塗り潰された穀物商の名前
「塗り潰されているのは、穀物商セドルの名だ」
ロアンが、石に結ばれていた紙を読んだ。
十二人の商人名のうち、セドルの部分だけが赤いインクで見えなくなっている。最初の出店審査では、ヴァルドの二つ隣に座っていた男だった。
「革の耳を注文したのも、その人ですか」
宗久が尋ねると、ユノの叔父は首を振った。
「違う」
「違う?」
「俺が見たのは、セドルじゃない。背の低い女だ。組合の会議で、壁際に立って記録を書いていた」
商人ではなく、組合の書記。
「名前は?」
「知らない。革の耳を受け取りに来たとき、セドルの商人章を見せた」
紙ではセドルの名を塗り潰し、革職人にはセドルの章を見せる。犯人はセドルを隠したいのか、疑わせたいのか。
「この石、どこから投げられた?」
ガルドが外へ出た。窓の前には割れた素焼きの水差しが散っている。石は水差しへ当たり、その音で宗久たちを窓へ呼んだ。
通りには人影がない。
「屋根からだな」
ガルドが向かいの建物を見上げた。屋根の縁に新しい擦り傷がある。裏手へ回ると、雨樋代わりの鎖が揺れていた。
「追いません」と雨宮。
「まだ何も言ってません」
「荷車の綱を切られた時と同じ顔をしています」
今度は警備隊へ先に知らせた。
紙、紐、石、水差しの破片。誰がどこで触れたかを記録し、勝手に洗わない。契約書改ざんで覚えたことが、少しずつ店の手順になっている。
雨宮は店員を一人ずつ呼び、紙が投げ込まれる直前にいた場所を確認した。
宗久と雨宮は会計台。ロアンは偽物の包装を整理。リリアとユノは空き缶。ネネは冷蔵箱。ガルドとポルカは裏庭で荷車を見ていた。
「疑ってるの?」とリリア。
「誰が外から見えたかを確認しています」
「全員、店の中だよ」
「だから、犯人は窓から店内を見て、話がセドルさんへ移った時に紙を投げた可能性があります」
紙が飛び込んだのは、叔父ハルムが「組合の会議にいた」と話した直後だった。偶然とは考えにくい。
「話を聞かれてた?」
窓は換気のため半分開いていた。外からは棚が死角になるが、窓の真下なら声は聞こえる。
「これから、事件の話は奥でする」と宗久。「営業中に必要な注意は売場で共有する。ただし、人の名前や証拠は客の前で話さない」
「隠すのか」とロアン。
「情報を分ける。偽物の危険は隠さない。捜査中の名前は広げない」
すべて公開すれば正直というわけではない。無実の者の名前まで広がれば、店が新しい噂を作る。
警備隊の許可を得て、赤く塗られた部分を魔力灯へ透かした。
インクの下に、セドルの名が見える。塗り潰しに使われた赤は、ヴァルドの指輪より明るく、火蜜の実の汁に似ていた。
「果汁じゃない」とネネ。「乾くと茶色になる」
ヴァルドが粉を指先でこすった。
「鉱石顔料だ。帳簿の重要箇所へ印をつける物だ」
「どこで買えます?」
「組合の書記へ支給される。一般には高すぎて使わん」
組合書記の関与が、革職人の証言だけではなくなった。
審査日の記録を調べると、正式な書記二人のほか、臨時の女が一人いた。背が低く、セドルの店から推薦されたモルガという番頭だ。
「セドルの店の人間だったのか」と宗久。
「審査が混むから人を出すと申し出た」とバルガス。「帳簿経験があると言われ、断る理由がなかった」
モルガは審査当日、商品一覧を回収して写しを作っている。農家候補の名前、輸入品四品、価格、保証人条件。店を妨害するのに必要な情報を、最初から見られる位置にいた。
「今、どこにいます?」
「セドルの店で働いているはずだ」
警備隊長はすぐに人を向かわせた。
戻ってきた隊員の報告では、モルガは今朝から姿を見せていない。住まいにも荷物がなく、夜のうちに出た形跡があった。
南門と北門へ人相書きを回し、街道の宿にも確認を頼んだ。右耳の革具をつけているとは限らないため、背丈、髪、歩き方、左手で筆を持つ癖まで書き加えた。リリアは審査の日、モルガが赤い香草の匂いをさせていたことを思い出した。
「逃げたなら犯人だ」とロアン。
「事件を知って怖くなっただけかもしれない」と宗久。
「店長は、どこまで疑わないつもりだ」
「疑ってる。だから証拠を集める」
逃げたことは疑う理由になる。しかし、それだけで契約書改ざん、荷車破壊、偽麺のすべてを一人へ背負わせることはできない。
「叔父さんの名前を聞いても?」
雨宮が尋ねた。
「ハルムだ。革細工をしている」
ユノは叔父から少し離れて立っていた。親しい様子には見えない。
「ユノさんが当店で働くことについても、お話ししたいです」
「好きにしろ。俺の子じゃない」
「十二歳の子どもを、本人の希望だけで雇えません」
「飯を出すなら、連れていけ」
宗久は口を挟みかけたが、雨宮が先に聞いた。
「弟さんは何歳ですか」
「七つ」とユノ。
「二人で暮らしている?」
「母ちゃんが使ってた小屋で」
「叔父さんは生活費を?」
ハルムは顔をしかめた。
「俺にも家族がいる。たまにパンは持っていく」
責めるだけでは、ユノと弟の食事は増えない。
「組合の就労担当と相談します」と雨宮。「ユノさんが働ける時間、弟さんが一人になる時間、賃金の受取人を決めます。叔父さんにも立ち会ってください」
「面倒だな」
「面倒なので、大人に来てもらっています」
ハルムは言い返せず、翌日の面談へ来ると約束した。
警備隊長が到着すると、ハルムには革の注文記録を提出してもらった。
右耳を覆う革具。注文者は背の低い女。受取人は別の男。代金はセドル名義の引換札で支払われている。
「この引換札は本物か」と警備隊長。
ロアンが灯りへ透かす。
「紙は本物です。セドルの店で使っている物と同じ。でも、印の右側が潰れてる」
「使い古した印なら、こうなることもある」とヴァルド。
「セドル本人に確認しましょう」
穀物商セドルの店は、市場の北側にあった。
小麦、大麦、乾燥豆の袋が天井まで積まれている。セドルは紙を見せられると、顔を赤くした。
「私を疑っているのか!」
「この引換札を発行しましたか」
「していない」
「店の紙と印が使われています」
「盗まれたんだ」
「いつ?」
セドルは答えなかった。
「盗難の届けは出ていますか」と雨宮。
「たかが紙だ。出していない」
「何枚なくなりました?」
「分からん」
「印章も?」
「印はここにある」
セドルが帳場から丸い商人印を出した。押して比べると、引換札の印と形は同じ。ただし、こちらも右側が欠けている。
「本物の印ですね」と雨宮。
「だから盗まれた紙へ誰かが――」
「紙だけでは印を押せません」
セドルの声が止まった。
「古い印を処分せず持っている可能性もあります」と宗久。「決めつけるつもりはありません。組合の立ち会いで、店内を確認させてください」
「断る」
「では、警備隊の捜索許可を待ちます」
「異邦人の店の商品が偽造されたからと、私の倉庫を開けるのか」
「腹を壊した人が二人います」
「お前たちが余計な品を持ち込むからだ」
セドルは、偽物の値札を見た子どもの母親と同じ言葉を使った。
店を出ると、ヴァルドが宗久を止めた。
「あいつは何か隠している」
「犯人だと思いますか」
「まだ分からん。ただ、紙が盗まれたなら、普通は帳簿を先に確かめる。あいつは一度も見なかった」
警備隊の捜索許可は、翌朝まで出ない。
店とセドルの倉庫には、組合員二人と警備隊員一人が夜番についた。今度は証拠も人も、一人へ任せない。
犯人が店の動きを見ている以上、同じ失敗はできない。
その夜、セドルの倉庫から火が上がった。




