第17話 何なんだよそのナイフ!?
「貴方は……昼間の」
理事長の目が細くなる。
月明かりの差すホールの暗がりから現れた男を見て、その顔に初めてはっきりとした警戒が浮かんでいた。
「あぁ、その節はどうもぉ」
アシュはだるそうに片手を上げる。
まるで道端で知り合いに会ったような、そんなふざけた調子だった。
「何故ここに。警備はどうした!?」
理事長の声が、わずかに荒れる。
「あぁん?」
アシュはクックッと喉の奥で笑った。
「警備ならしっかり見回りしてるぜぇ? 孤児院にしちゃ厳重すぎるくらいには、なぁ。まるで、何かやましいモンでも抱えてるみてぇじゃねぇか」
理事長は一瞬だけ口を閉ざし、すぐにいつもの穏やかな仮面を貼り直した。
状況はわからない。けれど、この男は何かしらの手で警備を掻い潜ってここまで来たのだ。
「……貴方こそ、どういうおつもりですか」
至って冷静に問いかける。
「夜間に無断で施設へ立ち入るなど、いくら夜帷の方とはいえ看過しかねます」
「そう言うなよぉ」
アシュは肩をすくめた。
「同僚のやり残した仕事を片付けにな。俺ってこう見えて、仲間思いなんだぜぇ」
くっくっと笑い、口元を吊り上げる。
「……リオ、とかいうガキを迎えに来た」
理事長の目が、ほんの僅かに揺れた。
頭の中で、いくつもの可能性が一瞬で巡っていく。
あの小娘──シイナの記憶は確かに操作した。なのに何故その事を……?
まさか夜帷には記憶を再度掘り起こす異能でもいるのか? あれほどの組織だ。あり得なくはない。
だが、もし本当にこちらの事情が完全に露見しているのなら、こんな迂闊に踏み込んで来るはずがない。もっと戦力を整え、証拠も押さえ、確実に潰しに来るはずだ。
なのに、目の前にいるのは、この男一人。
つまり──ブラフか。
理事長はそう結論づけた。
「……何のことでしょうか」
知らぬふりを貫くように言う。
だがアシュは笑みを深くしただけだった。
「おぃおぃ、惚けんなよぉ」
その声だけが、やけに低い。
「お前らは子供を洗脳して、少年兵として武装勢力に売り飛ばしてる。で、その証拠になるガキを、ちょうど今から“処理”しようとしてた」
理事長の眉が僅かに動く。
アシュは構わず続けた。
「証拠なら他にもあるぞ? なんと、都合のいいことに。こっちにはその洗脳を受けた奴も居るからな。そのガキの証言と合わされば、証拠としては十分すぎるくれぇだなぁ」
理事長の顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
この男──そこまで読んで、わざのあの小娘を泳がせていたのか? まさか、夜帷の罠……。
いや、違う。
あの小娘へ祝福を与えたのは予定外だった。つまりこの男のアドリブ。ならば……まだ打つ手はある。
「やれやれ」
理事長が息を吐く。
「あの小娘といい、貴方といい……やはり夜帷が相手では一筋縄ではいきませんか」
そして、軽く指を鳴らした。
次の瞬間、ホールの奥や脇の扉から男たちが現れる。
昼間、シイナを取り押さえた連中だ。大柄な体格に、隠す気もない殺気。すでに臨戦態勢だった。
「リオさんの祝福がまた後回しになってしまいますが……仕方ありません」
理事長は静かに言った。
「その愚か者を、捕らえなさい。不法侵入者ですから、多少手荒でも構いません」
次の瞬間、男たちが一斉に踏み込んだ。
月明かりを裂くように、数本の刃が同時に走る。左右、正面、背後。隙なく包囲し、全ての攻撃が容赦なく急所を狙ってくる。到底素人ではない動きだった。
だがアシュは動じない。
ゆらり、と。
酔っ払いみたいな頼りない足取りで、するりと一歩だけずれる。
それだけで、最初の二本のナイフが空を切った。
「おっとぉ」
アシュは笑いながら、ひらりと半歩回る。
その動きの最中、懐から取り出した細身のナイフを、ベロリとこれ見よがしに舐めた。
男たちの警戒が一斉にナイフへ向く。
その隙に、右から飛び込んできた男の手首を、アシュは空いた手で軽く払った。ほんのわずかな接触なのに、男の体勢が大きく崩れる。そこへ踏み込みざま、鳩尾へ掌底。
空気を吐くような呻きとともに、巨体が折れた。
「一人ぃ」
間の抜けた調子で数えながら、またナイフをぺろりと舐める。
次の男が怒声を上げて突進した。今度は低い位置からの刺突。致命傷狙いだ。
アシュはその刃先を見もしないまま体を開き、かわす流れで男の首筋へ手刀を打ち込む。男の身体が前のめりに崩れたところへ膝蹴り。床へ叩き伏せる。
「二人ぃ。どうしたどうしたぁ? そんなもんかよぉ!」
笑い声だけが不気味に響く。
三人目、四人目が同時に間合いを詰める。完璧に連携の取れた動き。左右からの挟撃。逃げ場を潰した上での横薙ぎ。
よく訓練された技だ。避けようがない。
だがアシュは、そこでもふらりと揺れた。
一瞬、身体が月明かりの中でぶれる。
斬った! と思った刃は何の感触もなくすり抜け、男たちの表情が凍りつく。
「は?」
次の瞬間には、アシュは二人の背後にいた。
月光に濡れたナイフを、執拗に舐めながら。
そのまま片方の膝裏を蹴り抜き、もう片方の後頭部へ肘を落とす。二つの身体がほぼ同時に崩れ落ちた。
「三、四人〜っと」
理事長の目が険しくなる。
「……なるほど」
低く呟く。
残った男たちが、さすがにたじろいだ。
アシュは細身のナイフを指先で弄び、またぺろりと舐める。
いや、何なんだよそのナイフ!? 使わねぇよかよ!?
誰もそれに突っ込む余裕がなかった。
最後の一人が叫びながら飛び込む。
アシュは一歩踏み込み、その懐へ自分から入った。腕が振り下ろされるより早く、拳が男の喉元へめり込む。続けて顎先へ打ち上げるような掌底。
男は白目を剥き、その場に崩れた。
──静寂。
床に転がるのは、倒れた男たちだけ。
アシュは立ったまま、何事もなかったようにナイフの刃を眺めている。
「さすがは夜帷の構成員……あなたも、異能力者ですね」
理事長が静かに言った。
「さぁなぁ」
アシュはなおも口元を歪める。
「視界を操り、残像を見せる異能……といったところでしょうかね」
「どうだかなぁ」
アシュはくくく、と笑った。
答えない。
いや、答える気すらないのだろう。
月明かりの下、その笑い声だけが妙に湿って聞こえた。




