第18話 最高に楽しいんだよ
「いやいや、参りました」
理事長は倒れた男たちへ一瞥をくれ、肩をすくめてみせた。
「白状しましょう。子供を少年兵として売っていたのは事実です」
穏やかな笑みすら浮かべている。もはや隠す必要がないと見切ったのだろう。
「ですが、これも行き場のない子供たちのための慈善事業なのですよ」
月明かりの差すホールに、その声だけがよく通る。
「親もなく、教育もなく、まともな未来を与えられない子供たちに、価値を与えている。必要とされる場所へ送り出しているのです。少なくとも、飢えて野垂れ死ぬよりは、よほど有意義でしょう」
アシュは何も答えなかった。
細身のナイフを指先でくるりと回し、理事長の顔をじっと見ている。さっきまでの薄ら笑いも、今はどこか浅い。
そこに手応えを感じたのか、理事長はさらに一歩踏み込んだ。
「アシュさん」
声音が少しだけ柔らかくなる。
「あなたの実力は大したものだ。夜帷で、こんな施設の視察だの聞き込みだの、使い走りのような真似をさせられる理由はない」
アシュの眉が、わずかに動く。
「どうでしょう」
理事長は両手を広げるような仕草で言った。
「うちへ来ませんか?」
「……ほぉ?」
アシュが笑う。
だがその笑いに、先ほどまでの軽薄さはなかった。
「金は、もちろん夜帷よりもお支払いします。何なら倍、出してもいい」
理事長は迷いなく続けた。
「好きな額を仰ってください。表に出せない仕事も多いですが、あなたほどの方なら問題も無いでしょう。力ある者は、それに見合う場所で遇されるべきです」
「俺が、金で動くとでも?」
アシュの声は低い。
理事長はその問いに、むしろ確信を深めたようだった。
「──ええ」
はっきりと言い切る。
「あなたは、私たちと同じ臭いがします」
アシュは思わず吹き出すように、小さく笑った。
「ご自分でも仰っていたでしょう。子供の未来になど興味はない、と。あなたも同じだ。甘い理想ではなく、現実が見えている。夢だ希望だと綺麗事を並べたところで、価値のない子供に居場所は生まれない。ならば使える形に整えてやるのが慈悲。あなたも、それを理解しているはずです」
沈黙。
アシュは何も言わない。
月明かりの下、そのふざけ切った瞳だけが、ほんの一瞬だけ色を変えた気がした。
その違和感に、理事長の笑みが僅かに歪む。
アシュはゆっくりとナイフを下ろした。
舌先で刃を舐めることも、もうしない。
「……子供の未来なんざ、知ったことか」
ぽつりと落ちた声は、妙に静かだった。
理事長の口元が再びわずかに吊り上がる。
だが、次の言葉でその表情は凍りついた。
「あいつらの可能性は無限大だ」
アシュは顔を上げる。
「俺たちみてぇな他人が、知りようもねぇ。何になれるかも、何になりたいかも、あいつらだけのもんだ」
一歩。
月明かりの筋の中へ踏み出す。
「それを、勝手に決めつけてんじゃねぇよ」
一歩、前へ出る。
たったそれだけで、理事長は息を呑んだ。
月光に照らされた黒衣が、やけに大きく見える。
いや、違う。……これは、恐怖の影。
「兵士にしかなれねぇ?」
低い声が落ちる。
足音が、またひとつ。
まるで処刑台へ続く階段を上がる音みたいに、やけに鮮明だった。
「道具にしかならねぇ?」
また、ひとつ。
そのたびに、理事長の心臓が嫌な音を立てる。
「お前ぇみてぇなクソ野郎が、ガキの人生に値札つけて、したり顔で“価値を与えてる”だぁ?」
アシュは笑った。
それはもう、狂人の演技なんかじゃない。
ぞっとするほど静かで、底のない、本物の笑みだった。
「反吐が出るぜ」
アシュの目が細くなる。
「てめぇは、他人の未来を盗んでるだけだろうが」
理事長の表情から、ついに余裕が消える。
「……あなたも、所詮は凡人ですか」
絞り出すような声だった。
「交渉決裂、ですね」
その言葉に応えるように、夜の空気がさらに冷えた気がした。
「──お前たち、来なさい」
理事長が鋭く声を張り上げた。
その声に反応したように、ぱたぱたと小刻みな足音が響く。ホールへ続く扉が開き、暗がりの向こうから子供たちが次々と現れた。
まだ十にも満たない、幼い子までいる。
その小さな身体が、理事長を背に庇うように広がっていく。訓練された動きだった。誰が言われるでもなく、左右へ散り、間合いをずらし、互いの位置を確かめ合うように陣形を組む。
アシュの目が、わずかに細まる。
「戦闘体勢」
理事長の命令が落ちる。
次の瞬間、子供たちは腰のケースへ一斉に手を伸ばした。
しゃり、と乾いた音。
小さな手に握られたサバイバルナイフが、月明かりの下で鈍く光る。
「あぁ?」
アシュが鼻で笑う。
「あのなぁ。ガキで俺を止められるとでも──」
「ええ。実力では難しいかもしれません」
理事長は静かに言った。
「しかし、あなたは残念ながら、思ったよりも凡庸な価値観をお持ちのようだ」
穏やかな笑みが、ゆっくりと歪む。
「そんな相手には、子供というのはこういう使い方もあるのですよ」
そして、冷たく命じた。
「──自害の構え」
その言葉を聞いた途端、子供たちは一瞬の迷いもなく、自らの首筋へナイフを当てがった。
ぎらり、と。
闇夜に照らされた刃が、細い喉元で鈍く光る。
アシュは動かなかった。
いや、動けなかったのではない。ただ、ぴたりと止まった。
理事長がその沈黙を見て、口元を吊り上げる。
「貴方が一歩動くだけで、貴方の仰る無限の可能性とやらはここで消える」
月明かりの中で、理事長の目だけが妙に冴えて見えた。
「分かりますね? 大人しくしなさい」
沈黙。
冷たい空気が、張りつめた糸のようにホール全体を覆う。
理事長は、アシュを見て小さく鼻で笑った。
所詮、こいつもただの人間か。
そう思った、その時だった。
「ク、ククク……」
俯いたまま、アシュが笑いを漏らした。
肩が小さく震えている。
その様子だけ見れば、これまでの軽薄な狂人ぶりと何も変わらない。なのに、理事長の背筋を理由の分からない不安が這い上がった。
「何を……笑っているのです」
「いや、なに」
アシュはまだ顔を上げない。
だが、笑いだけがじわじわと深くなっていく。
「あんたには感謝しねぇとなぁ」
ようやく、顔が上がる。
アシュは笑っていた。
けれど、違う。
それは昼間から見せていた、生殺しのアシュの下品な笑みじゃない。もっと静かで、もっと暗くて、底のない笑みだった。
「何でこうまで、この仕事にこだわってんのか……自分でも、いまいち分かってなかったんだよ」
ゆっくりと、言葉を噛みしめるように続ける。
「正義だの、道理だの、世の為だの。理由はいくらでもあった。今でも、それが嘘だとは思っちゃいねぇ。けどよぉ……どうにも、それだけじゃねぇって気づいちまった」
アシュの目が、月明かりの中で細く光る。
「案外、この役は打ってつけなのかもなぁ」
「な、何を言って──」
「あんたには感謝しねぇとな」
アシュが口元を吊り上げた。
「気づかせてくれて、ありがとよ。業務命令違反だが、素直に悪事を話してくれた礼に……俺もちゃんと報いるぜぇ」
そう言って、懐へ手を差し入れる。
理事長の喉が、ひくりと鳴った。
取り出されたのは、仮面。
夜よりもなお深い、漆黒の仮面だった。
「ま、まさか……」
理事長の顔から血の気が引く。
その噂を、裏の世界で知らぬ者はいない。
誰も実際には見たことがない。けれど、話だけは腐るほど聞いている。会った者は生きて帰らない。悪党だけを消し去る、夜の怪異。
夢幻黒葬。
その名が、理事長の脳裏に稲妻のように走った。
アシュは静かに仮面を顔へ当てた。
黒が、黒を喰うように馴染んでいく。
月光の下に立つその姿は、もはや昼間の男の延長ではなかった。軽薄さも、芝居がかった下品さも、そこにはない。
ただ、悪意にだけ嗤いかける、底の知れない何か。
仮面の奥から、低く、愉しげな声が落ちる。
「やっと分かった」
一歩、前へ。
子供たちはなお首元へ刃を当てたまま、微動だにしない。
だが、理事長だけは本能で悟っていた。
今、自分は、絶対に喚び出してはいけないものを喚び出したのだと。
「俺は、テメェみてぇな悪党を痛ぶるのが──」
声が笑う。
「最高に楽しいんだよ」
最強の処刑人──夢幻黒葬の、狂気だった。




