仕入れ希望者が店から逃げた
「あの人、逃げました!」
ユノの声が、開店前の店に響いた。
裏口には、小さな芋を積んだ荷車だけが残されている。荷車を引いてきた男は、通りの角を曲がるところだった。
「待ってください!」
宗久が追う。
男は振り返り、さらに速く走った。泥のついた長靴で石畳を蹴り、通行人の間を抜けていく。
「逃げたなら怪しい」とロアン。
「追う理由は、話を聞くためだ」
宗久は走りながら答えた。
市場の入口で、男は積み上げた木箱につまずいた。転びかけたところを、魚屋の主人に腕をつかまれる。
「朝から何の騒ぎだ」
「離してくれ。店には近づかない」
男は痩せた腕を振った。年は三十前後。上着の肘に、何度も縫い直した跡がある。
宗久は息を整え、両手を見せた。
「捕まえに来たんじゃありません。芋を置いていった理由を聞きたいだけです」
「金はいらない」
「それなら、なおさら受け取れません」
男の顔がこわばった。
一号店では、無償の商品を仕入れない。誰が育てたか分からない物も、許可を取らずに売らない。宗久がそう説明すると、男は魚屋の手を振りほどくのをやめた。
「名前は?」
「エダン」
「荷車の芋は、エダンさんが育てた物ですか」
「違う。母親と妹も育てた」
その答えで、宗久は少し安心した。
盗品なら、自分一人の物だと言い切ることが多い。
「なぜ逃げたんです?」
エダンは一号店の方を見た。
「契約書を書けと言われたからだ」
「それだけ?」
「字が書けない」
市場の入口に、少しだけ沈黙が落ちた。
追いついたユノが、胸を押さえながら口を開く。
「名前は代わりに書けます。印でも――」
「前に印を押して、畑を取られた」
エダンは右手を握り込んだ。
三年前、種芋を借りる契約に印を押した。返せなければ収穫の半分を渡すと聞いていたが、紙には畑の使用権まで書かれていた。文字を読めないエダンには確かめようがなかった。
「だから紙を出す店から逃げたんですね」と宗久。
「紙は、あとから言ったことを変える」
「変えるのは紙じゃなく、人です」
「同じだ」
宗久は否定できなかった。
一号店でも書き換えられた契約書が見つかった。誤って捨てた申請書は、店を壊す道具にされた。紙があれば安全とは言えない。
「今日、契約はしません」
「芋はいらないのか」
「売るかどうか決める前に、畑と保管場所を見ます。そのあと、契約の内容をあなたの家族にも読み上げます」
「読めないのに?」
「読める人が声に出す。絵でも残す。分からないまま印を押させません」
エダンは疑うように宗久を見た。
「店は、そこまでして芋が欲しいのか」
「欲しいかどうかを、これから調べます」
「買うと言わないのか」
「まだ食べてもいませんから」
ロアンが荷車から芋を一つ持ってきた。先に仕入れを断念した黄色い芋とは、別の品種だ。親指ほどの大きさで、表面は薄茶色。ところどころ緑がかっている。
「食べれば分かる」とかじろうとする。
「生で食べない」
宗久と雨宮の声が重なった。
雨宮は歩いて追いついていた。手には仕入れ申込書ではなく、白紙の板を持っている。
「契約書を見て逃げたと聞きました」
「もう聞いたのか」
「店の前から市場まで、大声で話していましたから」
雨宮は板に、畑、荷車、店を簡単な絵で描いた。
「まず畑を見る。次に商品を検査する。値段と数量を相談する。最後に契約する。今日はここまでです」
畑の絵を指で示す。
「ここまでは、印もお金も要りません」
エダンは長い間、板を見ていた。
「畑を見て、買わないこともあるのか」
「あります」と雨宮。
「正直だな」
「そこで嘘をつく方が、あとで困ります」
ようやくエダンの肩から力が抜けた。
店へ戻り、荷車の芋を数える。大小合わせて百三十七個。傷んだ物が十一個、緑色の物が九個あった。
「小さいから捨てられる芋です」とエダン。「市場じゃ、料理屋が大きいのしか買わない」
「小さいことより、緑色が気になります」と雨宮。
日本のじゃがいもと同じなら、芽や緑化部分には毒性がある。ただし、見た目が似ているだけで同じ作物とは限らない。
リリアが水を張った桶へ一つ落とした。芋は底へ沈み、皮の隙間から小さな泡が上がる。
「水が温かくなってる」
触れたユノが驚く。
異世界の小芋は、土から出したあともしばらく熱を持つらしい。保管箱の中で重ねれば、中心部がさらに温まる可能性がある。
「冷蔵箱に入れますか」とユノ。
「全部は入れない」と宗久。「まず十個ずつ、常温、冷暗所、冷蔵で分ける」
「売らないのに場所を使うの?」
「売る前だから使うんだ」
食べ方も保存方法も分からない。エダンの家では煮て食べているというが、一号店の商品にするなら店の責任になる。
宗久は荷車の札に、大きく『預かり品・販売禁止』と書いた。字の下には、口へ運ぶ手に斜線を引いた絵を添える。
「これは読める」とエダン。
「絵なら?」
「食うな、だろ」
「正解です」
残りはエダンが持ち帰ることになった。検査用の三十個には、預かり証を二枚作る。一枚は店、一枚はエダンへ渡す。
雨宮は芋三十個の絵を描き、その横に銅貨の絵を描かなかった。
「まだ売買ではない、という意味です」
エダンは説明を二度聞き、自分の言葉で言い直してから印を押した。
「この紙をなくしたら?」
「店に同じ物が残ります。ただし、店の紙だけで内容を変えることはできません。変更する時は、二枚を並べて確認します」
「店の紙が燃えたら?」
「あなたの紙が残ります」
「両方燃えたら?」
「その時は、立ち会った人にも確認します」
エダンはユノとロアンを見た。
「二人とも覚えてるのか」
「芋三十個。金のやり取りなし。店で検査するだけ」とユノ。
「売ったことにはならない」とロアン。
紙だけに頼らず、同じ内容を複数の人が知る。エダンがようやく預かり証を懐へしまった。
「前の商人は、持って帰った紙が違ってた」
「その場で二枚を重ねます」と雨宮。
窓へかざすと、絵も線もぴたりと重なった。
「面倒だな」
「大事なところなので」
「面倒なのは嫌いじゃない。怖いのが嫌なんだ」
その言葉を、雨宮は申込書の余白へ書き残した。
「明日の昼、畑へ来てくれ」
「明日は営業日です」
「なら、その次の日」
三十日間の許可は、週三日まで。営業しない日は休みではなく、仕入れ先の確認や売場準備に使う。それでも全員が出勤すれば、また休めない店に戻る。
宗久は勤務表を見た。
「畑へ行くのは、俺とユノ。雨宮さんは休みです」
「私が契約担当ですが」
「契約はしない日です」
「……覚えていましたか」
「休憩の次は休日です」
雨宮は何か言い返そうとして、やめた。
エダンが荷車を引いて帰っていく。今度は走らなかった。
その背中を見送った直後、通信機が鳴った。
本社から、役員の到着日が届いた。
到着予定は二十九日後。組合へ三十日間の結果を報告する前日だった。




