婚約破棄? できませんが
連載版です。短編からの方はおかえりなさい、初めての方はここからどうぞ。
第1話は「これまでのあらすじ」を兼ねています。彼女の説明は少し早口です。
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に砕けて散っている。
王宮の大広間。年に一度の建国記念の夜会は、今年も豪奢で、退屈で、そして予定通りに進行していた——たった今までは。
「エルシャ・グラン=アルディス!」
若く張りのある声が、弦楽の調べを断ち切った。
広間の中央、階段の上。この国の第二王子リオネル殿下が、まっすぐに私を指差している。その隣には、白いドレスの可憐な少女が寄り添うように立っていた。確か、辺境の男爵家から現れたという「聖女様」だ。
「貴様との婚約を、この場で破棄する!」
ざわ、と広間が揺れた。
三百人の貴族たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。憐れみ、好奇、そして少なくない数の——愉悦。公爵家の令嬢が公衆の面前で捨てられる。社交界にとって、これほど上等な余興はない。
ああ、と私は思った。
ついに、この日が来てしまった。
——十一年間、ずっと恐れていた日が。
「殿下」
私は扇を閉じ、ドレスの裾を摘まんで一礼した。声が震えないよう、腹の底に力を込める。
「まず伺いますが、理由をお聞かせいただけますか」
「白々しい! 貴様がソフィア嬢に加えた数々の嫌がらせ、証言は揃っている! 階段から突き落とそうとしたこと、ドレスを切り裂いたこと、茶会で毒を——」
「その証言、書面になっておりますか?」
「……は?」
「証言なさった方々の署名入りの書面です。日付と場所の記載はありますか。私にはその日時の所在を証明する記録がございますので、突き合わせをいたしましょう」
殿下の口が、金魚のように開いて閉じた。
隣の聖女様が、殿下の袖をきゅっと掴む。潤んだ瞳。震える肩。完璧な被害者の所作だった。大したものだと思う。私も前世で散々見た。「言った言わない」の水掛け論に持ち込みたい側は、いつだって書面を嫌うのだ。
——前世。
そう、私には前世の記憶がある。
剣も魔法もない世界で、私は企業の法務部員だった。十年間、来る日も来る日も契約書を読んだ。第何条の但し書き、甲と乙、損害賠償の範囲。数センチの紙の束が人の運命を縛るのを、嫌というほど見てきた。
そして最後は、私自身が縛られて死んだ。「みんな残っているから」という誰も署名していない契約に、心臓を差し出して。
だから神様の采配は、きっと皮肉だったのだろう。
生まれ直した私に与えられたのは——【誓約】。
私が当事者となって交わした約束は、双方が心から合意した瞬間、この世界の法則になる。破ることは、誰にもできない。
「り、理由などどうでもいい!」殿下が声を荒げた。「王族たるこの私が破棄すると言ったのだ! 婚約など、私の一存でどうにでも——」
「できません」
私は言った。
静かに。けれど、広間の隅まで届くように。
「殿下。この婚約は、破棄できません」
「……なんだと?」
「十一年前。私が七歳、殿下が九歳の春でした。王宮の薔薇園で、殿下は私に仰いましたね。『エルシャ、僕と結婚の約束をしよう』と。私は『はい、お約束いたします』とお答えした。両家の立会いのもと、婚約契約書に署名もいたしました」
私は侍女のマーサに目配せした。彼女が恭しく捧げ持ってきた黒革の書類挟みを受け取り、一枚の古びた羊皮紙を取り出す。
「こちらがその原本の写しです。第十二条をご覧ください」
殿下は反射的に受け取り——受け取ってしまうあたり、この方は根っから素直なのだ——紙面に目を走らせた。
「『本婚約の解消は、甲乙両名の合意による解約手続きを経なければ、これを行うことができない』……だから、なんだ。今この場で破棄すると言っている」
「一方的な『破棄』と、合意による『解約』は、まったくの別物でございます」
私は一歩、前に出た。
「殿下がなさろうとしているのは前者。契約書のどこにも認められていない行為です。そして——」
息を吸う。
十一年間、夜ごと反芻してきた言葉を、ついに口にする時だった。
「私の契約は、絶対に破れないのです」
言葉と同時に、殿下が羊皮紙を破り捨てようと両手に力を込めるのが見えた。
——けれど。
紙は、破れなかった。
殿下の指先が白くなる。腕が震える。それでも、薄い羊皮紙一枚に、皺ひとつ寄らない。
「な……っ、なんだ、これは……!?」
「おやめになった方がよろしいかと。それは写しですので破れても困りませんが、殿下の御手が傷つきます」
嘘だ。写しだろうと原本だろうと、あの契約に連なる紙は破れない。この十一年、私が何度試したと思っているのか。暖炉にくべた夜もあった。灰にすらならなかった。
広間は、水を打ったように静まり返っていた。
聖女様だけが、探るような目でじっと私を見ている。——その視線の温度が、先ほどまでの可憐さと少しも噛み合っていないことに、私は気づいていた。
「エルシャ・グラン=アルディス……貴様、何をした」
「何も。ただ、契約とはそういうものだと申し上げているだけです」
私は微笑んだ。社交界で「アルディスの氷百合」と呼ばれる、完璧な角度の微笑みを。
「ですが殿下、ご安心くださいませ。私とて、心の離れた方と祭壇に立ちたいわけではございません。第十二条に基づく——正式な解約手続きのご用意が、こちらにございます」
黒革の書類挟みから、二枚目の書類を取り出す。
真新しい羊皮紙。昨夜、私が一晩かけて起草した、完璧な解約合意書。
そう。私はこの日を恐れながら、同時にずっと待っていたのだ。この呪われた婚約を、誰も傷つけずに終わらせる、たった一つの正しい手続きを——十一年かけて、練り上げてきた。
「さあ、殿下」
私はペンを差し出した。
「解約の条件について、お話をいたしましょう。……ああ、申し遅れました。条件は三つございます。一つ目は慰謝料。二つ目は名誉の回復。そして三つ目は——」
扇の内側で、私は誰にも見えない笑みを浮かべる。
「殿下には少々、耳の痛いお話になるかと」
*
この夜の顛末は、後に社交界で長く語り草となる。
「婚約破棄を突きつけられた令嬢が、その場で王子に契約書を音読させた夜会」として。
そして私はまだ知らない。
この夜の一部始終を、広間の柱の陰から見ていた男がいたことを。
北の国境からやってきた、氷のような目をした辺境伯が——後日、私の前に一枚の契約書を差し出すことになるのを。
それが、私の人生で最も残酷で、最も愛おしい一枚になることを。
私はまだ、何も知らなかった。
(第1話 了)
連載、始まりました。
このあとすぐ第2話も公開します。領都の歓迎が、彼女の想定をだいぶ超えます。
明日からは毎日19時40分更新の予定です。




