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プロレス・ガール  作者: Tohna
増長と没落
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61/63

VOL.61 一秒の永遠と、空っぽの器が描くキメラの軌道

「悪あがきを……沈みなさい!」


 ジュリーさんが苛立ちとともに放った必殺のハイキックが、空気を切り裂く鋭い音を立てて私の側頭部へと迫る。


 完璧な軌道。回避不能のタイミング。


 ――その瞬間。


 私の視界から、代々木競技場の眩しいライトも、観客の耳をつんざく歓声も、すべてがセピア色に色褪せ、時間の流れがピタリと停止した。


 無音に包まれたリングの中央。


 私の目の前に、見上げるほど巨大な男が立っていた。


 懐かしい、汗と湿布の匂い。


「……随分とボロボロじゃねえか、夏南」


 お父さんだった。


 生前と変わらない、ニカッと笑う人懐っこい笑顔。


 分厚い胸板には、うっすらと汗が光っている。


 お父さんはゆっくりと手を伸ばし、私の頭をポンと撫でた。


 その手は大きくて、タコだらけで……たまらなく温かかった。


「お父さん……」


「ずっと見てたぜ。お前があんまりにも不器用に、血反吐を吐きながら頑張るもんだからよ。俺がしゃしゃり出たら、お前が自分の足で歩けなくなると思って我慢してたんだ。……でも、親としてはこれ以上、痛々しくて見てられねえや」


 お父さんの声は、少しだけ震えていた。


 最強のカリスマと呼ばれた男が、ただの「心配性の父親」の顔をして私を見つめている。


「じゃあ、聞くぜ夏南。……この試合、お前は俺の力を借りて勝ちたいか? 俺に身体を預ければ、あの女の脚ごとへし折って、お前を勝たせてやる」


 それは、悪魔の囁きのように甘い誘惑だった。


 うんと頷けば、あの日のように『獣』の力が私に満ち、強引にこの絶境を覆すことができるだろう。痛い思いも、怖い思いもせずに済む。


 でも。


「……ううん」


 私は、頭に乗せられたお父さんの大きな手を、両手でそっと包み込み、ゆっくりと外した。


 真っ直ぐに、その目を見返す。


「ありがとう、お父さん。でも、私はもう大丈夫」


「……」


「私は、お父さんのコピーじゃない。悠馬君や、源田さんや、お母さん……みんなから色んなものをもらって、自分の足で立てるようになったんだよ。だから、私は『冬城夏南』として、あの人に勝ちたいの。負けてもいい。全部を差し出してでも……自分の力で、決着をつけたい!」


 私の言葉を聞いたお父さんは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き――やがて、心底嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに、破顔した。


「……デカくなったな。お前はもう、俺の背中を追う小さな女の子じゃねえ。一人の、立派なプロレスラーだ」


 お父さんは一歩下がり、私に向かって力強くサムズアップを作った。


「安心したぞ、夏南」


 その一言を残し、巨大な幻影は霧のようにリングからフッと消え去った。


 源田さんは、お父さんの遺言で『夏南が心配で』死に切れねえ』って言ってたわね。


 じゃあ、もしかしたら安心させた今、お父さんにはもう会えないかもしれない……


 永遠にも似た精神での対話。だが、現実の世界では、わずか一秒足らずの出来事だった。


 ――時間が、再び動き出す。


 シュガァッ!!


 私の顔面を粉砕せんと迫る、ジュリーさんの右足。


 私はそれを、レスリングのガードではなく、タァンッ!と軽快にキャンバスを蹴る「変則的なバックステップ」で回避した。


 アイドルを目指していた頃、ステージでセンターを張るために血を吐くほど練習した、プロレスのセオリーには一切存在しないリズミカルなステップ。

 

「……!?」


 完璧な予測を外され、空を切った右足にジュリーさんの目が驚愕に見開かれた。


 私はそのまま背後のロープに飛び退き、反動を利用してリング中央へ一直線に突進した。


 ドスッ、ドスッ!と重い足音を立て、両腕を大きく振りかぶる。お父さんを彷彿とさせる、荒々しく直線的なラリアットの構え。


(……浅はかな。パワー勝負など、迎撃の餌食!)


 ジュリーさんの脳は、瞬時に最適解を弾き出した。


 彼女は両足を踏み張り、私の突進のカウンターとして、全体重を乗せたローリング・エルボーを放とうと構える。


 だが、私のラリアットは「フェイント」だ。


 接触するコンマ数秒前。


 私の全身から突如として殺気とテンションが消失した。


 悠馬君から叩き込まれた「極限の脱力」。

 

 自らの重心を、重力に任せて真下のキャンバスへと急降下させる。


「なっ……!?」


 眼の前から突然標的が消え、ジュリーさんの必殺のエルボーが空を切り、彼女の体勢が大きく前のめりに崩れる。


 私は屈み込んだ状態から、己の背骨を蛇のようにうねらせた。


 それはお母さんである『狂乱の女帝』から受け継いだ、人間の関節の可動域を無視したかのような、気味が悪いほど柔軟で予測不能な身のこなし。


 私はジュリーさんの脇下を滑るように潜り抜け、完全に彼女の死角へと回り込んだ。


 リズミカルな回避から、直線的なパワーファイトへ。そこから一転して泥臭いグラウンドの重心移動を見せ、最後は常軌を逸した狂気的な柔軟性で背後を獲る。


 まるで一人の人間の中に、全く異なる複数のレスラーが同居しているかのような「一貫性のないキメラ戦法」。


 それが、完璧な絶対王者であるジュリーさんの処理能力に、致命的なバグを生じさせた。


(パワー? テクニック? 一体、どれが本命……!?)


 ジュリーさんの動きが、ほんのコンマ一秒、完全に硬直した。


 そのたった一つの隙を、私は決して逃さない。


 背後に回った私は、ジュリーさんの左腕を捕獲し、そこに茶の湯の作法で培った「最も力が伝わる手首のスナップ」を爆発させた。


「――っ!!」


 筋力ではない。絶妙な支点と力点が生み出す、小さな力で相手の重心を根こそぎ奪うてこの原理。


 ジュリーさんの体勢が完全に崩れ、キャンバスへと倒れ込む。


 私はその勢いを殺さず、ジュリーさんの腕と首を自らの両脚と腕で複雑にロックし、そのまま後方へと美しいブリッジを描いて固めた。


 まるで、空へと羽ばたくカモメのように、美しく、そして残酷な弧を描く反り投げ。


 お父さんの力でもない。誰かの真似事でもない。


 空っぽだった私の器の中で、すべての経験が混ざり合って生まれた、私だけのオリジナル・ホールド。


「決まったァァァッ!! 夏南、そのまま離すな!!」


 リングサイドで、源田さんがパイプ椅子を蹴り飛ばして絶叫した。


「ワン!!」


 レフェリーの手が、マットを叩く。


 ジュリーさんが驚異的な体幹で跳ね返そうとするが、関節の遊びを完全に殺したこのロックは、力で解けるものではない。


「ツー!!」


 代々木競技場の一万数千人が、息を呑んで立ち上がった。


 ジュリーさんの顔に、初めて明確な「焦燥」が浮かぶ。


 お父さん。私、自分の足で立ててるよ。


 もう、誰の影も追わない。


 私が、冬城夏南だ。


「スリーェェェェェェッ!!!!」


 カン、カン、カン、カン、カン!!!


 割れるような歓声が、爆発音のように会場を包み込んだ。


 その瞬間、私は全身の力が抜け、ジュリーさんの横に大の字になって倒れ込んだ。


 視界の端で、ジュリーさんが信じられないという顔で天井を見上げている。


 勝った。


 プロレス小町を、私の人生を懸けたデスマッチ。


 絶対的な女帝から、私が、自力でスリーカウントをもぎ取ったのだ。


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