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領都の歓迎がすごい

初日なので続けてもう1話。明日からは19時40分に1話ずつです。

領都グランツェの大通りは、花で埋まっていた。

 窓辺という窓辺に花綱。広場には楽隊。沿道には人垣ができていて、馬車が通ると歓声と花びらが降ってくる。どこかの建国祭に迷い込んだのかと思ったが、横断幕にはっきり書いてあった。

『ようこそ、未来の奥方様!』

 未来の奥方様。

 私は馬車の座席で、膝の上の契約書の写しを見た。第一条、本契約の期限は一年とする。写しは何も言ってくれなかった。

「……閣下。これは」

「すまない。止めたのだが」

 向かいの席のヴィンセント様は、眉間を押さえていた。氷刃卿が頭痛を我慢する顔を、領民はたぶん誰も知らない。

「私が婚約者を連れて帰るのは、その、領史上の重大事らしい」

「今まで何人お連れに?」

「零人だ」

「なるほど、初物ですね」

「野菜のように言わないでもらいたい」

 会話が下手なわりに、返しは律儀な人だった。

 *

 城館の玄関前には、使用人がずらりと整列していた。その中央、一歩前に出た年配の女性が、完璧な礼をする。

「メイド長のゲルダでございます。エルシャ様、ファルクラムへようこそ。……まあ、まあ、なんてお可愛らしい」

「初対面で騙されないでください。中身は帳簿の虫です」

「まあ!」

 ゲルダさんは口元を押さえて、それから私の手をぎゅっと握った。手が温かい。この人が城館の実権者だな、と私の中の前世が囁いた。組織図より握手で分かることがある。

 と、その背後から、小さな影が二つ飛び出してきた。

「兄上! おかえりなさい!」

「おかえりなさいませ、あにうえ……あ」

 十二歳くらいの少年と、八歳くらいの少女。少女の方は私と目が合った瞬間、少年の背中に隠れた。ヴィンセント様が言う。

「弟のルカと、妹のミーナだ。……二人とも、挨拶を」

「ルカです! 義姉上、剣は使えますか!」

「使えません。算盤なら」

「そろばん」

 ルカ君は真剣な顔で「そろばん」と復唱した。新しい武器の名前だと思ったらしい。あながち間違いでもない。

 ミーナちゃんは、兄の背中から半分だけ顔を出して、じっとこちらを見ていた。私がしゃがんで目線を合わせると、消え入りそうな声で言った。

「……おうたは、すき?」

「歌ですか。聴くのは好きです。歌うのは、契約書の朗読なら」

「けいやくしょのろうどく……」

 ミーナちゃんは真顔で考え込んでしまった。しまった。子供との会話の正解が分からない。前世も今世も、この分野の実務経験がない。

 助け舟はゲルダさんが出してくれた。

「さ、お嬢様がたはお部屋の案内がありますからね。エルシャ様、長旅でお疲れでしょう。湯の用意も」

「ありがとうございます。ですがその前に」

 私は顔を上げて、城館を見た。

「書斎はどちらでしょう。帳簿を拝見したくて」

「「「……」」」

 玄関前が、静まった。

 ヴィンセント様だけが、少し目を逸らした。

「……夫人。移動で三日座り続けた直後だ。今日くらいは」

「三日も予習の時間をいただいたので、実物と突き合わせたくて仕方ないんです。閣下、契約書の別紙三、覚えていらっしゃいますか。『乙は領政資料の閲覧を随時請求できる』」

「……書斎はこちらだ」

 交渉には、勝った。

 *

 書斎の帳簿は、期待を裏切らなかった。

 悪い意味で。期待通りに悪かったという意味で、期待は裏切られていない。ややこしいが、つまりひどかった。

 壁一面の棚に、綴じ紐の緩んだ帳簿の山。三年前から放置された塩の専売台帳。徴収人の署名が三種類しかない橋の通行税記録——領内に橋は九本あるのに。極めつけは、金庫の隅から出てきた『とりあえず』と表書きされた領収書の束。

「とりあえず……」

「前任の経理官の字だ。三年前に高齢で辞めてな。以後、私が戦の合間に見ていた」

「閣下が。お一人で」

「向いていないのは分かっている」

 ヴィンセント様は窓の外に目をやった。夕暮れの領都で、まだ祭りの楽の音が続いている。

「国境を守るだけで手一杯だった。数字は嘘をつかないというが、私には数字が何を言っているのか、そもそも聞き取れない」

 自分の不得手を、この人はまっすぐ言うのだな、と思った。貴族の男性で、それができる人を私は王都で一人も見たことがない。

「聞き取れます、私は」

 気づいたら、そう言っていた。

「一年で、この書斎の数字を全部、閣下に聞き取れる言葉に翻訳します。それが済んだら胸を張って契約満了です。だからそれまで——」

 窓の外で、ひときわ大きな歓声が上がった。未来の奥方様、と誰かが叫んでいる。

 一年で出ていく人間を、あんなに喜んで迎えてくれた人たちの声だった。

 ……この仕事、帳簿より先に、心臓に悪いかもしれない。

「——それまで、よろしくお願いします。旦那様」

「だ……」

 ヴィンセント様が、固まった。

「対外的にはそうお呼びする契約です。別紙二。練習しておきませんと」

「…………善処する」

 氷刃卿の耳が、ほんのり赤かった。

 帳簿との戦い、初日。戦果は上々である。

(第2話 了)

ルカとミーナが出ました。ミーナの「おうたは、すき?」には理由があります。だいぶ先で回収します。

明日19時40分、第3話。ゲルダさんの城内案内と、最初の帳簿事件です。

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