紫色の根はまだ売れない
「これ、誰が置いた?」
宗久が尋ねると、トトが裏口を指した。
「若い男です。名前を聞いたら、契約書を置いて走りました」
「また逃げたの?」とリリア。
「今度は荷車じゃなく、商品を残して」と雨宮。
机の上には紫色の根が六本ある。細長く、切れた先から白い汁がにじんでいた。
契約書の生産者欄には、セラ。
代金受取人の欄には、西果樹農会。
余白に、ユハンという名前が小さく書かれている。
「三人いる」とユノ。
「作った人、持ってきた人、金を受け取る人が違う」
宗久は紫根に販売禁止の札を置いた。
「まず、持ってきた人を捜します」
「逃げた人ばかり追ってるね」とリリア。
「追わなくて済む受付にしたいんだけどな」
裏口の受付には、名前、畑、品物を絵で示す板を用意している。それでも、契約に不安がある者は逃げる。エダンの件で、紙を読めない人への説明が足りないと分かったばかりだった。
車輪跡はなく、足跡だけが西へ続いている。
ロアンが紫根を見る。
「この辺じゃ珍しくない。煮て食う」
「生でも?」とリリア。
「やめろ」
伸ばした手をネネが叩いた。
「生だと舌が腫れる。水を替えて二度茹でる」
「知っている商品なら売れる?」
「店として確認していない」と宗久。
現地で食べられていることと、一号店が商品として売れることは別だった。
根を透明な容器へ入れ、触れないよう蓋をする。切り口の汁が皮膚につく可能性もある。ネネに調理方法を聞き、リリアが二つの鍋を描いた。
「もう売場の札を作るの?」
「検査用です。売場用ではありません」と雨宮。
ネネは紫根を一本、容器越しに眺めた。
「古くない。でも、掘ったのは昨日」
「見て分かる?」
「切り口が乾いてる。今日ならもっと白い」
紫根は掘ってから日がたつと、皮に黒い点が出るという。三日を過ぎた物は、二度茹でても舌に刺激が残る。
「持ってきた日だけじゃなく、掘った日が必要ですね」と雨宮。
申込書に収穫日を加える。時刻まで分からなければ、朝、昼、夕方の絵で選べるようにする。
「見ただけで昨日なら、書かなくてもいいんじゃない?」とリリア。
「ネネが休みの日は誰が見ます?」
「私が見る」
「昨日と一昨日を見分けられますか」
リリアは容器へ顔を近づけたあと、首を振った。
「書く」
「その方がいいです」
ネネだけが分かる売場にはしない。小芋の熱、魚缶の開け方、紫根の収穫日。商品が増えるほど、知っている一人に任せる方法は使えなくなる。
その日の営業は始まった。
薄切り芋十二包みは昼前に完売。小芋は穴の開いた浅籠に変えたことで、熱を持つ物はなかった。返品もゼロ。
紫根は事務所に置いたままなのに、噂を聞いた客が尋ねてくる。
「紫の根が入ったんだろ」
「今日は売れません」
「いつ売る?」
「作った人と話して、安全と支払先を確認して、組合の許可が出てからです」
「先が長いな」
「そうなります」
客は白根を一つ買って帰った。
別の客は、紫根が買えないと聞いて薄切り芋を取った。
「紫根とは全然違います」とユノ。
「分かってる。酒のつまみが欲しいだけだ」
欲しかった商品がなくても、目的が分かれば別の商品を案内できる。ただし、似ているからではなく、何に使うかを聞く必要があった。
昼には、肉白根パンが残り三個、布巾が残り一枚、魚缶の販売日を尋ねる客が六人。紫根がなくても、店はほかの商品を売り続けている。
「事務所ばかり見てたら、売場が止まりますね」と雨宮。
「交代で畑へ行きましょう」
「私も行きます」
「今日は?」
「遅番です。閉店後の二時間まで入っています」
「先に確認したんですね」
「休憩の次は休日、その次は勤務時間ですから」
最近、その言葉を言う時だけ雨宮は少し楽しそうだった。
「待ってくれないかもしれません」とユノ。
「待たせる時間は短くする。でも、順番は飛ばさない」
閉店後、宗久、雨宮、ロアンは契約書にある畑へ向かった。
西の果樹園の隣。低い石垣に囲まれた畑には、紫色の葉が並んでいる。
小屋の扉は開いたままだった。
「誰か、いますか」
返事はない。
土間には泥のついた靴が一足。壁には乾燥させた紫根が束ねてある。机の上には、西果樹農会の緑色の外套が置かれていた。
その下に、もう一枚の契約書が見える。
「入るぞ」とロアン。
「待て。組合か近所の人を呼ぶ」
「中で倒れてたら?」
「声をかけながら、見える場所だけ確認する。物には触らない」
三人が戸口から中をのぞいた時、背後で籠が落ちた。
腰の曲がった女性が、紫根を拾い集めている。
「人の家で何をしてる」
「セラさんですか」
「そうだよ」
セラは宗久たちを押しのけ、小屋へ入った。緑の外套をつかみ、椅子へ投げる。
「また置いていったのか」
「ユハンさんは、ここに?」
「昨日まではいた。今朝、町履きを持って消えた」
セラは泥靴を見た。
「逃げる時は、畑の靴を置いていく」
「なぜ逃げたか、分かりますか」
「借金だよ」
西果樹農会はユハンへ、住む場所と農具、種代として大銀貨十二枚を貸している。返済が終わるまで、育てた作物は農会が決めた値段で買い取る契約だった。
「この畑は誰のものですか」と雨宮。
「私だよ」
「紫根を育てたのは?」
「ユハン。私は畑を貸した。収穫の二割をもらう約束だ」
「契約書の生産者は、セラさんになっています」
セラが紙を奪うように取った。
「私は字が読めない。農会の男が、畑の持ち主を書くだけだと言った」
また、書かれた内容と聞かされた内容が違う。
雨宮は古い契約書と、店へ持ち込まれた契約書を並べた。紙の色も筆跡も同じだが、印の位置だけが違う。
「こちらは誰が持っていました?」
「農会の会計係だよ。昨日、ユハンに渡していた」
「名前は?」
「ラウド」
ロアンが顔をしかめる。
「帳面を一人で持ち歩く男だ」
「知ってるのか」
「親父の組合にも来る。数字を聞くと、会長にしか見せないと言う」
仕入れ契約の問題だけではないかもしれない。だが、本人がいないまま疑うこともできない。
宗久は紙を机へ戻した。
「この契約書では仕入れません」
「紫根は買わないのか」
「新しく、全員が分かる物を作ります」
「その全員に、ユハンも入るのかい」
「育てた人ですから」
セラは椅子へ置いた外套を見た。
「あの子は、戻らないよ」
外で枝を踏む音がした。
窓の向こうを、若い男が走り抜ける。
「ユハン!」
ロアンが追う。
ユハンは紫根の畝を飛び越え、西の果樹園へ逃げ込んだ。
その先に、果樹ばさみを持ったオルナが立っていた。
逃げ道は、青い実の木とオルナで塞がれている。
ユハンは宗久たちを振り返った。
それでも逃げる方向を探していた。
今度こそ、置いていった理由を本人から聞く必要があった。
全員が足を止めた。




