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第9話 交通ルールとか、ちゃんと気にするんだなって

 そんなわけで。


 歓迎会未遂の余韻も冷めきらないうちに、アシュはシイナに連れられ、さっそく初任務へ向かうことになった。


 夜帷のビルを出て、地下駐車場へ向かう途中も、彼女は小走り気味に前を進みながら、熱心に任務の概要を説明してくれていた。


「今回は現地での聞き込みが中心になりますので、それほど危険はないと思います」


 振り返って、真面目な顔で言う。


「なので、まずは安心してください。あくまでOJTみたいな形で、私がうちのやり方をご説明しますね」


「へぇ」


 アシュはポケットに手を突っ込み、いかにも気怠げに肩を揺らす。


「俺ぁ、もっと血生臭い方が好みなんだけどなぁ」


 言いながら、内心では少しだけ様子をうかがう。


 普通なら、これで多少は引く。

 少なくとも一瞬くらいは固まるだろう。


 だが、シイナは違った。


「さすがです……!」


 目をきらきらさせている。


「アシュさんは、やっぱり今までたくさんの死線を乗り越えてこられたんですね!」


 眩しい。


 何だこの子は。

 どうしてそんなに前向きに解釈できるんだ。


「聞き込み程度じゃ物足りない、ってことですよね? すごいです……! 私も早く、そういうふうに言えるくらい経験を積みたいです!」


 やめてくれ。


 そんな向上心に満ちた目で見ないでくれ。


 アシュは曖昧に「うへへ」と笑ってごまかしながら、心の中で頭を抱えた。

 自分が言っているのは、もっとこう、嫌悪されるための下品な虚勢であって、尊敬を集めるための格好いい台詞ではない。


 だが、シイナの中ではなぜか前者が後者に変換されるらしい。


 ほどなくして、二人は駐車場の一角へたどり着いた。


「こちらです!」


 シイナが小さな社用車の前で足を止める。


 彼女は慣れた手つき──いや、よく見るとそこまで慣れてはいない手つきで鍵を開け、運転席へ回り込んだ。アシュも黙って助手席へ乗り込む。


 本当に運転は大丈夫なんだろうか。


 そう思ってしまうくらいには、彼女の所作にはまだ初々しさが残っていた。動きそのものは丁寧だが、どこかぎこちない。新品のスーツといい、こういう細かいところといい、やはり入ってまだ日が浅いのだろう。


 シイナが座席に腰を下ろし、かちりとシートベルトを締める。


 その動きにつられるように、アシュも何の気なしにベルトへ手を伸ばした。


 かちり。


 自然すぎるほど自然に、締めてしまった。


 直後。


 視線を感じて横を見ると、シイナがこちらを見ていた。


「あん? なんだぁ?」


「え、いえ」


 シイナは慌てたように首を振る。


「その……アシュさんも、安全とか交通ルールとか、ちゃんと気にするんだなって思って。……あっ、ご、ごめんなさい! ただ、少し意外だっただけで……!」


 しまった。


 アシュは一瞬で悟った。


 完全に素が出た。


 条件反射でやってしまったが、今の自分は、ナイフを舐めて笑う狂人枠である。そんな男が交通ルールに乗っ取りしっかりとシートベルトを締めるのは、たしかに少しだけ絵面がおかしい。


 咄嗟に出た答えが……


「バカやろぉ!」


 叫びながら、アシュは反射的に懐からナイフを抜いた。


 しゃっと銀の軌跡が走る。


 次の瞬間、自分の胸元に伸びていたシートベルトが、ばっさりと切断されていた。


「俺が安全装置なんか使うわけねぇだろうが! ただのシャレだよ、シャレ!」


 勢いのまま怒鳴ったあとで、アシュはふと我に返る。


 ……俺は何をやってるんだ。


 自分で締めたシートベルトにキレて、ナイフで引きちぎる。

 もはや奇人というより、ただの危険人物である。


 いや、設定としては間違っていないのかもしれないが、方向性としてだいぶおかしい気がする。


「で、ですよね! ご、ごめんなさい!」


 シイナは本気で申し訳なさそうに頭を下げた。


 違う。

 謝るのは君じゃない。


 明らかにおかしいのはこっちだ。


 だが、そんなことを言えるはずもなく、アシュは切れたシートベルトを手にしたまま、「うへへ……」と力なく笑うしかなかった。


 シイナは気を取り直すように前を向き、エンジンをかける。


「そ、それじゃあ、出発しますね!」


 車はゆっくりと駐車場を出た。


 至って安全。

 至って模範的。


 そんな運転で、社用車は街路へと滑り出していく。


 助手席で、アシュは切れたシートベルトの端を見つめた。


 これ、後から怒られるのか?


 窓の外の景色が流れていく中、彼はそっと目を閉じる。


 初任務開始早々、前途は多難だった。

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