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存在しない橋の渡り方

橋を探しに行きます。存在しないはずの橋を。

「西へ視察に出る。夫人も同行を」

 朝食の席でヴィンセント様がそう言った時、ルカ君のパンを持つ手が止まり、ミーナちゃんのスープの匙が止まり、給仕をしていた若い侍女に至っては水差しを傾けたまま静止した。卓上に、静かに水があふれた。

「……あの。何か変なことを?」

「いいえ奥様なにも!」侍女が水差しを立て直しながら言った。「旦那様が、その、ご自分から誰かをお誘いになるのが、珍しくて」

「視察だ」とヴィンセント様。「誘いではなく、業務だ」

「はい! 業務でございますね! ゲルダさんにお弁当を二人分お願いしてまいります!」

 侍女は飛ぶように出ていった。業務にお弁当。まあ、いい。業務にもお弁当は必要だ。

 *

 馬車で西へ二時間。今日の目的地は、領の西端を流れる細い川だった。

 昨夜のうちに、私とヴィンセント様は台帳の『第九橋』について分かることを洗い出していた。判明したのは三つ。維持費の支払先は「西部橋梁組合」という名の組合であること。受領の署名が毎年同じ筆跡であること。そして、西部に橋梁組合など存在しないこと。

「実在しない橋の維持費を、実在しない組合が受け取っている」

「美しい仕組みです。感心はしませんが、設計としては」

「夫人は時々、悪党を褒める」

「良い契約書と良い詐欺は紙一重なんです。読む力は同じ場所で鍛えられるので」

 馬車の窓の外、街道が細くなっていく。この先に川があり、台帳が正しければ「第九橋」が架かっているはずの場所がある。

「閣下は、心当たりは」

「ない。ただ」彼は少し考えて、言った。「三年前は、いろいろなことが同時に起きた年だ。前の経理官が辞め、東の国境で小競り合いが続き、私は季節の半分を陣にいた。館の決裁は代理の判で回っていた」

「代理の判」

「家令のオズワルドだ。……先に言っておくが、二十年仕えた男だ」

 先に言っておくが、という前置きに、この人の願いが入っていた。疑いたくない、という願いだ。

 私は頷くだけにした。数字を見る前に人を見ると、数字の方を読み間違える。前世で覚えた鉄則だが、口には出さなかった。願いくらい、荷物にならない。

 *

 川は、あった。

 幅は十歩ほど。流れは浅く、底の石が見えるくらい澄んでいる。そして台帳上の「第九橋」の位置に架かっていたのは——橋ではなかった。

 板が二枚。

 岸から岸へ、古い板が二枚渡してあるだけ。手すりもない。よく言って足場、正直に言えば、板。

「……これが、年に金貨四十枚の維持費を食べる橋ですか」

「板だな」

「板ですね」

 二人で板の前に立って、しばらく板を見た。風が川面を撫でて、板がかたかたと鳴った。維持されている音ではなかった。

 と、その時。

「おおい! そこの! その板を渡るのかね!」

 声の方を見ると、川下の畑から老人がひとり、鍬を担いでやってくるところだった。日に焼けた顔に、人の好さそうな皺。

「渡るなら気をつけなされ。去年、粉屋のロバが落ちた」

「……この橋は、いつからこの板なんでしょう」

「橋? 橋ぃ?」老人は笑った。「そりゃあんた、ここに橋が架かってたのは儂の親父の代までよ。流されてから、かれこれ三十年。村じゃ何度も架け直しを願い出たがのう、『予算がない』と」

 予算がない。

 毎年金貨四十枚、この橋の維持費が計上されている帳簿を、私は膝の上の鞄ごと、静かに抱え直した。

「……ご老人。その願い出は、どちらに」

「城の家令様よ。オズワルド様。いつも丁寧に断ってくださる」

 隣で、ヴィンセント様が息を一つ、深く吸うのが分かった。

 吐くまでが、長かった。

 *

 帰りの馬車は、静かだった。

 窓の外の夕陽を見たまま、ヴィンセント様が口を開いたのは、領都の灯りが見え始めた頃だった。

「夫人。契約の話をしたい」

「はい」

「私は明日、オズワルドを問い質す。その前に——数字の側から、逃げ道を全部塞いでおいてほしい。言い訳の余地を残すと、あの男は二十年分の信用で言い抜ける。それでは互いに不幸だ」

「承知しました。今夜中に、三年分の綴りから第九橋関連を全部抜いて、時系列の表にします」

「頼む。……それと」

 彼はこちらを向いた。夕陽で、冬の湖の目が少しだけ温度のある色をしていた。

「今日は、いてくれて助かった。私一人なら、板を見て、引き返して、確かめなかったと思う」

「橋を?」

「疑うことをだ」

 ああ、と思った。この人は、疑うのが下手なのだ。感情が遅れて届く人は、たぶん、疑いも遅れて届く。だから戦場では強くて、帳簿では騙される。

「閣下。では今夜は、私が代わりに疑います。閣下は代わりに、明日、信じることの方をやってください。二十年の家令に、言い分を最後まで言わせる係です」

「……役割分担か」

「契約社会の基本です」

 ヴィンセント様は、ふ、と息だけで笑った。笑ったのだと、私にはもう分かるようになっていた。

 三日で読めるようになった男の笑い方と、三十年直されなかった橋のことを、私は夜の書斎で交互に思い出しながら、綴りをめくり続けた。

 明日は、長い一日になる。

(第4話 了)

板でした。

明日19時40分、第5話。二十年の家令と、三年分の数字の対決です。

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