使っていない家の修理代を払うのか
「住んでいない家の修理代ですか」
組合会館の長机に、三冊の帳面が並んでいた。
西果樹農会の貸付帳。
畑ごとの給金帳。
住居と農具の管理帳。
ユハンの借金は、最初に大銀貨十二枚。給金から七枚分を返している。残りは五枚のはずだった。
だが、貸付帳には八枚と書かれている。
「差の三枚は、住居の壁と屋根を直した費用です」
農会の会計係ラウドが答えた。
「ユハンさんは、その家を使っていたんですか」と雨宮。
「割り当てられていました」
「住んでいたかを聞いています」
ラウドは帳面を閉じようとした。バルガスが手で押さえる。
「答えろ」
「一年目の途中から、セラの家へ移ったようです」
「空き家だったんですね」
「使わなくても、農会が貸した住居です。壊れれば直します」
ユハンが椅子を蹴って立った。
「頼んでない!」
「お前が戻る場所だ」
「戻らないって言った」
「口で言っただけだ。契約は残っている」
声が重なり、話が進まない。
宗久は机にある契約書を開いた。
「通常の修繕は、誰が負担すると書いてありますか」
雨宮が該当部分を指す。
「農会です。借りた人の故意で壊した場合だけ、本人へ請求できます」
「壁と屋根をユハンさんが壊した証拠は?」
「ありません」とラウド。
「本人へ金額を伝えた記録は?」
「ありません」
「大銀貨三枚を加えた理由は?」
「会計係として必要だと判断しました」
大銀貨一枚は銅貨百二十枚。三枚なら銅貨三百六十枚。紫根を何度売れば返せるか分からない額を、本人の知らないところで足していた。
「店長。どう思う」
バルガスが宗久へ聞いた。
「店の帳面なら認めません」
「農会の帳面だ」
「だから、決めるのは組合です」
ユハンが宗久をにらむ。
「逃げるのか」
「一号店が決めたら、一号店へ売る人の借金だけ調べることになります」
「俺は困ってる」
「分かっています。それでも、店が裁くことではありません」
できるのは、一号店が払う金を曖昧にしないことだけだった。
バルガスは農会の契約と三冊の帳面を組合の記録係へ渡した。古い記録まで照らし合わせる。
しばらくして、扉が開いた。
白髪の男が緑色の上着で入ってくる。胸には、銀糸の果実が三つ刺繍されていた。
「西果樹農会長のダリオです」
男は宗久へ頭を下げ、ラウドを見た。
「私の許可を取ったか」
「この程度の修繕で、会長を煩わせる必要はないと判断しました」
「借金を三枚増やすことが、この程度か」
声は大きくない。
ラウドは初めて、帳面から手を離した。
記録係が顔を上げる。
「修繕費をユハンへ負担させる根拠はありません」
「では、どうなる」とユハン。
「契約にない大銀貨三枚は無効。残額は大銀貨五枚です」
古い数字を消さず、一本の線を引く。その横へ五枚と書き、組合、農会、本人の印を押す。
ユハンにも控えが渡された。
「読めない」
「読み上げます」
雨宮が元金、返済済み額、残額を一つずつ説明する。ユハンは自分の指で、五つの丸をなぞった。
「今度は分かる」
「次の返済ごとに、一つずつ減らします」
問題は、紫根の初回代金だった。
「一号店が代金を分けて渡すことに、農会は反対ですか」と宗久。
ダリオは三枚式の記録を見た。
「本来は農会がまとめて受け取る。種も農具も先に渡しているからです」
「その仕組みが必要なのは分かります」
「店は完成した作物だけ選べる。農会は芽が出る前から金を出す。病気で全滅すれば、貸した金が戻らないこともある」
ラウドの処理が間違っていても、農会そのものが不要になるわけではない。ユハンも、農会の金と道具がなければ紫根を作れなかった。
「だから借金は返します。ただ、本人が残額と返済額を知る記録を作ります」
「一号店が農会の決まりを変えるのですか」
「うちが支払う代金の決まりです」
ダリオはしばらく黙り、三枚を重ねて窓へかざした。
「同じ内容だな」
「一枚だけ書き換えられないようにします」
「紙を増やせば間違いも増える」
「本人が持たなければ、間違いに気づけません」
ダリオはユハンへ向き直った。
「お前は毎回、この紙を保管できるか」
「叔母さんに預ける」
「自分でも内容を覚えろ」
「五つの丸が減るくらい分かる」
「なら、やってみろ」
反対ではなく、条件付きの承認だった。
仕入れは二十束。二束で銅貨三枚。合計は銅貨三十枚。
畑代としてセラへ二割の六枚。
残り二十四枚はユハンの取り分になる。
「全部、借金へ返す」とユハン。
「明日の食事はどうする」とセラ。
「次も売れば入る」
「次が売れなかったら?」
ユハンが黙った。
ダリオは腕を組み、口を挟まない。決めるのはユハンだと認めているようだった。
「半分返す」とユハン。「十二枚を農会。十二枚を俺」
雨宮は三枚の支払記録へ書いた。
セラ、銅貨六枚。
ユハン、銅貨十二枚。
農会への返済、銅貨十二枚。
ユハン、セラ、ダリオが内容を言い直してから印を押す。一枚は本人、一枚は農会、一枚は店が持つ。
「これで売れるのか」とユハン。
「組合の商品許可が必要です」と宗久。
「まだあるのか」
「安全確認と支払先が決まったので、最後の一つです」
バルガスが申請書を読んだ。
紫根。生食不可。水を替えて二度茹でる。掘って三日以内。初回二十束。調理実演用二本。
「許可する。ただし、売場で生の切り口を作るな」
「分かりました」
「試食は、二度茹でた物だけだ」
「はい」
「売り切れても、勝手に追加するな」
「……はい」
「今、間があったぞ」
一号店へ戻り、紫根の売場を作る。
透明板の向こうに生の見本。隣には、一度目の濃い紫色の湯と、二度目の薄い湯を描いた絵札。鍋の札は裏返して、何回茹でたか分かるようにした。
翌朝、二十束の紫根が並んだ。
売場には、紫根だけを買いに来た客と、紫色の湯気を見に来た客が集まった。
「舌が腫れる物を売るのか」と、一人の男が声を上げる。
「生では売らない方がいい」と別の客。
「生のまま持ち帰らないと、家で料理できないだろ」とネネ。
危険を隠せば売りやすい。だが、絵札を小さくすれば、家で生のまま口へ入れる人が出る。
宗久は透明板の向こうに、生の紫根を一本置いた。横には、二度茹でた物を並べる。同じ根でも色と形が少し変わっている。
「左は食べない。右は食べられます」とリリア。
「売るのは左だろ」
「家で右にするんです」
説明を聞いた男は、しばらく二つを見比べたあと、一束を籠へ入れた。
「間違えたら返品できるか」
「調理する前なら受けます。分からなくなったら食べずに持ってきてください」
安全表示は、客を遠ざけるためではない。迷った時に戻れる場所を作るためだった。
ネネが一度目の湯を捨てると、紫色の湯気が高く上がる。子どもたちが歓声を上げ、母親たちは一歩下がった。
「二度目!」
リリアの声に合わせ、鍋の札を裏返す。
二度茹でた紫根を口にした客が、目を丸くした。
「白根より、もちっとしてる」
隣に置いた獣脂も動いた。さらに、紫根を煮る鍋を持っていない客が、生活用品売場の金属鍋を見に行く。
「野菜一つで、鍋まで売れます」とシャルナ。
「鍋を売るために、紫根を難しく説明したわけではありません」と雨宮。
「分かってます。顔が少し喜んでいただけです」
宗久は以前、雨宮に同じことを言われたのを思い出した。
「誰の顔ですか」
「店長と副店長、二人ともです」
雨宮が売上表で口元を隠した。
昼前に二十束が売れた。
リリアは拍手の代わりに、次の入荷日を描いた札を出す。
閉店後、銅貨三十枚を三つに分けた。紙に書いたとおり、セラ、ユハン、農会へ渡す。
ダリオは農会分の十二枚を自分で数え、ラウドへ渡さなかった。
「次の帳面には、私が立ち会う」
ユハンの借金は、大銀貨四枚と銅貨百八枚になった。
「まだ、そんなにあるのか」
「一度で返す借金ではなかったはずです」とダリオ。
「早く抜けたい」
「抜けたあと、種と道具を買う金も残せ」
農会にも、作物ができる前に農家を支える役目がある。ただ、支えるための帳面が本人に見えなければ、縛る紙になる。
ダリオが帰ろうとした時、ユハンが呼び止めた。
「会長。オルナさんの青灯果が売られた時も、帳面を見たか」
ダリオの足が止まった。
「何の話だ」
「俺は、農会の会計係に嘘をつけと言われた」
ユハンが見ていたのは、ダリオではない。
その後ろで顔を伏せた、ラウドだった。




