紫根の代金は誰に払うのか
「今度は、どこへ逃げるの」
オルナの声で、ユハンの足が止まった。
西の果樹園には、薄青い実がいくつも残っている。以前、一号店で安全確認をした青灯果だった。
ユハンは地面へ顔を向けた。
「店へ売るつもりじゃなかった」
「紫根を置いてきたのは、お前だろ」とロアン。
「見せただけだ」
「契約書まで?」
「農会に、あの店へ持っていけと言われた」
宗久たちも追いついた。オルナは果樹ばさみを閉じ、ユハンの前へ立つ。
「私の畑からいなくなった時も、何も言わなかったね」
「去年のことは関係ない」
「あるよ。逃げた理由を、また他人に考えさせてる」
ユハンは唇をかんだ。
「青灯果の事件のあと、ここにいたら俺まで疑われると思った」
「だから逃げた?」
「農会から、別の畑へ移れと言われた」
「今朝は誰に言われた」
「誰にも」
ようやく、自分で決めて逃げたと認めた。
宗久は紫根の話へ戻した。
「誰が育てましたか」
「俺だ。畑は叔母さん。種と農具は農会から借りた」
「売った代金は誰が受け取る契約です?」
「農会が全部。そこから借金を引く」
「残っている借金は?」
「大銀貨五枚くらい」
セラが追いつき、契約書を振った。
「紙には八枚と書いてあるよ」
ユハンの顔色が変わった。
「そんなはずない。七枚は返した」
借りた大銀貨十二枚から七枚を返せば、残りは五枚。帳面には三枚多い。
「農会へ確認を求めたか」と宗久。
「三回行った。会計係がいない、帳面が別の村にある、忙しいって追い返された」
「それで、一号店へ直接売ろうとした?」
「農会より高く買うって聞いた」
「でも代金受取人は農会になっています」
「あの紙は、農会に渡されたんだ。置いてくれば話は通るって」
話は何も通っていなかった。
「農会の値段はいくらですか」と雨宮。
「一束、銅貨一枚」
「希望はいくら?」
「三枚」
「一号店で三枚で売りたい、ではなく、三枚で買ってほしい?」
「違うのか」
ユハンは、仕入れ値と販売価格を同じだと思っていた。店が取る分、傷んだ時の損、調理実演の費用を説明すると、顔が険しくなる。
「農会より高く買うと言っただろ」
「言っていません。品物を見て、続けられる値段を相談すると言いました」
「同じじゃないか」
「違います」
セラがユハンの後頭部を軽く叩いた。
「都合のいいところだけ聞くんじゃないよ」
「叔母さんは二割もらうからいいだろ」
「畑はただじゃない。水も肥料も私が出した」
生産者だけを見れば、畑の持ち主が損をする。畑だけを見れば、育てた人へ金が残らない。農会の貸付を無視すれば、次の種と農具を借りられなくなる。
一つの紫根に、三人の生活がつながっていた。
店がユハンへ払えば、農会との契約に反する可能性がある。農会へ全額払えば、セラの畑代もユハンの取り分も見えなくなる。
「今日は買えません」と宗久。
「また、それか」
「誰にいくら払うか決まっていない商品は買えない」
「決まるまでに傷む。紫根は掘って三日だ」
セラが畑へ戻り、一本だけ掘った。土を払うと、紫の皮に白い筋が走っている。
「今掘った分は、うちで食べる。売る分は掘らなきゃ待つ」
「明日の飯は待たない」とユハン。
宗久は財布から金を出しかけ、手を止めた。
個人として貸せば早い。だが、店長が仕入れ希望者へ金を貸せば、断りにくい契約になる。
「前払いはできません。ただ、検査用の六本は店が買い取ります」
「商品じゃないのに?」とユハン。
「検査に使う分として。代金は、支払先が決まるまで組合に預けます」
誰か一人へ渡さず、消えない記録だけ先に作る。
組合の預かり台には、紫根六本と銅貨九枚が並んだ。根にはセラ、ユハン、農会の三つの札。金には、支払先未定の赤札をつける。
「盗まれたらどうする」とユハン。
「組合が補償する」とバルガス。
「店が持って逃げたら?」
「門を通る前に捕まえる」
「農会が持っていったら?」
「だから私が預かると言っている」
バルガスの額に青筋が浮いた。
「全員を疑うんですね」とリリア。
「疑わなくて済むように、誰が持っているか決めるんだ」と宗久。
預かり証は四枚になった。ユハン、セラ、農会、一号店。同じ六本と銅貨九枚が描かれている。
「紙が増えた」とロアン。
「持ち主の候補も増えましたから」と雨宮。
ユハンは自分の紙を丸めようとした。セラが取り上げ、折らずに袋へしまう。
「あんたは、なくすから私が持つ」
「俺の控えだ」
「なら、自分で袋を用意しな」
逃げずに言い返しただけ、先ほどよりはよかった。
その日の夕方、組合の調理場で紫根を確認した。
ネネが皮を厚くむき、水を替えて二度茹でる。一度目の湯は濃い紫色。二度目は薄い桃色になった。
湯を捨てる場所も問題になった。
「裏の排水溝へ流す」とネネ。
「色が残ります」と雨宮。
濃い紫の湯を少量、石の溝へ垂らす。触れた苔が縮み、黒くなった。
「これを毎回流したら?」とリリア。
「排水溝の苔が全部なくなる」とロアン。
組合の調理場では、灰を入れて刺激を弱めてから土へ返しているという。店でも専用の蓋付き桶を置き、ネネが処理した印をつけることになった。
「二度茹でる札だけでは足りませんね」と宗久。
「客の家では、湯をどこへ捨てるかも必要です」
リリアは鍋の絵の横に、灰を一つまみ入れ、飲み水の井戸から離れた土へ流す絵を足した。
「商品を売るのに、捨てる湯まで考えるのか」とユハン。
「家へ持ち帰ったあとまでが、商品の使い方です」
「面倒だな」
「よく言われます」
宗久より先に、雨宮が答えた。
「一度しか茹でなかったら?」とバルガス。
ネネは生の切れ端を舌へ近づけるふりをした。リリアが慌てて手を押さえる。
「本当にやらないで」
「やらない。舌が腫れる」
生食不可。水を替えて二度茹でる。掘って三日以内。切り口から白い汁が出ている物は手袋を使う。
条件は決まった。
味は白根より濃く、もちっとしている。獣脂と合わせると腹持ちがよい。商品として売れる可能性はあった。
「安全確認は通す」とバルガス。「ただし、仕入れ先と支払先が決まるまで販売は認めない」
「分かっています」
「分かっていない顔をしている」
「売場を考えていただけです」
「それを分かっていないと言う」
翌朝、一号店の事務所にセラとユハンが来た。
雨宮は新しい仕入れ記録を三枚用意する。
生産者。
畑の所有者。
代金を受け取る者。
借金返済へ回す場合は、その金額と本人の確認印。
「紙が三枚もいるのか」とユハン。
「作った人、受け取った人、店が同じ記録を持ちます」
「農会が全部取ると言ったら?」
「あなたが納得しなければ仕入れません」
「仕入れなければ、俺には一枚も入らない」
「だから、残りの借金を先に確かめます」
昼前、バルガスから連絡が届いた。
西果樹農会の貸付帳が見つかった。
ユハンの借金は、本人の記憶どおり大銀貨五枚ではない。
農会の帳面には、大銀貨八枚と書かれていた。




