八杯の煮込み
開店前、増設した冷蔵棚の札は黄色だった。
販売停止になる温度ではない。だが朝から黄色なら、夕方までは持たない。
「冷え石を二個にする」とロアン。
「電力も二倍使います」と雨宮。
冷え石を冷やす装置には、一日の上限がある。肉へ回せば、白乳や魚の分が減る。
宗久は肉を全部出し、保冷箱へ移した。開店時刻を遅らせず、肉売場だけ黄色い紐で閉じる。
「肉を買いに来た」と、注文札を持つ女性。
「温度確認が終わるまでお渡しできません」
「昨日頼んだのに」
予約しても、安全を飛ばす権利にはならない。女性の名と待った時間を残し、買わずに帰る場合は注文を取り消すと伝えた。
原因を調べる。
棚板の穴は塞がれていない。扉も閉まる。冷え石も動いている。
ガルドが背面へ手を入れた。
「壁に近すぎる。熱が逃げてない」
売場を広げるため、昨日、棚を壁際まで押していた。後ろへ拳一つ分の隙間を空けると、温度が下がり始めた。
「場所を増やしたのに、通路が減る」とリリア。
「冷やす棚には、見えない場所も必要です」
通路幅を測る。籠を持った二人はすれ違えない。
生活用品棚をさらに細くすれば、前の問題へ戻る。そこで注文肉の受取時間だけ、空の運び台を壁へ片づけた。夕方の惣菜販売前には戻す。
売場は一日中同じ形でなくてもよい。ただし、動かす時刻と置き場所を決める。
昼前、札が青へ戻った。
待っていた女性へ肉を渡す。部位、重さ、温度を一緒に確認する。
「煮込みの匂いがした。あれも欲しい」
「今日は夕方に八杯です」
「器は昨日買った」
女性は肉、白根菜、塩を籠へ入れた。夕方には煮込みを買う。家で作る日と、すぐ食べる日を同じ店で選び始めている。
夕方、肉の煮込み八杯と焼き卵パン八個を並べた。
冷蔵棚では赤身、骨つき、端肉、脂身が料理の絵ごとに分かれている。隣には魚と白乳。離れた棚には器、布巾、石けん。
肉だけを増やした売場ではない。
客が今夜何を食べ、明日何を作るか選べる売場になった。
煮込みは八杯完売。卵パンは一個残った。
「肉に負けた」とネネ。
「明日は卵パンを七個へ戻します」と宗久。
「すぐ減らすの?」
「肉の日と同じ数にはしません」
売れた商品を増やし、残った商品を減らす。両方を記録する。
閉店後、久瀬が本社への報告書を読んだ。
「肉の売上二倍、とは書かないのか」
「一日だけです」
「相変わらず地味だな」
「続けば書けます」
閉店作業でガルドは棚の裏へ細い木柵をつけた。壁との隙間へ子どもの手が入らず、上から熱だけ逃がせる。
「銀貨が落ちたら取れない」とトト。
柵の下には取り外せる浅い受け板を差した。落とし物と埃を毎晩確認する。本社の図面にはない仕事が、棚一台からいくつも生まれた。
通路も、籠を持つ二人はすれ違えたが、杖をつく客には狭かった。棚の角を斜めにし、商品を一つ置けそうな三角の床をあえて空ける。
「空けた場所も売場なんですね」と雨宮。
夕方、その場所で杖の女性が一度止まり、煮込みの木椀を両手で受け取っていた。
惣菜窓では、匂いに寄ってきたクウをネネが鍋蓋で追い払った。八杯分の肉は煮る前に分け、最後の一杯だけ少なくならないようにした。残った汁は商品にせず、店員のまかないへ回す。
商品、通路、まかない。数えない部分を決めておかなければ、売れた八杯だけが成功に見えてしまう。
七杯目を渡したところで、鍋の底が見えた。
「八杯あるって書いてあるぞ」
最後尾の男が札を指す。ネネは柄杓を入れ、黙った。具を均等に分けたつもりでも、煮崩れた白根菜が底へ沈み、最後の一杯だけ肉が少ない。
「同じ値段では出せません」と雨宮。
「汁は同じだ」とネネ。
「同じに見えません」
調理台の内側で、二人の声が初めて強くぶつかった。客の前で続ければ、ネネだけの失敗に見える。宗久が口を挟む前に、男が言った。
「肉が少ないなら、パンをつけろ」
値下げではなく、客から代案が出た。だが勝手にパンを付ければ、パン職人との契約と原価が変わる。
宗久は最後の一杯を販売から外し、試食用の小椀に三つへ分けた。待っていた男と、その後ろで匂いを嗅いでいた子ども二人へ渡す。代金は取らない。
「八杯目は売れません。こちらの分け方の失敗です」
男は不満そうに受け取ったが、一口飲むと子どもの椀へ自分の肉を移した。
「次は最初に八つへ分けとけ」
ネネは返事をせず、空の鍋を洗った。閉店後、雨宮が謝りに行く。
「客の前で、ネネさんだけが間違えたように言いました」
「間違えたのは私」
「八杯と決めたのは店です」
次の仕込みでは、肉だけ先に八つの器へ分けた。ネネは雨宮の分まで木札を置き、八つ目に一番大きな肉を入れる。
「これは多すぎます」
「昨日の分」
二人の間に残った険しさが、そこでやっと消えた。
増設した冷蔵棚の札は、最後まで青だった。




