第14話 もしかしたら、誤解かもしれない
医務室の前まで来たところで、シイナは足を止めた。
扉の側に背の高い植木鉢がいくつか並んでいる。身を隠すには心許ないが、今はそれしかない。
息を潜め、葉の陰へそっと身体を寄せる。
医務室には窓がなく、中の様子は見えない。だが扉越しにかすかな声なら拾えた。
「……うん、傷は深くないみたい。大丈夫ね」
さっきの女性職員の。やわらかく、優しい声。
それに続いて、小さな声が震える。
「ごめんなさい、先生。上手く出来なくて」
リオだ。
シイナは思わず指先に力を込めた。
「……リオ。責めるつもりはないけれど、あなた、もう少し自覚を持たないと」
職員の声はまだ穏やかだった。けれど、その奥には何か硬いものが混じっている。
「このままじゃ、巣立っていったお兄さん、お姉さんたちみたいに立派になれないわよ」
一拍の沈黙。
そのあと、か細い声が落ちた。
「わたし……。兵士になんてなりたくない」
シイナの心臓が跳ねる。
兵士。
今、確かにそう言った。
食堂でのアシュの言葉が脳裏を掠めた。
施設を囲む高い壁。
偏った教育。
ばらばらだった違和感が、一瞬で嫌な線を結び始める。
そして次の瞬間。
さっきまで優しく聞こえていたはずの職員の声が、急に冷えた。
「リオ。何度も言わせないで」
空気が変わる。
「あなたたちも、いつまでもここには居られないの。一人で生きていくために、立派な兵士になって、あなたたちを必要としてくれる組織に行くの」
シイナの喉がひゅっと鳴った。
「また、誰からも必要とされない子に戻りたいの?」
返事はない。
代わりに聞こえてきたのは、押し殺した啜り泣きだった。
背筋を冷たいものが這う。
責めるつもりはないと言っておきながら、与えているのは慰めではない。脅しだ。見捨てられる恐怖を使って、従わせようとしている。
「はぁ……しかたないわね」
職員がため息をつく。
「理事長先生にお話を聞いて頂きましょう」
椅子が引かれる音。
そして足音がこちらへ近づいてくる。
シイナははっとして、咄嗟に廊下の角まで戻り身を隠した。
扉が開く。
リオは顔を伏せたまま、女性職員に手を引かれている。
泣いてはいない。だが、小さな肩は怯えたように強張っていた。
二人がシイナのすぐ側を通り過ぎていく。
シイナの心臓は、うるさいほど早く打っていた。呼吸が浅い。口から漏れそうになる息を、必死で押し殺す。
バレては……ない。
周囲へ最大限の注意を払いながら、シイナは二人の後を追った。
◇ ◇ ◇
二人が向かったのは、本館から少し離れた別館だった。
同じ白い外壁の建物。
だが、こちらはどこか空気が違う。中庭の開放感から切り離されたようにひっそりとしていて、人の気配が薄い。広い敷地の片隅で、そこだけ静寂が沈殿しているようだった。
女性職員は迷いなく扉を開け、中へ入っていく。
ここまで尾行してきた感触からして、あの職員は戦闘や索敵の心得はない。少なくとも、夜帷のエージェントであるシイナに比べれば素人のようなものだ。
なら、追える。
シイナは一度だけ深呼吸し、意を決して別館の中へ足を踏み入れた。
中は静まり返っている。
物音ひとつしない。
空気まで冷たく感じるような廊下を、二人の足音だけが先へ進んでいく。
やがて、一つの扉の前で足が止まった。
職員が扉をノックする。
「理事長先生、少しよろしいでしょうか」
「どうぞ」
中から、理事長の穏やかな声が返ってきた。
女性職員が扉を開け、リオを連れて中へ入る。
扉が閉まる寸前、シイナは素早く距離を詰めた。気配を殺し、壁に身体を沿わせる。耳を澄ます。
「……おや、リオさん。どうかされましたか。お怪我を?」
理事長の声音は、あくまで優しい。
「ええ。鬼ごっこの途中に額を打って」
「あぁ、それは大変だ。傷が残らなければ良いですが」
その穏やかさに、シイナはほんの少しだけ安堵しかけた。
もしかしたら、誤解かもしれない。さっきの職員が何か勘違いしているだけで、理事長は本当に子供たちの味方なのかもしれない。
そう思いかけた矢先だった。
「怪我は大したことないのですが、それより……リオがまた我儘を言いまして」
「リオ、兵士になんてなりたくない、です」
優しい空気が、音もなく軋む。
「……リオさん」
理事長の声は、やはり穏やかだった。
穏やかなまま、淡々と告げる。
「いいですか。あなたたちは皆、いずれ独り立ちして自分で暮らせるようにならないといけない。私たちも、ずっとは護ってあげられないのです。だから、一人で生きていく術が要るのですよ」
「でも、出て行ったお兄さん、お姉さんたちはどうなったの? 誰も戻ってこない!」
リオの声は震えていた。
「みな、立派に役割を果たしたのですよ」
「みんな、戦場で死ぬんでしょ!?」
シイナの心臓が嫌な音を立てる。
沈黙。
短いはずなのに、ひどく長く感じる間だった。
やがて理事長が、ゆっくりと口を開く。
「リオさん。ここがどんな建物か知っていますか?」
「……はい。巣立ちが決まったお兄さん、お姉さんたちの宿舎です」
「そうです」
理事長は穏やかに肯定した。
「いくら立派に体を鍛えても、あなたたちは精神的にはまだ幼い。戦うことに恐怖を覚えるのは、仕方のないことかもしれません」
そこで、声にわずかな熱が混じる。
「そのために、私の祝福があるのです」
シイナは息を呑んだ。
──祝福。
言葉だけなら聞こえは美しい。
けれど今この場で、それが本来の意味の通りとは思えなかった。
「こっちへ来なさい」
「……いや。いやだ!」
「心配いらないわよ、リオ」
今度は女性職員の声だ。さっきまでの優しい先生の声のまま、言葉の端だけが歪んでいる。
「祝福された子たち、みんな変になる! お人形さんみたいに!」
叫ぶようなリオの声に、シイナの全身が粟立つ。
「私の異能で、恐怖を消し去ってあげるのです。さあ、あなたも」
「嫌だ! リオ、あんなのになりたくない! はなして!」
その悲鳴を聞いた瞬間、シイナの中で何かが切れた。
もう十分だ。
視察は終わりだ。
ここに子供たちを預ける? とんでもない。
ここは、子供を保護する施設の皮を被った、まったく別の何かだった。
シイナは拳を握りしめ、勢いよく扉を開けた。




