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29.わたしが消えた




「おい、おいって!」



靴下のまま大股で廊下を直進していると、草野君が追いついて肩を並べてきた。



「勝手にひとりで行くな」


「なにそれ。どこに行こうがわたしの勝手じゃない」


「状況を飲み込めてないやつが強がるなよ。まだ置かれた環境に慣れてもいないだろうに」


「ふざけないでよ。何カ月この学校に通ってきたと思ってるの」



話しながら、草野君の歩くリズムが一定でないことに気がついた。怪我をしているのか、右足をかばうような歩き方をしている。



「そうじゃねえって」



前髪をかきながら隣でうなだれられたって、知ったこっちゃない。いらいらするなら付いてこなければいいだけだ。

構わず進んでいたけれど、階段に差し掛かったところで草野君の足が止まる。



「……どこに行くんだ」


「靴とカバンを取りに行くの。じゃないと帰れない」



言った途端、草野君は渋い顔になった。



「もう、捨てられているかもしれない」


「どうしてそんなこと言うのかな。いいよ、確かめるまで信じないから」



段を駆け上がり、踊り場で振り返る。

階段の下から3分の1くらい上ったくらいのところで、草野君は右膝を手で押さえ止まっていた。



「痛いなら保健室に戻れば?」



見放されるよう冷たく言ったのに、彼はぐっと唇をかみしめて足に力を入れてしまう。



「………行く」



その姿に、胸が痛みだす。

着いて来て欲しいとか、頼んでなんかいない。むしろ迷惑だってのに。

なのにどうしてわたしのほうが悪いことをしている気分になってしまうんだ。


信じられない。信じてはいけない。

突拍子もないことを事実として押し切ろうとしている人たちだよ。


草野君だって佐野君たちの仲間だってのに。

背中を向けて全力で上階を目指すのは簡単だ。でも、どうしても心にストップがかかってそれができない。


結果、わたしは気持ちに整理を付けるためだと自分に言い訳をして、ゆっくりと階段を上った。


3階の女子トイレの掃除ロッカーに隠したローファーは見つからず。

4階理科室に置きっぱなしのはずの通学カバンにいたっては、部屋が施錠されていて中を探すことすらできなかった。


草野君のほらなと言いたげな表情にカチンとくる。

これはもう職員室で落とし物がなかったか聞いたほうが早いか。


掃除ロッカーは清掃時に必ず開けているだろうし、理科室も授業で使用していたら誰かが必ず気付くはずだ。



「職員室に行く」


「人と会う気か」


「その言い方、わたしが誰かと会っちゃいけないの?」


「いや……。制服を着てるならクラスさえ言わなければ問題はないはずだ」



よくわからない助言に首をかしげながらも、4階から2階の職員室へ。目的地に行きついてドアに手をかけようとしたタイミングで中から人が出てきた。


驚いて体がびくつく。

さらにはその人物が今井先生だったことに、二段構えでぎょっとした。


今朝の出来事もあって、かなり気まずい。



「おっと」



今井先生が半身になってわたしを避ける。拍子抜けなほど自然の動作だ。先生がわたしを意識したのはぶつかりそうになった一瞬だけだった。



「ああ、草野か。今日も部活か?」



あれ、と思う間もなく先生は草野君に気付いてそちらに顔を向けてしまう。



「先生、こいつ日中に理科室でカバンを置き忘れてしまったらしいんです。そういうのって、こっちに届いてたりしませんか?」


「あー、ああ。ちょっと待ってろ」



わたしたちがここへ来た目的を理解し、今井先生が職員室に戻った。


普通だ。あまりにも普通だった。

もっとこう、わたしみたいに緊張して気まずくなったり、ホームルームで勝手に教室を出ていったことを注意したり、何かしらの反応があると思ったのに。


しばらくして職員室のドアが開く。

出てきた今井先生はわたしに向けて首を横に振った。



「今のところ、カバンの類は届いていないな。4限目に2年のクラスが理科室を使っていたんだが、最後に施錠した担当の先生もそんなものはなかったと言っていたぞ」


「……そうですか。ありがとうございます」


「ああ。気を付けて帰るんだぞ」



言うのが早いか、さっさと立ち去ってしまおうとする今井先生にわたしのほうが焦り出す。



「あの、今井先生!」



先生は足をとめて、わずらわしそうにわたしを見た。



「……今朝の、ことは……」



睨むような真顔にびくびくしながらしどろもどろ告げる。

今井先生は眉を寄せて考え込んだ。



「今朝? 何かあったか」


「えっ、……あの、教室での」


「……教室?」



怪訝な顔で今井先生が首をかしげる。

あんなに怒鳴っていたというのに、どうして記憶に引っかからないんだ。



「悪いが心当たりがないな。今日はもう遅いから、話があるなら後日聞こう。ただ、君の担任の先生か誰かと俺を勘違いしてるんじゃないかと思えるんだが……」



担任って、わたしの担任は今井先生じゃないの?

棚上先生があんなことになって、ホームルームで教室に入ってきた今井先生は自分がこのクラスの担任だって言ったじゃないか。


今日は用事があるから早く帰りたいんだと呟きながら、先生は立ち去ってしまった。

黒いビジネスバッグを片手に持っていたので、退勤したところだったのかもしれない。



「教室、行っていい?」



言い知れぬ不安を感じ草野君に尋ねる。彼はため息をつきつつもそれで気が済むならと頷いてくれた。


1年4組の教室。

今朝登校した時と違い強烈な臭いは、微かに残る程度だ。棚上先生の姿もない。


規則的に並ぶ机は、35台。

今日はまともに数えてなかったけど、昨日の登校時から考えるとふたつ少ない。

教卓に貼られた座席表を見ると、席順がおかしなことになっていた。また席替えがあったようだ。


教室にはわたしと草野くんの他に生徒の姿はない。

人目を気にせず何度も何度も、表に書かれた名前を指でひとつずつ確認しながら順番に目で追った。


繰り返すごとに、頭が真っ白になっていく。


これはいじめか? だって、わたしはここにいるよ。



——栗原 カナメ。


——築山 マリ。



あって当然の文字はどれだけ探しても見つからない。


閑散とした教室を教壇の上から見下ろす。

血だまりはもうない。だけど気の床には茶色いシミが広く残っている。



「食われた人間の痕跡を消しているのもまた、人間だ」



ドアの前にいた草野君が教室の中央へと歩き出す。



「本来見えているはずのものを脳が意図して視界から失くすってのは、かなりのストレスになるんだろ。だから捕食されて消えた人間の痕跡は、無意識のうちに人の手によって排除される」



都合の悪いものは、はなくなってしまえばストレスも軽減されるから。



「もっとも、床を拭いたやつも、棚上先生を退かしたやつだって、自分が何をしたのかその時のことは覚えていないだろうけどな」



かつてわたしの机があった場所——床のしみが最も濃い位置で草野君は立ち止まりうつむく。



「棚上先生も、カナメがやったっていうの」


「……いや、あいつらは食事目的でしか人を襲わない。腹いせや享楽のままにいたぶるのは、人間を捕食する連中を食らうやつらだ」



誰のことを指示しているのか、察しはついた。

頭の中で警鐘が鳴る。


昨日の放課後……、わたしはどうした?


……だめ。——そこから先は考えちゃだめだ。


わたしが理科室から教室に逃げた後、棚上先生と佐野君の間で、何があった——?


……駄目だ。いけない。今思い返してもどうにもならない。


頭を強く振って、自責の念を忘れようともがく。

気を紛らわすためにも、違うことを考えないと。



「どうして、キスのひとつでわたしは消えたことになるの? カナメにされたのは理科室なのに、どうして教室にいる人にまで影響が出るのよ」


「確かな理由なんて俺に分かるわけないだろ。前にヨシアキたちに聞いたが、臭いも色もないフェロモンのようなものがどうこうとしか教えてくれなかった。あいつらは、俺にそんな仕組みの理解なんて求めてないんだよ!」



草野君が顔を上げた。眉間にしわが寄った、強がっていても優しいそうな目と視線が絡む。


この顔を、わたしは知ってる。

憶えている。昔の面影と、彼が重なった瞬間だった。



「でも、確かに俺もそうやって、10年前に消えたんだ。お前は、知ってるんじゃないのか」


「……うん」



ああそうだ。

わたしが知っている、かつてのカズ君は世界から消えてしまった。


幼稚園の先生、園児、わたしの両親、カズ君のお父さんであるはずの人——。


誰ひとりとして、あの日を境にカズ君の記憶が残っている人はいなくなった。

わたしにとっては今でも忘れられない、よく一緒に遊んだ、大好きだった男の子。



「ねえ」



期待と、どうして今更という落胆の思いがせめぎ合う中、その名を口にする。



「カズ君、なんだよね?」



わたしの心情を見透かしたように、彼は自嘲気味に力なく笑った。





   * * *





困った。

さすがに靴がなければ家に帰れない。


自転車の鍵もカバンに入れたままだし、第一わたしの自転車が駐輪場に残っているすら怪しい。

そんなことを悩んでいると、靴に関しては草野くんが自身の体育館シューズを貸してやると提案してくれた。


学校指定の体育館シューズは真っ白の紐ぐつで、靴底の質を除けば外履きの運動靴と見た目は変わらない。

大きすぎるサイズは紐を締めてどうにかしろとのことだった。


制服に運動靴とか、中学以来の組み合わせだけど贅沢言ってはいられない。



「でもいいの? これ室内用としてはもう使えないかもしれないよ」


「もいいらないものだから構わない。ヨシアキたちの狩りは終わったからな。どうせ俺もすぐにこの高校からいなくなる」



佐野君たちと行動を共にしているらしい草野君だけど、立場は彼らより下みたいだ。

どうして草野君は佐野君たちと一緒にいるのだろう。


日が暮れてしまい薄暗くなった、体育館へと続く渡り廊下。

しゃがみこんで靴紐を締めながら不思議に思う。



「あれー、草野君だ。サッカー部は練習終わり?」



紐を蝶々結びにして立ちあがろうとした時、体育館の出入り口から安達さんが出てきた。

草野君はさりげなく前に出て、彼女にわたしを見えなくする。



「まあな。ハンドは今終わりか」


「んーん。一旦休憩に入っただけ。夜間にOGとの合同練習があるんだ。ところで、後ろの子はひょっとして草野君の彼女さん?」


「ちげえよ。ただの友達だ」



軽く弾んだ声に、草野くんが苦笑しているのはわかった。



「そっか。あんまり見ない顔だけど、何組の子?」



安達さんが草野君の横に回り、わたしを興味津々に観察してくる。

あなたと同じクラスだとは、もう言葉にできなかった。



「どこのクラスでもいいだろう。じゃあな、部活頑張れよ」


「あはは、草野君も部活お疲れ様。また明日ね!」



明るく手を振る安達さんを軽くあしらい、草野君はわたしを先導して体育館に背を向けた。

校舎の入口へと歩く草野君について行きつつ、なんとなく気になって後ろを振り返る。


安達さんと目が合った。

しかもさっきの機嫌が嘘のように、真顔でわたしを睨んできている。


他人の考えやたくらみにとことん疎いわたしでも、安達さんの抱く草野君への好意はなんとなく読み取れた。

要するにわたしは嫉妬されているのだろうなんて、推理したところでどうにもならないことだ。


校舎に入り廊下を抜けて、正面玄関をくぐれば再び外へ出る。



「その顔、痛そうだけど大丈夫なの? 足も」


「痛がったところでどうにもならないからな。そのうち治るさ」



自分のことなのにずいぶんと無頓着だ。



「そういや今井先生や安達さんも、その顔については特に心配してなかったね。日中に散々、それこそ飽きるぐらいにいじられたとか?」


「……いや、あいつらが意図して付けた傷を、普通の人間は認識しないだけだ」



棚上先生がそうだっただろうと付けくわえられ、草野君の怪我が誰によって負わされたものなのか察する。



「どうして? ……仲間じゃないの?」


「俺はただ飼われているだけだ」



もうこの話は終わりだと言わんばかりに、草野君は足を引きずりながらも校門へ行ってしまう。

そっちってことは、駅に向かうんだよね。

やっぱり交通手段はバスのつもりか。


どうしよう、わたしの財布は通学カバンに入れっぱなしだよ。


立ち止まってついていくか悩んで、ひらめいた。

わたしのカバンは捨てられたというのなら、学校のごみ収集用の倉庫に行けば見つかるかもしれない。



「どうした?」



なかなかついてこないわたしにしびれを切らせ、草野君がこちらに戻ってこようとする。



「ちょっと待ってて、ゴミの倉庫にわたしのカバンがないか確認してくる」



言うのが早いか、校舎の壁に沿って駐輪場のほうへと走り出す。

大きすぎる靴では足元を注意しないとすぐにこけてしまいそうだ。


教室などでたまった学校内のごみは、駐輪場の裏側、校舎と大グラウンドの間に設置された小さな倉庫に集められる。

あそこならひょっとして、と。はやる気持ちのままに小走りで目的地に近付いて、目前で足を止めた。


——異臭が、漂ってきたのだ。


嗅覚がそれを感知した途端、今朝の教室であった出来事がたちまちフラッシュバックする。

何も知らなければ、生ゴミか動物の死骸でも捨てられているのかと思うにとどまるところだ。


しかし今、この状況において考えれば、学校のごみとして倉庫の中に捨てられているのが「何」なのかは想像に難くない。

息をのんで引き戸に飛びつく。開かない。鍵がかかっている。



どうしよう。嫌だ。


わたしのせいだ。


わたしが昨日、先生を残して理科室から逃げたりしなければ、こんなことにはならなかった。



先生は悪くないのに、理不尽に存在を消された挙句廃棄物として処分されるなんて、あんまりじゃないか。


無駄だと分かっていても諦めきれない。

重い金属がぶつかる音が何度も響く。

灰色のドアは微かに動くのに、すぐにつかえてしまい中の様子を見ることすらかなわない。


なんで。どうして。


ごめんなさい。


ごめんなさい。



「……ごめんなさい」



泣いて謝ったところで、棚上先生は帰ってこない。






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