第16話 問題は見当たりませんでした
空が茜色に染まりかけた駐車場に、三つの人影が戻ってきた。
先頭を歩くのはシイナ。
その後ろに理事長と、昼間に案内役を務めていた女性職員が続いている。
シイナは車の助手席側に回り込み、窓を軽く叩いた。
「アシュさん。起きてください!」
車内では、背もたれを倒したアシュが、本当に寝ていたらしい。気だるそうに片目を開け、ゆっくりと上体を起こす。数秒遅れて、助手席側の窓がすうっと下がった。
「……あぁん?」
まだ眠そうな声だった。
「理事長さんがお見送りに来てくれましたよ」
シイナがそう言うと、アシュは面倒くさそうに目を細め、窓の向こうに立つ理事長へ視線を向けた。
「わざわざ大層なこったなぁ」
理事長は昼間と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、一礼する。
「いえいえ。夜帷とは、これからも良い関係を築いていきたいと思っておりますので」
「へぇ」
アシュはそれだけ返し、特にそれ以上の反応も見せなかった。
シイナは運転席へ回り込み、車へ乗り込む。エンジンがかかり、車体がゆっくりと駐車スペースを離れた。
バックミラーの中に、見送る理事長たちの姿が小さく映る。理事長は最後まで、穏やかな表情のまま見送ってくれた。
その姿が遠ざかっていくのを見ながら、シイナは少しだけ肩の力を抜く。
車が敷地の外へ出て、郊外の道へ乗ったところで、助手席から声が飛んだ。
「で、どうだった?」
アシュは窓の外を見たまま、気のない調子で尋ねる。
「はい」
シイナははっきりと頷いた。
「武器の横流しなんて、根も葉もない噂です」
その言葉には迷いがなかった。
「確かに、嫉妬して変な噂が立つのも分かるくらい、立派な施設でしたよ。子供たちの教育も行き届いていましたし、設備も整っていました。……理事長さんも、本当に子供たちのことを考えておられる方でした」
アシュは何も言わない。
ただ、口元だけがほんの少し歪んだ気がした。
だがシイナはそれに気づかない。
車はそのまま、夜帷の本拠地へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
職場へ戻ると、特案二課の部屋には課長がまだ残っていた。
机の上に広げた書類から顔を上げ、二人を見る。
「お、戻ったか。どうだった?」
シイナは姿勢を正し、簡潔に報告した。
「はい。現地を確認しましたが、噂は誤りと判断してよいと思います。施設運営も極めて良好で、設備も充実していました。子供たちへの対応も丁寧でしたし、問題は見当たりませんでした」
「……そうか」
課長は一瞬言葉に詰まりながらも、頷いた。
「今後は、夜帷で保護した子供たちの受け入れ先候補として、前向きに検討して良い施設だと思います」
「わかった。そこまで言うなら、問題無さそうだな」
そして視線をずらし、隣で黙って立っているアシュを見る。
「アシュさんの見解も変わりありませんか? 本件はアシュさんの初任務ということもありますし、リリスさんへも報告することになっていますので」
課長の問いに、アシュは一拍置いた。
それから、いつものねっとりした笑みを浮かべる。
「そいつがそう言うなら、そうなんだろぉ?」
シイナがきょとんとする。
アシュは肩をすくめた。
「俺みてぇな奴の言うことより、自分の部下を信じてやりな」
その言い方は軽い。
けれど、どこか妙な含みがあった。
課長は一瞬だけ眉をひそめたが、結局それ以上は追及しなかった。
「……まあ、アシュさんがそうおっしゃるなら」
書類へ視線を戻しながら、そう締める。
「分かった。じゃあこの件は、ひとまずその方針で上へ回しておく」
「はい!」
シイナは元気よく返事をした。
その横で、アシュはくっくっと喉の奥で笑う。
誰にも聞こえないくらい、小さく。
◆ ◆ ◆
夜の帷が降り切った頃。
慈愛の庭財団の施設──その別館。
そこは昼間とはまるで別の建物のようだった。
窓の外から差し込む月明かりだけが、白い床を冷たく照らしている。廊下の奥は闇に沈み、人気のない静けさがどこまでも張りつめていた。
かすかに、鎖の擦れる音が響く。
窓に鉄格子が嵌められた小さな部屋。
簡素な寝台と、机と、壁際の棚。表向きには“宿舎”と呼べなくもない部屋だった。だが、中央の椅子に繋がれた小さな影が、その呼び名の嘘を暴いていた。
リオが、鎖に繋がれていた。
両手首に嵌められた拘束具から伸びる鎖が、椅子の脚へと固く結ばれている。逃げようともがいたのだろう。細い肩は上下し、呼吸は浅く乱れていた。
きしむ音を立てて扉が開く。
理事長と、昼間の女性職員が中へ入ってきた。
「やれやれ」
理事長は困ったように肩をすくめ、いつもの穏やかな声音で言った。
「お待たせしました。今日は、あの小娘に力を使ってしまったせいで、あなたへの祝福が遅くなってしまいましたね。申し訳ありません」
その言葉に、リオはびくりと身体を強張らせた。
「いやだ……やめて……」
震える声で叫ぶ。
「あのお姉さんに、何したの!?」
理事長は首を傾げる。
「あなたも見たでしょう。あれが私の力──祝福です」
柔らかく、諭すような口調だった。
「これで彼女も、私たちも、共に幸せになれたのです」
「嘘……!」
リオは必死に身体を引こうとする。鎖がじゃらりと鳴り、椅子が軋んだ。だが小さな力でどうにかなる拘束ではない。
女性職員が無言で歩み寄り、リオの肩を押さえつける。
「離して……っ!」
「大丈夫よ、リオ」
その声はどこまでも優しかった。
「少し怖いのは最初だけ。すぐに楽になるわ」
理事長がゆっくりと手を伸ばす。
白く、細い指先。
だがリオには、それが刃物よりも恐ろしく見えた。
「いや……いやぁ……!」
恐怖に耐えきれず、リオの喉から嗚咽が漏れる。
その時だった。
『くくっ……』
背後から、湿った笑い声が落ちた。
『随分とまぁ、分かりやすい悪党だなぁ』
理事長の動きが、ぴたりと止まる。
女性職員も弾かれたように振り返った。
「誰です!?」
理事長が鋭く声を放つ。
だが、返事はない。
どこから聞こえたのか分からない。部屋の中ではない。扉の向こう、廊下、いや……ホールか。
理事長は眉をひそめ、ゆっくりと部屋の外へ出た。
月明かりの差し込むホールは、昼間よりずっと広く見えた。白い床に落ちる影が濃く、柱と柱の間には黒い闇が溜まっている。
その暗がりの一角から。
音もなく、一人の男が姿を現した。
気だるげに立つその姿は、昼間に一度見ている。なのに今は、まるで別の何かに見える。
夜帷の、頭のイカレた男──アシュだ。




