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第8話 見事なくらいの身のこなしで、逃げた

「それじゃ、後はヨロシクね」


 リリスが満足そうに部屋を後にした後。

 歓迎会めいた空気は、ものの数分で跡形もなく消え去った。


 課長らしき壮年の男性は、引きつった苦笑いをどうにか表情に貼りつけたまま、「じゃあ、簡単に案内しますね」と言って室内を回り始める。


 壁際の書棚、共有端末、資料棚、簡易の打ち合わせ机。

 特案二課の部屋は広くはないが、必要なものは一通り詰め込まれているらしい。実務優先の、こぢんまりとした職場だ。


 その説明を受けながら、アシュは適当に相槌を打つ。


 内心はそれどころではなかったが、今さら素に戻るわけにもいかない。


 ひと通り案内を終えたところで、課長はぱんと軽く手を打った。


「じゃ、予定通り、アシュさんは慣れるまで、しばらくバディを組んで任務に当たっていただきます」


「あぁん? バディ?」


 アシュがわざと眉を吊り上げると、課長はびくりと肩を揺らしながらも、必死に笑顔を保った。


「え、ええ。もちろん、アシュさんの実力なら不要なことは重々承知しています。ただ、うちのやり方だとか、現場での手順だとか、覚えていただくこともありますので」


 そう言って、課長は少し離れた壁際にいる女性に声をかけた。


「それじゃ、予定通り──アリサくん、頼むよ」


 呼ばれた女性が、ぴたりと動きを止める。


 そして振り返りもせず、妙に落ち着いた声で言った。


「あ。すみません、課長。その件ですが、私、急に重要な任務が入りまして」


「え、え?」


 課長が目を丸くする。


「いや、そんな話は……」


「前々から議題に上がっていた、オルトワル遺跡深部の調査です」


 一瞬、室内が静まり返る。


 その沈黙を破ったのは、誰かの小さな呟きだった。


「それ、遠いから誰も行きたがらなくて放置されてたやつじゃん……」


「急に行きたくなったんです。では」


 アリサは実に流れるような動作で書類を抱え直すと、そのまま出口へ向かった。


「ち、ちょっと、アリサくん!?」


 課長の制止も聞かず、扉が開いて、閉まる。


 消えた。


 逃げた。


 見事なくらいの身のこなしで、逃げた。


「……」


 課長の顔が引きつる。


 そして、ぎこちない笑みを浮かべたまま、今度は別の方向へ顔を向けた。


「あ、あの……ロベルトくん?」


 名前を呼ばれた若い男が、びくっと肩を震わせる。


「あ、すいません。俺、来週から祖母の葬儀の予定で」


「え、葬儀って予定立ててやるもんだっけ?」


 思わず課長の本音が漏れた。


 室内の空気がさらに気まずくなる。


 誰も目を合わせない。

 皆、逃げるように視線を逸らしている。


 アシュは黙って立っていた。


 こんな気持ちは初めてだった。


 胸のあたりを、何か鋭いものでじわじわ抉られているような感覚。

 しかもその原因が、ほぼ間違いなく自分だというのがつらい。


 いや、正確には自分ではなく、“生殺しのアシュ”のせいなのだが。


 それにしても、きつい。


「え、ええと……」


 課長も完全に困っていた。


 助けを求めるように室内を見回し、そして不意に何かを見つけたように顔を上げる。


「……あ! シイナちゃん!」


「は、はい!?」


 ぱたぱたと駆け寄ってきたのは、小柄な若い女の子だった。


 着ているスーツはまだ新品らしく、布地に張りがある。だが本人にはまだ馴染んでいないのか、どこか着られているようにも見えた。

 手には、さっき歓迎の時に使っていた『ようこそ』と書かれたうちわが、まだしっかり握られている。


 その姿が妙に初々しくて、アシュは一瞬だけ目を逸らしたくなった。


「あの、アシュさんのバディを、シイナちゃんにお願いしようかなと思うんだけど」


「わ、私ですか!?」


 ぱちりと大きな目が見開かれる。


「い、いや、急で困るとは思うんだけど……」


「頑張ります!」


 即答だった。


 しかもその声には迷いがない。


 まっすぐだ。

 眩しいくらいに、まっすぐだった。


 アシュは一瞬、本気で言葉を失う。


「あの、私、シイナ・トリビュエルといいます」


 彼女はぺこりと頭を下げた。


「あの、まだここに来て日も浅いですけど、一生懸命頑張りますので……よろしくお願いします!」


 そのまま、深々とお辞儀をする。


 若い。

 見るからに実戦経験も少なそうだ。

 それでもちゃんと前に出て、皆が嫌がる役を引き受けようとしている。


 その姿から、実直な性格がよく分かった。


 そんなつもりはさらさらなかったが──もし弟子を取るなら、こういう子がいいかもしれない。

 そう、“夢幻黒葬”のアシュは思った。


 本当なら、ちゃんと握手をしたい。

 「よろしく」と真っ当に返してやりたい。

 業界の先輩として、自分に教えられることがあるなら何でも教えてやりたい。


 だが、そうは行かない。


「あぁん……?」


 アシュは無理やり口元を歪めた。


「こんな子猫が、俺のお守りかぁ? 笑えるなぁ」


 言いながら、心の中では全力で謝っていた。


 いや、とんでもない。

 本当は仲良くやりたい。

 できるなら普通に接したい。

 なんなら歓迎会の飾りつけに感動した話だってしたい。


 でも、許してくれ。


 そんなアシュの内心など知るはずもなく、シイナは少しだけ姿勢を正し、真剣な顔のまま答えた。


「ご、ごめんなさい……! 私、ご迷惑はおかけしないようにしますから!」


 なんていい子なんだ。


 胸が痛い。


 アシュは今すぐ床に額をこすりつけて謝りたくなったが、もちろんそんなことはできない。


「まぁ、せいぜい頑張りなぁ〜」


 出てきたのは、そんな最悪の台詞だった。


 シイナは「はい!」と小さく頷く。


 その真っ直ぐさが、余計に刺さる。


 アシュは口元だけ笑いの形にしたまま、心の中で静かに泣いた。

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