第19話 暗い影が立っている
理事長は、ほとんど尻餅をつくように後ずさった。
「お、お前たち! かかれ! 死んでもしがみついて時間を稼げ!」
悲鳴じみた命令が飛ぶ。
だが、子供たちはぴくりとも動かなかった。
「な、何をしている! 聞こえないのか!」
「……やっぱり、音で命令するんだな」
黒い仮面の奥から、くぐもった声が落ちた。
黒衣が、子供たちの間をひたひたと縫うように歩いてくる。ゆらゆらと揺れる裾は、まるで死神の影のように見えた。
「ま、まさか……音を遮断する能力……」
「──どうだかな」
理事長は喘ぐように息を吸い込み、手近にいた少女を乱暴に引き寄せた。小さな身体を羽交い締めにし、その手からナイフを奪い取る。次の瞬間、刃はためらいなく細い首筋に押し当てられていた。
白い肌に、赤い筋がすっと浮かぶ。
「く、来るな!」
仮面の男がぴたりと足を止める。
理事長はそこでようやく、ほんの一瞬だけ呼吸を整えた。助かった、とまではいかずとも、少なくとも今すぐには殺されない。そう思った、そのわずかな間。
黒衣の姿が消えた。
理事長の瞳が限界まで見開かれる。
気配がない。足音もない。視界のどこにもいない。
だが次の瞬間には、喉元に冷たいものが触れていた。
「っ……!」
声にならない悲鳴が漏れる。
自分が握っていたはずのナイフは、いつの間にか奪われている。少女の身体はすでに腕の中から外され、少し離れた床に静かに座らされていた。
何が起きたのかもわからず、ただ本能的に全身が震える。
顔のすぐ横。真横に、黒い仮面があった。
「おいおい、せっかくのお楽しみに他人を巻き込むなよ」
仮面の奥で、声が嗤う。
「言ったろ? てめぇみてぇな悪党を痛ぶるのが、最高に楽しいってよ」
理事長の膝が崩れた。
そのまま床へ転がるように倒れ込む。逃げようとした腕も足も、次の瞬間には思うように動かなかった。身体が見えない何かに押さえつけられたみたいに、床へ縫い留められている。
「な、なにを……なにをした……!」
「さぁなぁ」
アシュはしゃがみ込み、倒れた理事長の顔を覗き込んだ。
その仕草だけ見れば、友人にでも話しかけるような気安さがある。けれど、仮面越しの気配は夜の底そのものだった。
「な、何を、する気だ!?」
「それは、もぅ──」
黒い仮面が笑う。
「楽しぃコトだ」
◆ ◆ ◆
後日。
リリスの執務机の前に、特案二課の課長を先頭に、シイナとアシュが並んでいた。
「以上が今回の報告です」
シイナが胸を張って言う。
「こちらの資料にまとめた通り、慈愛の庭財団を夜帷の正式な協力組織として推薦します」
「……分かったわ。二人ともお疲れ様」
リリスはデスクに座ったまま、軽く目を通していた書類を机の上に置いた。
「では、これで失礼します」
課長がそう言って踵を返す。
三人が部屋を出ようとした、その時だった。
「アシュ。あなただけ残って」
「……あぁ? 何でだよ」
「業務命令よ」
渋々といった顔で、アシュが足を止める。
課長とシイナは一瞬だけ不安そうに顔を見合わせたが、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まり、しばらくして、部屋には二人きりになる。
机越しにアシュを見つめたまま、リリスが口を開いた。
「──何したの」
「何って、仕事だが」
やや気まずそうに返すアシュに、リリスは疑いの目を向ける。
アシュはほんの少しだけ視線を逸らした。
「確かに、財団周りの怪しい金の流れがピタリと止まったみたいだけど」
リリスが姿勢を変えてアシュの目を追う。
「本当に大丈夫なの? あそこ」
「あぁ」
アシュは肩をすくめる。
「報告書にもあるだろ。理事長さんも、『“命に変えてでも”子供達の明るい未来は約束します』とさ。いい人だな」
「そのいい人が、廃人寸前で何かにビビリ散らかしてたらしいけど。……とんでもない化け物でも見たのかしらね?」
ナイフのような視線がアシュを刺す。
何も答えないアシュ。
リリスはしばらく黙っていた。
それから、深くため息をつく。
「……あのね。うちも評判商売なの。分かる?」
机の上で指を組み、じっとアシュを見る。
「脅迫か洗脳が拷問か知らないけど、あんまり悪どい事しないでくれる?」
「な、何のことだ。人聞きが悪いぞ」
アシュは露骨に目を逸らした。
その反応だけで十分すぎるほど答えになっている。
リリスはまた小さく息をつき、それ以上は追及しなかった。
「まあいいわ。結果として、子供たちの受け皿は残った。元の目的も達成。今回だけは見なかったことにしてあげる」
「今回“だけ”?」
「次はもう少し上手くやりなさいって意味よ。分かった? “生殺しのアシュ”」
アシュは鼻を鳴らし、気まずそうに頭を掻いた。
リリスはそんな彼を見ながら、ふと目を細める。
「でも、少しだけ意外だったわ」
「あぁ?」
「あなた、案外その役、嫌いじゃなくなってきたんじゃない?」
一瞬だけ、空気が止まる。
アシュは何も言わない。
言い返さないまま、ただ口元だけを僅かに歪めた。
それが肯定なのか、否定なのか、自分でもまだ分かっていないような曖昧な笑みだった。
「……知らねぇよ」
ようやく落ちた声は、妙に低かった。
リリスはそれ以上何も言わなかった。
窓の外では、街の夜景が静かに瞬いている。
夢幻黒葬。
生殺しのアシュ。
どちらが仮面で、どちらが本性なのか。
その境目は、もう本人にすら曖昧になり始めていた。
けれど一つだけ確かなことがある。
子供を食い物にするような外道には、夜が訪れるび、確かに悪夢が近づいているということ。
街のどこかで今日もまた、善人の顔を被った悪党が、何も知らずに眠りにつく。
そしてその夢の端には、きっともう、黒い影が立っている。
【完】
お読みいただき本当にありがとうございます。
当初は長期連載する予定でしたが、一章にて完結と致しました。消化不足な点、申し訳ありません。
他作品も投稿致しますので、もし宜しければ読んでいただけると幸いです。




