地図にない橋
帳簿編、開幕です。
ファルクラム城館は、思っていたより大きく、思っていたより古かった。
翌朝、ゲルダさんの案内で館を一周した。大広間、客間、武具庫、温室——歩くほどに使用人とすれ違い、すれ違うたびに全員が立ち止まって深々と礼をする。三人目までは会釈を返した。十人目で気づいた。皆、礼のあとで必ずこちらを二度見していく。
「……ゲルダさん。私の顔に何か」 「いいえ、いいえ。皆、嬉しいだけでございますよ。この館に奥方様をお迎えするのは、先代の頃以来ですから」 「まだ婚約者です。しかも」
契約上の、と言いかけて、やめた。第四条、契約の存在は第三者に開示しない。私が起草した条文だ。自分の書いた鎖は、自分にもちゃんと巻き付く。
「しかも?」 「……しかも、帳簿目当てです」 「まあ。旦那様と同じことをおっしゃる」
ゲルダさんは楽しそうに笑った。同じとは何が。聞きそびれた。
*
その夜、私は書斎にいた。
燭台二本。インク壺。三年分の橋梁台帳。至福の布陣である。
昼間の案内で分かったが、この領は骨格がいい。国境の守りで人の出入りが多く、街道が生きている。つまり関税と通行税が本来は太い柱のはず——なのに、台帳の数字は痩せている。理由を探すのが今夜の献立だった。
通行税の徴収記録。署名は三種類。そして台帳の上では、この領の橋は九本ということになっている。昨日までの私も、そう数えていた。
徴収人が三人で九本を回っている可能性はある。日付を突き合わせれば分かる。私は台帳と地図を並べて、一本ずつ照合を始めた。
北街道のアルム橋、署名あり。東のふたご橋、上下ともあり。南のリーゼ川に架かる大橋、あり。西の——
……ん?
手が、止まった。
維持費の支出簿。そこに毎年、几帳面に計上されている項目があった。『第九橋、修繕および管理費』。金額は小さくない。三年間、毎年きっちり同額。
私はもう一度、地図を見た。橋を数えた。北に二本、東に三本、南に二本、西に一本。
八本だ。
地図のどこにも、九本目の橋がない。
「————」
台帳にだけ存在して、地図に存在しない橋。維持費だけが毎年、律儀に支払われている橋。
背筋のあたりが、ぞわりとした。怖さではない。もっと質の悪いやつだ。前世で契約書の但し書きに埋められた罠を見つけた時の、あの感覚——仕事が面白くなってきた時の悪寒である。
気づけば、窓の外の月がだいぶ高かった。もう一冊、と支出簿の綴りに手を伸ばした、その時。
「まだ起きていたのか」
扉口に、ヴィンセント様が立っていた。夜着に上着を羽織って、手には湯気の立つカップ。
「灯りが見えたのでな。……夫人、着いて二日目だ。倒れられると契約違反になる」 「そんな条項は入れていません」 「では次の改定で入れる」
彼はカップを机の端に置いた。白湯だった。気の利いた茶ではなく白湯であるところが、なんというか、この人らしい。
「切りのいいところで休め。数字は逃げない」
数字は逃げない。
その言い方に、少しだけ、手が止まった。
前世の私に、それを言ってくれる人はいなかった。数字は今夜中だと言われ続けて、私は数字と一緒に沈んだのだ。あの夜も、こんな月だった気がする。
……いけない。感傷は燭台の無駄遣いだ。
「閣下。一つだけ伺っても」 「なんだ」 「第九橋、という橋をご存知ですか」
ヴィンセント様の眉が、わずかに動いた。
「……九番目の橋? この領に橋は八本だが」 「ですよね。でも帳簿の中には、九本目が架かっているんです。三年間、毎年同じ額の維持費と一緒に」
私は支出簿を回して、彼に見せた。燭台の灯りの中で、氷刃卿の目が細くなる。戦場の目だ、とすぐに分かった。
「……夫人。これは」 「ええ。誰かが、存在しない橋を渡って、お金をどこかへ運んでいます」
地図にない橋の、渡った先。
それを突き止めるのが、私のファルクラムでの最初の仕事になりそうだった。
(第3話 了
第九橋、開通です(帳簿の中だけ)。 明日19時40分、第4話。橋の渡った先を追いかけます。白湯はヴィンセントなりの最大限です。




