冷蔵箱の取締役
冷蔵箱から現れた男は、異世界出店を承認した取締役・久瀬と名乗った。
久瀬は霜のついた眼鏡を外した。
濃紺のスーツも革靴も白く凍っている。唇は青く、名刺を出そうとした指が動いていなかった。
「自己紹介より先に、箱から出てください」
宗久と雨宮が両腕をつかむ。
「歩ける」
「震えています」
「試作機だからな」
「人を運ぶ箱なんですか」
「冷蔵設備だ。ついでに私も運ばれた」
「ついでで人を入れないでください」
雨宮は毛布を持ってきた。リリアたちは、箱から出てきた日本人を遠巻きに見ている。
「偉い人?」とリリア。
「俺よりは、かなり」と宗久。
「店長を辞めさせられる?」
「できる」と久瀬。
「温めるの、やめる?」
「できるが、今は温めてくれ」
ネネが温かい白根のスープを差し出した。久瀬は一口飲み、ようやく肩の震えを止めた。
「これは店の商品か」
「まかないです。販売許可は取っていません」
「最初の質問がそれか」
「勝手に売っていると思われたくありませんから」
久瀬は宗久を見て、少し笑った。
箱は、人を運ぶための物ではなかった。日本で組み立てた冷蔵棚を、異世界へ動かした時の温度変化を確認する試作機だという。
「なぜ中に入ったんです?」と雨宮。
「次回審査へ出席しろと、こちらの組合から条件をつけられた。通常の門は荷物で埋まっていた」
「だから冷蔵箱に?」
「座席はつけた」
箱の中には、折り畳み椅子が一脚ある。霜で背もたれが見えなかった。
「安全ベルトは?」
「次につける」
「次はありません」
雨宮が言い切った。
久瀬は温まると、休まず売場を見たいと言った。
「今日はもう閉店しています」と宗久。
「客のいない店を見るために来たんじゃない。次の営業まで待つ」
「宿を取ります」
「店に寝る」
「役員を事務所の床に寝かせられません」
「開店準備から見たい」
久瀬は毛布を肩へ掛けたまま、売場へ歩いた。
リリアたち九人が、会計前に並んだ。
「挨拶はあとでいい」と久瀬。
「この人たちが店を動かしています」と宗久。「あとにはしません」
久瀬は足を止めた。
リリアは入口案内と絵札。ガルドは荷受けと安全確認。ネネは調理。ポルカは設備。ロアンは市場と仕入れ。追加採用のシャルナは会計、トトは品出し、ベラは接客、マノンは導線を担当する。
「全員、三十日契約か」と久瀬。
「はい」
「正式開店できなければ?」
九人の視線が宗久へ集まった。
「十日前までに、次の契約を話します」
「本社が撤退を決めても?」
「決まった日に初めて伝えることはしません」
久瀬は雨宮を見る。
「本社への報告に書いてあったな」
「現地では、次の仕事を探す時間が必要です」
「日本でも同じだ」
九人へ向き直り、自分の名前と立場を現地語で言おうとした。
「クゼ、トリ……シマリ……」
「鳥を閉まう人?」とリリア。
「偉い人でいい」とロアン。
「よくない」
久瀬は言い直したが、二度目も鳥をしまう人に聞こえた。
「本社で店を続けるか決める人です」と雨宮が訳す。
「最初からそう言えばいい」と久瀬。
「役職より伝わります」
現地の九人に笑われ、久瀬の肩から少しだけ役員らしさが抜けた。
青果、肉、鮮魚、パン、惣菜、加工食品、調味料、生活用品。三十二品の札を一つずつ確認する。
生活用品売場で、久瀬が日本のスポンジを手に取った。
「四個しか売れていない」
「一人、菓子と間違えてかじりました」とリリア。
「報告書にあった」
「知ってて触ったの?」
「食べない」
久瀬は隣の現地布巾を見る。日本の物より厚く、形もそろっていない。売上札はスポンジより多い。
「日本商品が負けているな」
「使う人が選んだ結果です」と宗久。
「本社は日本商品を送りたい」
「売れない物を送られても置きません」
「取締役の前で言うか」
「だから言います」
久瀬はスポンジを棚へ戻した。置く向きを間違え、リリアに直された。
「野菜ばかりではないな」
「一時期、そうなりかけました」
「牛島は青果出身だからな」
「魚だけの店にしないため、ほかも増やしています」
鮮魚台で、久瀬の足が止まった。
久瀬は箱の仕様書を出した。日本の電力だけでなく、現地の冷え石でも温度を補える試作だという。
「冷え石は、一年前の事件にも使われました」と雨宮。
「設備に使う物まで危険なのか」
「物ではなく、使い方と記録の問題です」
冷蔵設備へ使うなら、投入数、交換時刻、回収数を残さなければならない。久瀬は仕様書の余白へ三つの項目を書き足した。
「設備部は、濡らせば冷える石としか聞いていない」
「店では、それだけでは使えません」
「設備を送れば終わりだと思っていた」
「売場では、送られてから始まります」
箱はすぐ動かさず、設置場所、排水、停電時の商品移動まで決めてから試すことになった。
「冷蔵設備が入れば、何尾まで増やせる」
「動かしていない設備を前提には決めません」
「相変わらず慎重だ」
「会ったことがありましたか」
「赴任者を決めた会議で、経歴は見た」
「なぜ俺だったんです」
宗久が初めて聞くと、久瀬は鮮魚台から顔を上げた。
「十五年、商品を売ってきたからだ」
「それだけですか」
「研究員は商品を検査できる。外交官はこの町と交渉できる。だが、毎日客に金を払ってもらう場所は作れない」
「異世界で物を売りたかった理由は?」
「売るだけではない」
久瀬は奥売場の大箱へ手を置いた。
「門を維持し、新しい市場を調べ、現地の仕入れ先を作る。それから、日本で売れる物を探す」
「研究施設でできるのでは?」
「施設へ来るのは、用事のある者だけだ。店には、買う物を決めていない人も来る」
小芋を買いに来て鍋を買う。魚缶を見に来て現地の魚を買う。何も買わず、使い方だけ聞いて帰る者もいる。
「客が何を選び、何を選ばないか。それは、研究室では見えない」
「この町を実験台にするんですか」と雨宮。
「そうならないよう、店として金を払い、失敗した商品は店が負担する。私はそのつもりで承認した」
「本社全員が同じ考えですか」
久瀬は答えなかった。
翌朝、開店準備が始まる。
久瀬は本当に事務所の椅子で夜を明かしていた。高級そうな上着を畳み、魚缶の箱を机代わりにしている。
「取締役がいると働きにくい」とロアン。
「日本でも同じです」と宗久。
「聞こえているぞ」と久瀬。
開店後、久瀬は売場中央に立った。
客へ声をかけず、宗久たちにも質問しない。ただ、籠の中身と棚を見ている。
昼前、魚缶八缶が売り切れた。
「売れました」とリリア。
「一缶売るたび、いくら残る?」
久瀬が初めて口を開いた。
雨宮が輸送費を含めた原価を見せる。
久瀬の表情が変わった。
「この商品、売れるほど赤字が増えているぞ」
完売を喜んでいた売場から、笑顔が消えた。
次に直す数字が、目の前に残った。




