火にかけられた魚缶
「缶ごと火へ掛ける?」
雨宮が聞き返した。
「蓋を少し開ければ平気だと言っていた」と久瀬。
「平気ではありません」
缶を直接熱すれば、持てないほど熱くなる。蓋を閉じたままなら中の圧力も上がる。日本では当たり前の注意でも、缶詰を初めて見る客には分からない。
「開け方の絵はあります」とリリア。
「開けたあとの絵がない」
魚缶の札には、輪を引いて開けるところまでしか描いていなかった。
「鍋へ移して温める絵を足します」と雨宮。
「鍋がない人は?」とユノ。
「冷たいまま食べられると伝える」
「冷たい魚を食べるの?」
ユノは嫌そうな顔をした。
ネネが魚缶を一つ開け、三通りに分けた。
宗久は危険を見せるため、空き缶に水を入れて屋外の実演台へ置いた。蓋は完全に外し、客から離れた場所を縄で囲う。
「危ないなら、やらない方がいい」と雨宮。
「閉じた缶は使いません。熱くなることだけ見せます」
弱い火でも缶はすぐ触れないほど熱くなった。木の棒で倒すと、熱い水が石の上へ広がる。
「家の床なら、子どもにかかります」とネネ。
見ていた客が一歩下がった。
「魚が爆発するのか」とロアン。
「魚ではなく、閉じた缶が危険です」
「爆発する魚の絵にしよう」とリリア。
「怖すぎます」
札には火の上の缶へ大きな罰印をつけた。隣に、別の鍋へ移す絵。そのまま食べる口の絵も加える。
そのまま。
鍋で温める。
葉野菜と一緒に煮る。
従業員で味を確かめると、好みが分かれた。
「そのままがいい」とリリア。
「温かい方」とガルド。
「葉野菜を入れた方が塩辛くない」とネネ。
「全部、正解です」と宗久。
一枚の料理札へ三つの食べ方を描く。下には必要な商品の価格もつけた。
魚缶だけ。
魚缶とパン。
魚缶、葉野菜、乾麺。
「値段が四つある」と最初の客が言った。
「魚缶の値段は一つです。ほかは料理に必要な合計です」
「この一番高いのが、魚の値段じゃないのか」
分かりやすくしたつもりが、値札を増やしすぎた。
「料理札から金額を外します」と雨宮。
「でも、買えるか分からない」と客。
「商品の下で、それぞれ確認してください」
「面倒だな」
宗久は札を見直した。
価格を全部書けば、どれが商品の値段か分からない。書かなければ、籠へ入れたあと予算を超える。
「合計ではなく、必要な銅貨の枚数を色で分けよう」とシャルナ。
魚缶の分は青。パンは茶。葉野菜は緑。乾麺は白。同じ色の丸を、各商品の値札にもつける。
「数字を読めない人も、同じ丸を集めればいい」とリリア。
四つの値段を一つに見せず、四つの商品だと分かる札になった。
ところが、次に来た客は色の丸をすべて同じだと言った。
灰色の肌をした石工だった。
「青も緑も、暗い灰色に見える」
「色が分からないんですか」とリリア。
「お前たちが細かく分けすぎるんだ」
石工の一族は、暗い坑道で形と明るさを見る目を持つ。その代わり、地上の色は人間ほど区別しないという。
「異種族には色分けが通じない」と久瀬。
「先に気づけませんでした」と雨宮。
「日本でも、色だけの表示は避ける」
丸の中に形を加えた。
魚缶は魚の尾。パンは麦。葉野菜は葉。乾麺は波線。
「これなら?」
石工は札を見て、魚の尾と波線を指した。
「魚と、長い麺だ」
「合っています」
「最初から形にしろ」
「そのとおりです」
リリアは色を消そうとした。
「消さなくていい」と石工。「色が見える客もいるんだろ」
色か形か、どちらか一つにそろえる必要はない。違う見え方の客が、どちらでも分かればよかった。
宗久は生活用品売場の札も確認した。食べ物ではないことを赤い罰印だけで示していた場所に、口へ入れない絵を残してある。以前の失敗が、ここでも役に立った。
次の客は、料理札を見て魚缶と葉野菜を取った。
「乾麺は?」とユノ。
「家に粉麺がある」
書いてある組み合わせを全部買う必要もない。客の家にある物まで、店には分からない。
「献立札は、買い物の命令じゃない」と久瀬。
「分かっています」
「牛島は、売場を完成させようとしすぎる」
「完成していないと困ります」
「客が最後を決める余地は残せ」
宗久は少し腹が立った。
「現場を一日見ただけで、分かったように言わないでください」
雨宮が宗久を見る。
久瀬は怒らなかった。
「そのとおりだ。だから見に来た」
「役員なら、数字だけでも判断できます」
「数字だけで撤退を決める役員もいる」
「久瀬さんは違う?」
「まだ決めていない」
店を承認した本人でも、継続を約束してはいなかった。
午後、鍋を持っていないと言った二人のうち、一人が戻ってきた。
「缶を火へ掛けるなって聞いた」
「そのまま食べられます。温めるなら別の器へ移してください」
「器なら木の椀がある」
「木の椀は火へ掛けないでください」
「じゃあ、どうやって温める」
鍋を買わせれば簡単だが、魚缶より高い。
ネネが湯を張った鍋へ、木の椀を浮かべた。
「こうすれば、ゆっくり温まる」
「鍋が必要じゃないか」
「家の人に借りる」
「一人暮らしだ」
「なら、そのまま食べる」
最後は元へ戻った。
男は笑い、魚缶とパンを買った。
「次は鍋を買う」
「無理に今日買わなくて大丈夫です」
生活用品は、一度の売上を増やすためだけに置く物ではない。必要になった時に、同じ店で選べることが大切だった。
その日の会計では、金属鍋は一個も売れなかった。
それでも、鍋売場へ立ち寄った客は七人。三人が値段を聞き、二人が大きさを比べ、一人が次の給金日に買うと言った。
「売上ゼロ」と久瀬。
「必要なし、ではありません」と宗久。
「数字には残らないぞ」
「聞かれた回数を残します」
売れた数だけを見れば、鍋は不要になる。だが、すぐ買えない商品ほど、客は何度も見てから決める。
「スーパーは、今日売れる物だけ置く店ではありません」
「売れなければ店は続かない」
「だから、いつまで待つかを決めます」
金属鍋は次の給金日まで数量を増やさない。一個も動かなければ、サイズか価格を見直す。
久瀬は鍋の記録欄へ、七本の線を引いた。
閉店後、久瀬が空になった魚缶の木箱を持ち上げた。
「この箱は日本へ戻すのか」
「帰りの便は、今まで空です」
「空のまま門を通している?」
「はい」
久瀬は初めて、明確に顔をしかめた。
「赤字の一番大きな理由は、商品じゃない。帰りが空だからだ」




