母の木椀
温かい汁を六杯へ増やした日のことだった。
五人目の客へ器を返す時、ベラの手から木椀が落ちた。
床に当たり、縁が割れる。
惣菜室の窓の前から、声が消えた。
「私のです」と客の女。
家から持ってきた器だった。店の商品ではない。
「すみません」とベラ。
「母からもらった物だよ」
同じ器を買って返せば済む話ではなかった。
「代金をお返しします」と宗久。
「汁の金?」
「器の分もです」
「値段なんて分からないよ」
思い出に値段はつけられない。だからといって、店が落とした物を客の損にすることもできない。
列の後ろから声が飛ぶ。
「早くしてくれ。冷める」
宗久は販売を止めた。
「残り一杯は温度を確認してから売ります」
女を会計台の脇へ案内し、割れた器を布に包む。
「直せる職人を探します。直せない場合も、勝手に捨てません」
「直して、また汁を入れられるの?」
「口に触れる物として使えるかは、職人へ確認します」
ガルドが割れ目を見た。
「つなぐだけならできる。熱い汁には使えない」
「じゃあ直しても意味がない」
「形は戻る」
女はしばらく考え、直してほしいと言った。食卓では使えなくても、母の器として残したい。
修理代は店が払う。代わりの蓋つき器も一個渡す。女は最初、受け取らなかった。
「二つもいらない」
「一つは壊した物の修理です。もう一つは、今日から使えなくなった分です」
「店が損するよ」
「店が落としました」
女は新品を受け取り、その器へ汁を移した。
ベラは会計台の後ろで、両手を握っていた。
「私の給金から引いてください」
「引きません」と宗久。
「私が落としました」
「店の決めた手順で、店の仕事中にです」
注意しなかったわけではない。窓台が狭く、客の器を持ち上げなければ注げない作りにしていた。
「何度も落とすなら別です」と雨宮。「今回は手順も直します」
「でも、店が損をする」
「店の失敗を店が払うための記録です」と宗久。
個人へ払わせれば、次に割った者は隠すかもしれない。破損の報告がなくなる方が危ない。
残り一杯は温度が下がっていた。販売せず、店員の食事へ回す。
「また売れ残った」とネネ。
「店の都合です」と宗久。
閉店後、受け渡し方をやり直した。
客の器を窓台へ直接置かせる。ベラは持ち上げず、台の上で蓋を外す。ネネが柄の長い杓子で注ぎ、客自身が蓋を閉める。
「店員が触らないなら早い」とロアン。
「注ぐ時に器が動きます」と雨宮。
台へ低い木枠をつけ、器が滑らないようにする。大きすぎる器は枠に入らないため、見本で幅を示した。
空の器で十回試す。
次に温かい水を入れ、手を濡らした状態でも試した。乾いた器では滑らなくても、湯気と水滴で指が滑る。
窓台の布を一枚増やす案は、毛羽が器につくためやめた。木枠の底へ細い溝を彫り、水滴がたまらないようにした。
「昨日作った物を、今日また削るのか」とガルド。
「昨日は壊れる前でした」
「店ってのは、完成しないな」
「客が使うたびに、分かることが増えます」
トトがわざと台へ肘をついた。
「動かない」
「わざとやらないでください」
「客はやるかもしれない」
子どもの高さでは窓台へ肘が届かなかった。大人がもたれないよう、足元へ待つ線を引く。
翌日、女が修理中の代わりに新品の器を持ってきた。
「今日は自分で置けばいいんだね」
「はい。蓋もご自身でお願いします」
新しい手順で注ぐ。一滴もこぼれなかった。
「母のより軽い」
「使いにくければ教えてください」
「軽い方が、帰りは楽だよ」
女は温かい器を抱え、生活用品棚で布巾を一枚買った。修理した器を包むためだという。
壊した物は戻らない。
それでも、謝るだけで終わらせず、次に同じことが起きない売場へ変えることはできた。
その日の汁物は六杯完売した。
会計記録には売上の横に、器一個と修理代が損失として残った。
ベラの名前は、責任者の欄ではなく、発見者の欄へ書いた。責任者には宗久が自分の名を書く。
宗久はその数字を消さなかった。




