第15話 そんなの、ただの支配です
「やめてください! リオちゃん、嫌がっています!」
鋭い声が、静まり返った部屋に叩きつけられる。
理事長の顔に、ほんの僅かな驚きが浮かんだ。
それは長くは続かなかったが、確かに一瞬、仮面がずれた。
「も、申し訳ありません」
隣の女性職員が顔色を変える。
「まさか、後ろをつけられていたとは……」
リオは、眼前に伸ばされていた理事長の手から逃れるように身体を引き、怯えきった目でシイナを見た。
「理事長さん……」
シイナの喉が震える。
「何かの間違い……ですよね?」
問いかける声は、自分でも情けないほど頼りなかった。
だが、できれば否定してほしかった。
誤解だと言ってほしかった。
しかし。
さっきまであれほど穏やかだった理事長の声は、次の瞬間には別人のように低く沈んでいた。
「まいりましたね。鈍そうな小娘と、頭のイカれた男を寄越してきたものだから」
その声色には、もう慈愛のかけらもない。
「夜帷も余程の人員不足かと思いましたが……侮りすぎましたか」
シイナの背筋に冷たいものが走る。
「どうして……!?」
理事長はゆっくりとリオを見下ろし、それからシイナへ視線を移した。
「どうして、こんな事を? ですか」
静かな声音だった。
「ここにいる子供たちは、迷える子羊です。まともな教育を受けていないし、親の愛情も知らない。社会に出たところで、ろくな職に就ける見込みも薄い」
一歩、シイナの方へ歩み寄る。
「そんな子供たちに、価値を与えているのです」
「価値……?」
「ええ」
理事長は当然のことのように言った。
「兵士。兵士なら、学力や能力がなくとも、命令を聞けるだけの知能さえあれば問題ない。むしろ余計な知恵が無いほうが、従順で、扱いやすく、代えも利く。……行き場のない孤児をそのまま社会に放り出せば、いずれ野垂れ死ぬか、裏社会に食い物にされるだけでしょう。ですから、私が生きる道を──この社会に必要とされる役割を、与えているのです」
シイナは目を見開いた。
「そんなの……!」
言葉が震える。
「そんなの、大人が勝手に決めていいものじゃありません!」
シイナは一歩踏み出した。
「この子たちはまだ子供です! これからいくらでも学べるし、変われるし、普通に生きていけるかもしれない! 勝手に兵士にしかなれないって決めつけて、勝手に人生を奪って……そんなの、ただの支配です!」
理事長の目が、わずかに細くなった。
「たかが小娘に、何が分かる」
その声と同時だった。
理事長が軽く指を鳴らす。
すると、部屋の奥や脇の扉から、ぞろぞろと数人の男たちが現れた。
大柄で、鍛えられた体つき。
立ち姿ひとつで分かる。少なくとも、ただの施設職員ではない。
「素晴らしいでしょう?」
理事長が誇らしげに微笑む。
「我々は慈悲深いのですよ。子供たちには兵士として、できる限りの戦闘経験を積ませています。こうして“プロ”の講師も多く招いておりましてね」
気づけば、シイナはじりじりと包囲されていた。
逃げ道がない。
リオが小さく息を呑む。
シイナも思わず一歩後ずさったが、すぐに歯を食いしばって姿勢を低くした。
「安心してください」
理事長は、あの穏やかな笑みだけを顔に戻してみせた。
「あなたは大切なお客様です。今後ともお互いに良い関係を結んでいきたいですし、その偏った思考を改めていただくため、少し祝福を与えさせていただくだけですよ」
祝福。
その言葉の意味に、シイナはもう心当たりがあった。
「……記憶を操作する系の能力者ね」
絞り出すように言うと、理事長は答えない。
肯定も否定もしない。
それが答えだった。
「捕まえなさい。怪我はさせないように」
理事長の一言で、男たちが一斉に動く。
シイナは床を蹴った。
最初に飛び込んできた男の懐に潜り込み、鳩尾へ鋭く掌底を叩き込む。巨体がくの字に折れたところで、その膝裏を払って体勢を崩す。
男の短い呻き。
そのまま肩越しに投げ飛ばす。
床へ叩きつけられた身体が鈍い音を立てた。
「っ……!」
だが、すぐに次が来る。
左右から同時に迫る二人。そのうち片方の拳を受け流しながら、もう一方の足元を蹴り払う。倒れた男の頭上を越えるように一歩跳び、着地と同時に回し蹴りを放つ。
シイナはその隙にリオの前へ回り込んだ。
せめて、この子だけでも守らないと。
「リオちゃん、下がって!」
「お、お姉ちゃん……!」
リオの怯えた声が背中に刺さる。
シイナの動きを見て、男たちは一瞬顔を見合わせた。
若く、小柄な女。
それだけを見て、たぶん甘く見ていたのだろう。
けれど、シイナは決して弱くない。
確かにまだ経験は浅い。実戦慣れも足りない。
それでも夜帷にいる以上、基礎の訓練は叩き込まれている。少なくとも、何もできずに捕まるような素人ではなかった。
「小娘とはいえ、夜帷の一員ですか。子供のように……とはいきませんね」
理事長が静かに言う。
その声音に焦りはない。
まるで、多少善戦することすら想定の内だと言わんばかりだった。
「見える所に傷さえつかなければ、多少手荒でも構いません」
理事長の指示を受け、正面の男が大振りに踏み込んできた。
シイナがそちらを捌いた瞬間、死角から別の腕が伸び、手首を掴まれる。
反射的に振りほどこうとするが、そのわずかな硬直を狙ってさらに二人が飛び込んでくる。
「しまっ──」
肩を押さえ込まれ、足を払われた。
視界がぐるりと回る。
床に叩きつけられる衝撃。息が詰まる。
「かはっ……」
すぐに起き上がろうとしたが、背中に膝が乗った。腕を捻り上げられ、肩口に重みがのしかかる。小柄な身体では、さすがにこの人数差は覆せない。
「くっ……!」
もがく。
だが、押さえ込む腕はびくともしない。
頬が冷たい床に押しつけられる。
体重をかけて抑えられているせいで、息をするのもやっとだ。
視界の端で、理事長の靴先がゆっくり近づいてくるのが見えた。
「お、お姉ちゃん!」
リオの叫びが上がる。
その声に反応して顔を上げようとするが、さらに強く押さえつけられた。
理事長がシイナの前で足を止め、穏やかな顔のまま、静かにしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですよ」
ひどく優しい声だった。
「少し、夢を見ていただくだけです」
その手が、ゆっくりと伸びてくる。
白く細い指先。
けれどシイナには、それが氷よりも冷たいものに見えた。
逃げなければ、と本能が叫ぶ。
だが、身体は押さえ込まれて動かない。
理事長の手が──シイナの頭へ触れた。




