を上げる。
「随分と直接的な質問だね」
「俺もそう思う」
窓辺。白の定位置になりつつある場所に腰掛ける。
「クロエに聞いたら、人間の血は吸血鬼の血より美味しいって」
「そうなんだ」
「白は知らない?」
「味は知らないよ」
「それはそうか」
知識があるからといって、なんでも経験しているわけではない。
そもそも、白は吸血鬼でもないのだから。
「吸血鬼が人間の血を好む。という話なら、この世界にもあるよ」
「やっぱり」
「でも、どうして好むのかまでは分からない」
「魔力が吸収しやすいとか?」
「それもあるかもしれないね」
白が本を閉じる。
「あなたの場合は、普通の吸血鬼と同じなのかも分からないけれど」
「ヴァンパイア・ロードだもんなあ」
自分で言っておいて、相変わらずおおげさな名前だと思う。
「今日、ハイジが指を切ったんだ」
「ハイジが?」
「ほんのちょっとね」
「そう」
「それが、別の部屋にいたのに分かった」
白が少しだけ目を見開く。
「血の匂いで?」
「うん」
「すごいね」
「感心するところかな」
「だって、すごいでしょう?」
そう言われればそうなのかもしれない。
「いい匂いだと思った」
口にしてみる。他の誰かには言えないことも、白になら話しても良いと思えた。
「クロエの血を飲んだときも、美味しいとは思ったんだけど」
「うん」
「なんていうか、違った」
「どう違うの?」
「分からない」
自分でも説明できない。
「まだ飲んでもいないのに、美味しそうだと思った」
白は少し考えている。
「食欲?」
「……なのかな」
言われてみれば、一番近い言葉なのかもしれない。
「そういえば」
白を見る。
「最初にもあったな」
「最初?」
「白の首を見たとき」
白がぱちぱちと瞬きをする。
「私の?」
「うん」
風で髪が流れて、細い首筋が見えたあのときも、理由も分からず、唾を飲んだ。
「あれも、これだったのかな」
「…………」
白が自分の首に触れる。
「私、人間なのかな」
「そこから?」
「分からないから」
「そうだった」
忘れていた。
白は見た目こそ人間だけれど、自分でも精霊のようなもの、としか説明できない存在だった。
「じゃあ参考にならないか」
「失礼だね」
「ごめんなさい」
白は少しだけ唇を尖らせた。
あの時に感じた違和感。どうにも実感がなかっただけで、確かに自分は吸血鬼なのだろう。
※※※
そして夕食。今日も肉だった。先日、行商人から買った香辛料が使われている。少し辛い。
「美味しい」
「よかったです」
ハイジが笑う。指には、小さな布が巻かれていた。
もう血は出ていないし、匂いもしない。
肉を口に運ぶ。美味しい。
パンも食べる。スープも飲む。どれも普通に美味しい。
「領主さま?」
「ん?」
「さっきから、こっち見てません?」
「見てないよ」
「そうですか?」
見ていた。正確には、指を。
向かいに座ったクロエと目が合うと、にやにやとしていた。やめなさい。
米も食べたい。醤油も欲しい。
この世界の食事だって、十分に美味しい。
それとは別に、人間の血は、美味そうだった。
吸血鬼にとって人間というものは、俺が思っていたよりもずっと、そういう存在なのかもしれない。
目の前でパンを食べているハイジを見る。
「……何です?」
「なんでもないよ」
食べ物。そういう言葉が一瞬頭に浮かんで。
さすがに失礼だろう、と追い払った。
「別腹なのかな」
「はい?」
なんでもないです。




