今夜の魚
魚売場に、三つの絵が並んだ。
鍋に入れる生魚。火で焼く干物。蓋を開ければ食べられる魚缶。
「全部魚なのに、場所が違う」と客の男。
「保存方法が違います」と雨宮。
「一か所にしてくれ」
生魚は冷蔵棚。干物は乾物棚。魚缶は加工品棚。温度のために離さなければならない。
宗久は、三つの商品を動かさず、案内札だけを一か所へ集めた。
『今夜の魚』
その下へ値段、調理の手間、保存できる日数を絵で示す。
案内札の前へ、商品の場所を示す色紐を床に引いた。青は冷蔵棚の生魚。茶は乾物棚の干物。白は加工品棚の魚缶。
「床ばかり見て歩いたら、人にぶつかる」とロアン。
実際にトトへ歩かせると、青い紐を追って白乳の客へぶつかりかけた。
床の紐はやめ、棚の上へ同じ色の小旗をつけた。入口の案内札から見渡せる高さにそろえる。
「王冠の野菜の旗より役に立つ」とリリア。
「あれも入口の目印にはなっています」
長く残った図柄にも、今は役目があった。
「字が多い」とリリア。
「絵だけだと、干物をそのまま食べる人が出ます」と宗久。
火が必要な商品には赤い炎。魚缶には缶切り。生魚には鍋。読めない客には、三つの札を指して説明する。
最初の女性は干物を選んだ。
「今夜焼く。残りは明日」
次の男は魚缶。
「火を起こす時間がない」
三人目は生魚を選び、白根菜と塩も買った。
同じ客数でも、買う理由が違う。
昼、魚缶を選んだ男が戻ってきた。
「開かない」
缶切りを持っていなかった。
以前から出ていた問題だ。貸し出せば返却管理が要る。店で開ければ、開封後の持ち帰り時間を管理しなければならない。
「缶切りを商品にします」と宗久。
「今は?」
「店の備品で開けます。ただし、今日中に食べてください」
男の目の前で開け、蓋の切り口へ触れない持ち方を説明した。会計済みの商品であることも記録する。
ガルドへ、現地で作れる缶切りを頼む。
店の備品を客へ持たせて試す。年配の男は刃を逆に当て、子どもは力が足りず開けられなかった。ロアンは簡単に開けたが、切った蓋を指で押さえようとした。
「道具を売るだけでは足りない」と雨宮。
「使い方の絵と、切り口へ触れない道具が要ります」
蓋を持ち上げる小さな鉤も、試作品へ加えてもらう。
「日本のを送れば早い」と久瀬。
「替え刃も修理も、こちらでできません」
ガルドは古い缶を一つ開け、刃の角度を測った。
「十日くれ」
「試作品は何個ですか」
「三個」
「最初から百個と言わないんですね」と雨宮。
「こいつがうつった」
夕方、『今夜の魚』札の前に五人が立った。
互いに、何を買ったか話している。
「干物は塩辛いか」
「薄いのはそのまま焼ける」
「魚缶は火がいらない」
「でも道具がいる」
店員だけでなく、客同士の経験が売場へ増えていく。
宗久は聞こえた話を、そのまま宣伝文句にはしなかった。『干物は絶対に塩辛くない』とも、『魚缶は誰でも開けられる』とも書けない。客の言葉は、次に何を説明するかを決める材料にした。
閉店時、生魚は完売。干物は一枚残り、魚缶は二缶売れた。肉の煮込みは八杯、卵パンは七個で完売した。
雨宮が売上を商品別ではなく、夕飯の選び方別に並べた。
すぐ食べる。焼くだけ。煮る。明日まで置く。
「本社の表には、この欄がありません」と雨宮。
「増やしましょう」
「また説明が必要になります」
「一緒に書いてくれますか」
雨宮は少しだけ間を置いた。
「副店長ですから」
二人で同じ帳面をのぞき込む。肩が触れたが、どちらも離れなかった。
そこへリリアが顔を出し、二人と帳面を交互に見る。
「何を書いてるの?」
雨宮が一歩離れ、夕飯別の欄を指した。
「明日、案内札の前で迷った人数も数えます」
「肩がぶつかった人数じゃなくて?」
雨宮は無言で定規を持ち直した。宗久は咳払いして、青、茶、白の小旗へ視線を戻す。
閉店後の売場で旗だけが揺れていた。冷蔵棚、乾物棚、加工品棚。離れた三か所を一枚の案内がつないでいる。
スーパーとは、何でも同じ棚へ詰める店ではない。違う商品を、客の一回の買い物へつなぐ店だ。
リリアが去ったあと、雨宮は定規を机へ置いた。
「仕事中ですから」
「何がです?」
「肩の話です」
聞き返した宗久の方が先に目をそらした。
「すみません」
「謝られると、余計に変になります」
雨宮は帳面を宗久の側へ戻した。離すのではなく、さっきより少しだけ近くへ。
「この店が落ち着いたら、店長は日本へ戻りたいですか」
宗久は即答できなかった。赴任した日は帰る日ばかり考えていた。今は閉店後の売場に、明日の不足が見える。
「落ち着いたかどうかを、俺が決めていいなら」
「また条件を増やしましたね」
「副店長に確認してもらいます」
雨宮は笑わなかった。ただ、帳面の余白へ小さく『帰任条件・未定』と書いた。
数字の向こうには、客の夕飯があった。
冷蔵棚を増やしたことで、肉だけではなく、魚の選び方まで増えた。
次に足りないのは、缶詰を自分で開ける道具だった。




