VOL.61 一秒の永遠と、空っぽの器が描くキメラの軌道
「悪あがきを……沈みなさい!」
ジュリーさんが苛立ちとともに放った必殺のハイキックが、空気を切り裂く鋭い音を立てて私の側頭部へと迫る。
完璧な軌道。回避不能のタイミング。
――その瞬間。
私の視界から、代々木競技場の眩しいライトも、観客の耳をつんざく歓声も、すべてがセピア色に色褪せ、時間の流れがピタリと停止した。
無音に包まれたリングの中央。
私の目の前に、見上げるほど巨大な男が立っていた。
懐かしい、汗と湿布の匂い。
「……随分とボロボロじゃねえか、夏南」
お父さんだった。
生前と変わらない、ニカッと笑う人懐っこい笑顔。
分厚い胸板には、うっすらと汗が光っている。
お父さんはゆっくりと手を伸ばし、私の頭をポンと撫でた。
その手は大きくて、タコだらけで……たまらなく温かかった。
「お父さん……」
「ずっと見てたぜ。お前があんまりにも不器用に、血反吐を吐きながら頑張るもんだからよ。俺がしゃしゃり出たら、お前が自分の足で歩けなくなると思って我慢してたんだ。……でも、親としてはこれ以上、痛々しくて見てられねえや」
お父さんの声は、少しだけ震えていた。
最強のカリスマと呼ばれた男が、ただの「心配性の父親」の顔をして私を見つめている。
「じゃあ、聞くぜ夏南。……この試合、お前は俺の力を借りて勝ちたいか? 俺に身体を預ければ、あの女の脚ごとへし折って、お前を勝たせてやる」
それは、悪魔の囁きのように甘い誘惑だった。
うんと頷けば、あの日のように『獣』の力が私に満ち、強引にこの絶境を覆すことができるだろう。痛い思いも、怖い思いもせずに済む。
でも。
「……ううん」
私は、頭に乗せられたお父さんの大きな手を、両手でそっと包み込み、ゆっくりと外した。
真っ直ぐに、その目を見返す。
「ありがとう、お父さん。でも、私はもう大丈夫」
「……」
「私は、お父さんのコピーじゃない。悠馬君や、源田さんや、お母さん……みんなから色んなものをもらって、自分の足で立てるようになったんだよ。だから、私は『冬城夏南』として、あの人に勝ちたいの。負けてもいい。全部を差し出してでも……自分の力で、決着をつけたい!」
私の言葉を聞いたお父さんは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き――やがて、心底嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに、破顔した。
「……デカくなったな。お前はもう、俺の背中を追う小さな女の子じゃねえ。一人の、立派なプロレスラーだ」
お父さんは一歩下がり、私に向かって力強くサムズアップを作った。
「安心したぞ、夏南」
その一言を残し、巨大な幻影は霧のようにリングからフッと消え去った。
源田さんは、お父さんの遺言で『夏南が心配で』死に切れねえ』って言ってたわね。
じゃあ、もしかしたら安心させた今、お父さんにはもう会えないかもしれない……
永遠にも似た精神での対話。だが、現実の世界では、わずか一秒足らずの出来事だった。
――時間が、再び動き出す。
シュガァッ!!
私の顔面を粉砕せんと迫る、ジュリーさんの右足。
私はそれを、レスリングのガードではなく、タァンッ!と軽快にキャンバスを蹴る「変則的なバックステップ」で回避した。
アイドルを目指していた頃、ステージでセンターを張るために血を吐くほど練習した、プロレスのセオリーには一切存在しないリズミカルなステップ。
「……!?」
完璧な予測を外され、空を切った右足にジュリーさんの目が驚愕に見開かれた。
私はそのまま背後のロープに飛び退き、反動を利用してリング中央へ一直線に突進した。
ドスッ、ドスッ!と重い足音を立て、両腕を大きく振りかぶる。お父さんを彷彿とさせる、荒々しく直線的なラリアットの構え。
(……浅はかな。パワー勝負など、迎撃の餌食!)
ジュリーさんの脳は、瞬時に最適解を弾き出した。
彼女は両足を踏み張り、私の突進のカウンターとして、全体重を乗せたローリング・エルボーを放とうと構える。
だが、私のラリアットは「フェイント」だ。
接触するコンマ数秒前。
私の全身から突如として殺気とテンションが消失した。
悠馬君から叩き込まれた「極限の脱力」。
自らの重心を、重力に任せて真下のキャンバスへと急降下させる。
「なっ……!?」
眼の前から突然標的が消え、ジュリーさんの必殺のエルボーが空を切り、彼女の体勢が大きく前のめりに崩れる。
私は屈み込んだ状態から、己の背骨を蛇のようにうねらせた。
それはお母さんである『狂乱の女帝』から受け継いだ、人間の関節の可動域を無視したかのような、気味が悪いほど柔軟で予測不能な身のこなし。
私はジュリーさんの脇下を滑るように潜り抜け、完全に彼女の死角へと回り込んだ。
リズミカルな回避から、直線的なパワーファイトへ。そこから一転して泥臭いグラウンドの重心移動を見せ、最後は常軌を逸した狂気的な柔軟性で背後を獲る。
まるで一人の人間の中に、全く異なる複数のレスラーが同居しているかのような「一貫性のないキメラ戦法」。
それが、完璧な絶対王者であるジュリーさんの処理能力に、致命的なバグを生じさせた。
(パワー? テクニック? 一体、どれが本命……!?)
ジュリーさんの動きが、ほんのコンマ一秒、完全に硬直した。
そのたった一つの隙を、私は決して逃さない。
背後に回った私は、ジュリーさんの左腕を捕獲し、そこに茶の湯の作法で培った「最も力が伝わる手首のスナップ」を爆発させた。
「――っ!!」
筋力ではない。絶妙な支点と力点が生み出す、小さな力で相手の重心を根こそぎ奪うてこの原理。
ジュリーさんの体勢が完全に崩れ、キャンバスへと倒れ込む。
私はその勢いを殺さず、ジュリーさんの腕と首を自らの両脚と腕で複雑にロックし、そのまま後方へと美しいブリッジを描いて固めた。
まるで、空へと羽ばたくカモメのように、美しく、そして残酷な弧を描く反り投げ。
お父さんの力でもない。誰かの真似事でもない。
空っぽだった私の器の中で、すべての経験が混ざり合って生まれた、私だけのオリジナル・ホールド。
「決まったァァァッ!! 夏南、そのまま離すな!!」
リングサイドで、源田さんがパイプ椅子を蹴り飛ばして絶叫した。
「ワン!!」
レフェリーの手が、マットを叩く。
ジュリーさんが驚異的な体幹で跳ね返そうとするが、関節の遊びを完全に殺したこのロックは、力で解けるものではない。
「ツー!!」
代々木競技場の一万数千人が、息を呑んで立ち上がった。
ジュリーさんの顔に、初めて明確な「焦燥」が浮かぶ。
お父さん。私、自分の足で立ててるよ。
もう、誰の影も追わない。
私が、冬城夏南だ。
「スリーェェェェェェッ!!!!」
カン、カン、カン、カン、カン!!!
割れるような歓声が、爆発音のように会場を包み込んだ。
その瞬間、私は全身の力が抜け、ジュリーさんの横に大の字になって倒れ込んだ。
視界の端で、ジュリーさんが信じられないという顔で天井を見上げている。
勝った。
プロレス小町を、私の人生を懸けたデスマッチ。
絶対的な女帝から、私が、自力でスリーカウントをもぎ取ったのだ。




